松本市の美ヶ原温泉に宿泊。
この宿の大浴場も毎回一人占め、私の風呂に入る時刻がおかしいのか?
というわけで、本日の天気予報も「雨」
宿の人の話では
『松本は盆地なので予報が雨でも降らない時が多い』
とのこと。
そのことと、私の「晴男」の強さがどうでるかが問題。
ホテルから松本駅までバスで送ってもらう。
途中、1回も松本城を見ることができなかった。
前日から、まだ一度も松本城を見ていない。
盆地の真ん中にあるのだから、絶対見えると思っていたのだが、見えない。
城は、遠くから見える景色もいいものなのに。
会津若松の鶴ヶ城は、遠くから望むと、いやでも落城を思い出し「城が燃える」ということは「この世の終わり」と思うんだろうなあ、と白虎隊の悲劇を実感したりするのだが、黒い松本城はなかなか見えない。
で、松本駅から歩いてお城に向かったのだが、それでも見えない。
残念!
もしかしたら、城の姿をあまり見せないように築城されたのだろうか?
そんな思いもしてくる。
そして、とうとう見つけました。
「大名町通り」かを歩いていると「城の見える小路」(?)のような案内があり、その道を行ってみると、見えました。
松本城は「あこがれ」の城なんです。
天守を目指そう!
おお!ホントきれいだなあ。
つべこべ言わずに、天守閣内部へ。
と、注意書きがあります。
国宝松本城天守の耐震診断結果について
松本市では、来場者の安全確保と文化財的価値の維持を目的として、文化庁の重要文化財(建造物)耐震診断指針に基づき、国宝松本城天守の
耐震診断を実施しました。
診断の結果、『大地震動時の倒壊危険性及び中地震動時の非倒壊』と判定され、松本城天守の一部は震度6強から7の大地震動時の耐震性能が
不足していることが判明いたしました。
この診断結果を踏まえ、松本市は直ちに耐震対策や避難誘導計画の策定等に着手いたしましたが、耐震工事の完了までには数年間の期間が必要
となる状況です。
天守へ入場される皆様におかれましては、こうした状況及び重要文化財としての特性などをご理解のうえご入場いただくとともに、地震発生時
には、係員の指示に従い、落ち着いて行動していただきますようお願いいたします。
平成29年5月 松本城管理事務所長
フーム、覚悟して登れ、ということか。
まあこちらは、何度も大きな地震を経験している。揺れればじたばたしない、ということだけは大丈夫。
ということで、登り始めるが、本当に木造建築。
すごい!
途中で、外を除くと、徐々に明るくなってきている。
それにしても急な階段である。
この階段では注意書きがあるにもかかわらず、梁に頭をぶつけた。
ほんとすごい。
木造でこんな大きな城ができるなんて、実感する。
天守から外を望む。もっと晴れていればいい景色なんだろうけれども。
もう夢中ですわ。
月見櫓から本丸を
天守の真下から
どっから見ても飽きない。かっこいいです。
今度は堀の外側から、角度によって表情が変わるのがいいです。
ああ、一眼レフのカメラで撮りたい。
松本城を築城したのは『石川数正、康長』父子。
徳川家康の家老であり、酒井忠次と双璧で家康を支えていたが、小牧長久手の戦いの後、徳川家を出奔し豊臣家につかえる。
秀吉によって、松本に移封され、城を築いた。没後、嫡男康長が石川家を継ぎ、関が原では東軍に属し、戦後所領は安堵されたが、その後「大久保長安事件」により改易された。
山岡荘八の徳川家康においては、この石川数正の出奔に当たっての苦悩が描かれており、私は数正に同情したものだった。
ちなみに、この物語では、石川数正や本多重次(作左衛門)や大久保長安など、いわゆる徳川家の正統ではない家臣たちが多く描かれている。
そのあたりが、若いころは「まどろっこしい」と感じていたが、年を経るにつれ味わい深い人物として記憶に残っている。
というわけで、石川数正が築城した松本城、ということも、私の松本城愛の一因でもある。
そんなことを思いながら、そして後ろ髪をひかれながら、松本城を後にした。
今度来るときは、晴れた日で、一眼レフをもって、と思いましたです。
さて、続いて訪れたのは「四柱神社」。
「旧開智学校」という選択もあったのだが、歩いて駅へ向かう道すがらということもあり・・・
本日午後4時から茅の輪くぐりができるということで、惜しかったです。
御朱印をいただき、次へ
ナワテ通り
何と言いますか、好きな人には好きな街でしょうね。
ここで「ざるそば」を昼食として、中町通り。
どちらかといえば、こちらのほうが好みか。
ということで松本駅まで戻ってまいりました。
松本駅では、あの「あずさ」を目撃。
14時4分発「しなの11号」で長野駅まで向かう。
長野からは北陸新幹線「はくたか566号」で東京へ。
東京からは横浜関内へ。
本日は、横浜中華街で中華を食す予定。
ということで、中華はやっぱり二人では多すぎた。
山下公園あたりをぶらりとしてホテルへ戻る。
氷川丸
横浜の月
関帝廟
つづく
この宿の大浴場も毎回一人占め、私の風呂に入る時刻がおかしいのか?
というわけで、本日の天気予報も「雨」
宿の人の話では
『松本は盆地なので予報が雨でも降らない時が多い』
とのこと。
そのことと、私の「晴男」の強さがどうでるかが問題。
ホテルから松本駅までバスで送ってもらう。
途中、1回も松本城を見ることができなかった。
前日から、まだ一度も松本城を見ていない。
盆地の真ん中にあるのだから、絶対見えると思っていたのだが、見えない。
城は、遠くから見える景色もいいものなのに。
会津若松の鶴ヶ城は、遠くから望むと、いやでも落城を思い出し「城が燃える」ということは「この世の終わり」と思うんだろうなあ、と白虎隊の悲劇を実感したりするのだが、黒い松本城はなかなか見えない。
で、松本駅から歩いてお城に向かったのだが、それでも見えない。
残念!
もしかしたら、城の姿をあまり見せないように築城されたのだろうか?
そんな思いもしてくる。
そして、とうとう見つけました。
「大名町通り」かを歩いていると「城の見える小路」(?)のような案内があり、その道を行ってみると、見えました。
松本城は「あこがれ」の城なんです。
天守を目指そう!
おお!ホントきれいだなあ。
つべこべ言わずに、天守閣内部へ。
と、注意書きがあります。
国宝松本城天守の耐震診断結果について
松本市では、来場者の安全確保と文化財的価値の維持を目的として、文化庁の重要文化財(建造物)耐震診断指針に基づき、国宝松本城天守の
耐震診断を実施しました。
診断の結果、『大地震動時の倒壊危険性及び中地震動時の非倒壊』と判定され、松本城天守の一部は震度6強から7の大地震動時の耐震性能が
不足していることが判明いたしました。
この診断結果を踏まえ、松本市は直ちに耐震対策や避難誘導計画の策定等に着手いたしましたが、耐震工事の完了までには数年間の期間が必要
となる状況です。
天守へ入場される皆様におかれましては、こうした状況及び重要文化財としての特性などをご理解のうえご入場いただくとともに、地震発生時
には、係員の指示に従い、落ち着いて行動していただきますようお願いいたします。
平成29年5月 松本城管理事務所長
フーム、覚悟して登れ、ということか。
まあこちらは、何度も大きな地震を経験している。揺れればじたばたしない、ということだけは大丈夫。
ということで、登り始めるが、本当に木造建築。
すごい!
途中で、外を除くと、徐々に明るくなってきている。
それにしても急な階段である。
この階段では注意書きがあるにもかかわらず、梁に頭をぶつけた。
ほんとすごい。
木造でこんな大きな城ができるなんて、実感する。
天守から外を望む。もっと晴れていればいい景色なんだろうけれども。
もう夢中ですわ。
月見櫓から本丸を
天守の真下から
どっから見ても飽きない。かっこいいです。
今度は堀の外側から、角度によって表情が変わるのがいいです。
ああ、一眼レフのカメラで撮りたい。
松本城を築城したのは『石川数正、康長』父子。
徳川家康の家老であり、酒井忠次と双璧で家康を支えていたが、小牧長久手の戦いの後、徳川家を出奔し豊臣家につかえる。
秀吉によって、松本に移封され、城を築いた。没後、嫡男康長が石川家を継ぎ、関が原では東軍に属し、戦後所領は安堵されたが、その後「大久保長安事件」により改易された。
山岡荘八の徳川家康においては、この石川数正の出奔に当たっての苦悩が描かれており、私は数正に同情したものだった。
ちなみに、この物語では、石川数正や本多重次(作左衛門)や大久保長安など、いわゆる徳川家の正統ではない家臣たちが多く描かれている。
そのあたりが、若いころは「まどろっこしい」と感じていたが、年を経るにつれ味わい深い人物として記憶に残っている。
というわけで、石川数正が築城した松本城、ということも、私の松本城愛の一因でもある。
そんなことを思いながら、そして後ろ髪をひかれながら、松本城を後にした。
今度来るときは、晴れた日で、一眼レフをもって、と思いましたです。
さて、続いて訪れたのは「四柱神社」。
「旧開智学校」という選択もあったのだが、歩いて駅へ向かう道すがらということもあり・・・
本日午後4時から茅の輪くぐりができるということで、惜しかったです。
御朱印をいただき、次へ
ナワテ通り
何と言いますか、好きな人には好きな街でしょうね。
ここで「ざるそば」を昼食として、中町通り。
どちらかといえば、こちらのほうが好みか。
ということで松本駅まで戻ってまいりました。
松本駅では、あの「あずさ」を目撃。
14時4分発「しなの11号」で長野駅まで向かう。
長野からは北陸新幹線「はくたか566号」で東京へ。
東京からは横浜関内へ。
本日は、横浜中華街で中華を食す予定。
ということで、中華はやっぱり二人では多すぎた。
山下公園あたりをぶらりとしてホテルへ戻る。
氷川丸
横浜の月
関帝廟
つづく
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