「ハゲタカ」シリーズの第5弾である。
あれ?
禿鷹こと禿富鷹秋(とくとみ・たかあき)は、第4弾の「禿鷹狩り」で死んだはずである。
文庫の帯には
「死せるハゲタカ vs 極悪女警部」とある。
私的には
「死せるハゲタカ、警察組織を脅かす」
のほうがよかったと思うのであるが・・・
物語は、死んだハゲタカが残したモノが、警察全体と暴力団さらマフィアまで巻き込んで騒動をというものである。
ハゲタカ組と反ハゲタカ組の対決のようになるのであるが、ハゲタカ組に属す人々は、何も好き好んでハゲタカ組にいるわけではなく、さらに言えばハゲタカ組の面々こそハゲタカにいいようにされて迷惑をこうむっていた者たちである。
なのに、なぜかハゲタカ組になっている。
反ハゲタカ組は、体制派であるがいわば「汚い奴ら」である。
ハゲタカは無法であったしとんでもない奴ではあったが「汚い奴」ではなかったように思う。
だから、ハゲタカ組の面々は正義をつらいているわけではないが、とんでもなく汚い奴を許せないのではないだろうか。
物語は、ハゲタカが残した警察の不正に関する書類を巡る争いである。
手に入れた者は、その使用方法にそれぞれの思惑があり、その思惑はそれぞれの立場で違うのだが、だれもがまず自らのために使いたいと思う。
そしてその使い方は、自らが信ずるあるいは信じようとする「正義」を理屈として持っている。
このあたりが、ハゲタカとは違う。
彼は「正義」なんて考えを持っていなかった。
だから、その行動は明確であったのだ。
つまり「正義」なんて考えたところか「堕落」が始まるのだ。
警察全体を巻き込みその書類の奪い合いが始まるのだが、目的のためには平気で人を陥れる、女ハゲタカのような岩動寿満子(いするぎ・すまこ)警部が絡むことによって、さらに無法になり、暴力団やマフィアまで巻き込んでの騒動となる。
で、弱い奴らは消されていくのである。
「弱い奴」というのは、徹しきれない奴、中途半端な欲を持っているやつである。
一歩踏み込んだら、徹底しないとやられるのである。
とりあえず「謎」、つまり誰がどっち側なのか、というものはあるのだが、そんなものどうでもいい。
ともかく、人間の汚さを読めばいいのだ。
この物語を読むと
「これはフィクションで、人はこれほど汚くはない」
なんて考え方を捨てる。
幸福なるために、金や財産や女や権力を手に入れるのだ、というならば修羅の道を平然として歩いていかなければならない。
修羅の道を歩いてゆけないなら、自らの欲望をいかに抑えるかが大切で、そうすることによって実は幸福に近づくのではないだろうか?
そんなことを思うのである。
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のほうがよかったと思うのであるが・・・
物語は、死んだハゲタカが残したモノが、警察全体と暴力団さらマフィアまで巻き込んで騒動をというものである。
ハゲタカ組と反ハゲタカ組の対決のようになるのであるが、ハゲタカ組に属す人々は、何も好き好んでハゲタカ組にいるわけではなく、さらに言えばハゲタカ組の面々こそハゲタカにいいようにされて迷惑をこうむっていた者たちである。
なのに、なぜかハゲタカ組になっている。
反ハゲタカ組は、体制派であるがいわば「汚い奴ら」である。
ハゲタカは無法であったしとんでもない奴ではあったが「汚い奴」ではなかったように思う。
だから、ハゲタカ組の面々は正義をつらいているわけではないが、とんでもなく汚い奴を許せないのではないだろうか。
物語は、ハゲタカが残した警察の不正に関する書類を巡る争いである。
手に入れた者は、その使用方法にそれぞれの思惑があり、その思惑はそれぞれの立場で違うのだが、だれもがまず自らのために使いたいと思う。
そしてその使い方は、自らが信ずるあるいは信じようとする「正義」を理屈として持っている。
このあたりが、ハゲタカとは違う。
彼は「正義」なんて考えを持っていなかった。
だから、その行動は明確であったのだ。
つまり「正義」なんて考えたところか「堕落」が始まるのだ。
警察全体を巻き込みその書類の奪い合いが始まるのだが、目的のためには平気で人を陥れる、女ハゲタカのような岩動寿満子(いするぎ・すまこ)警部が絡むことによって、さらに無法になり、暴力団やマフィアまで巻き込んでの騒動となる。
で、弱い奴らは消されていくのである。
「弱い奴」というのは、徹しきれない奴、中途半端な欲を持っているやつである。
一歩踏み込んだら、徹底しないとやられるのである。
とりあえず「謎」、つまり誰がどっち側なのか、というものはあるのだが、そんなものどうでもいい。
ともかく、人間の汚さを読めばいいのだ。
この物語を読むと
「これはフィクションで、人はこれほど汚くはない」
なんて考え方を捨てる。
幸福なるために、金や財産や女や権力を手に入れるのだ、というならば修羅の道を平然として歩いていかなければならない。
修羅の道を歩いてゆけないなら、自らの欲望をいかに抑えるかが大切で、そうすることによって実は幸福に近づくのではないだろうか?
そんなことを思うのである。
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