-30歳、
僕は
彼女を捨て
会社を辞め
出家した。-
と帯にある。
この惹句に誘われて読んだのである。
内容は永平寺に修行した1年間を振り返ったものである。
永平寺の修行は相当に厳しいらしい、ということはテレビ(NHK特集だったか)を見たのと、知っている曹洞宗の和尚が逃げ出したとかという噂とかでなんとなく知っていた。
しかし、この本を読んでわかったのだが、厳しいなどというレベルではないみたいである。通常の立ち居振る舞いだけでなく、食事の仕方、眠り方、トイレの使い方全てに「規矩(きく)」「作法」があり、その規矩・作法どうりに行わないと駄目なのである。
駄目、ということは厳しい制裁があるのである。殴る蹴る、ということなのである。しかもそれは全て問答無用なのである。
この殴る蹴るということがなぜ行われているのかということを、筆者は先輩となったとき後輩をみて、わかるのである。
古参として後輩に厳しく接することは、後輩のことではなく自分の修行なのである。修行として心を鬼にして厳しく接しなければならないのである。
(前略)われわれは、もっと自然を知らなくてはいけない。また同時に、そのわれわれ人間自身がまぎれもなく自然の一部であるということに気づかなくてはならない。この地球上で人間が生きていく環境とは、人間が作るものではなく、自然から与えられるものでることをさとらなくてはならない。地球の自然の中から生まれた生命体は、地球の自然とともにあって、はじめて生きていけるものなのだと思う。
修行をするということはつまり「自然」をしることなのだろうか?
永平寺とはどういうところかというと
その心構え次第で、無言の説法を聞く尊い修行の場にもなれば、また夜露をしのぐだけのただの廂(ひさし)にもなってしまう。だがそこには、一方的に強制するような働きはどこにもない。ただ、ありのままを示しているだけである。どう受けとめるかは、すべて己れ自身に委ねられているのだ。これが永平寺の「自由」である。
これは永平寺に限らずこの社会のことでもある。社会をどう受けとめるかによって、どう生きるのかわかるのであって、その受けとめる、ということは受動的であるかに見えて実は積極的な能動なのである。
そして筆者は永平寺こういうことを答えとして見つける。
生きるということから余分な付加価値をすべて削ぎ落として考えてみると、無闇に心を悩ませていた多くのことが忘れられた。まず、このただ生きているという事実を無条件に受け入れ、そしてその生を営ませている日々の一瞬一瞬を大切に生きる。これが、永平寺の、洗面し、食べ、排泄し、眠る単調な日々の繰り返しの中で、体で感じた僕なりのひとつの答えだった。
こういう境地を得るためにはそれなりの厳しさが必要なのだということが、この本を読んでわかる。
今となってはもう永平寺で修行できるはずもないのだが、修行ということを経験していても悪くはなかったかな、と思ったりしたのである。
宗教に「救い」を求める人がおおく、それにつけこむ変なものがあふれているが、「救い」を「やさしさ」に求めることが間違いなのではないか、と思ったりした。
この本は、何回か読み返してみる。その時々で深く感じる部分が多くありそうだ。
僕は
彼女を捨て
会社を辞め
出家した。-
と帯にある。
この惹句に誘われて読んだのである。
内容は永平寺に修行した1年間を振り返ったものである。
永平寺の修行は相当に厳しいらしい、ということはテレビ(NHK特集だったか)を見たのと、知っている曹洞宗の和尚が逃げ出したとかという噂とかでなんとなく知っていた。
しかし、この本を読んでわかったのだが、厳しいなどというレベルではないみたいである。通常の立ち居振る舞いだけでなく、食事の仕方、眠り方、トイレの使い方全てに「規矩(きく)」「作法」があり、その規矩・作法どうりに行わないと駄目なのである。
駄目、ということは厳しい制裁があるのである。殴る蹴る、ということなのである。しかもそれは全て問答無用なのである。
この殴る蹴るということがなぜ行われているのかということを、筆者は先輩となったとき後輩をみて、わかるのである。
古参として後輩に厳しく接することは、後輩のことではなく自分の修行なのである。修行として心を鬼にして厳しく接しなければならないのである。
(前略)われわれは、もっと自然を知らなくてはいけない。また同時に、そのわれわれ人間自身がまぎれもなく自然の一部であるということに気づかなくてはならない。この地球上で人間が生きていく環境とは、人間が作るものではなく、自然から与えられるものでることをさとらなくてはならない。地球の自然の中から生まれた生命体は、地球の自然とともにあって、はじめて生きていけるものなのだと思う。
修行をするということはつまり「自然」をしることなのだろうか?
永平寺とはどういうところかというと
その心構え次第で、無言の説法を聞く尊い修行の場にもなれば、また夜露をしのぐだけのただの廂(ひさし)にもなってしまう。だがそこには、一方的に強制するような働きはどこにもない。ただ、ありのままを示しているだけである。どう受けとめるかは、すべて己れ自身に委ねられているのだ。これが永平寺の「自由」である。
これは永平寺に限らずこの社会のことでもある。社会をどう受けとめるかによって、どう生きるのかわかるのであって、その受けとめる、ということは受動的であるかに見えて実は積極的な能動なのである。
そして筆者は永平寺こういうことを答えとして見つける。
生きるということから余分な付加価値をすべて削ぎ落として考えてみると、無闇に心を悩ませていた多くのことが忘れられた。まず、このただ生きているという事実を無条件に受け入れ、そしてその生を営ませている日々の一瞬一瞬を大切に生きる。これが、永平寺の、洗面し、食べ、排泄し、眠る単調な日々の繰り返しの中で、体で感じた僕なりのひとつの答えだった。
こういう境地を得るためにはそれなりの厳しさが必要なのだということが、この本を読んでわかる。
今となってはもう永平寺で修行できるはずもないのだが、修行ということを経験していても悪くはなかったかな、と思ったりしたのである。
宗教に「救い」を求める人がおおく、それにつけこむ変なものがあふれているが、「救い」を「やさしさ」に求めることが間違いなのではないか、と思ったりした。
この本は、何回か読み返してみる。その時々で深く感じる部分が多くありそうだ。
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