読書日記 嘉壽家堂 アネックス

読んだ本の感想を中心に、ひごろ思っていることをあれこれと綴っています。

中尊寺紅葉

2005-11-13 21:18:54 | 観た、聴いた
先週の土曜日、平泉の「毛越寺」「中尊寺」に紅葉を観にいった。
毛越寺は十分紅葉していたが、中尊寺は「マダ」であった。

悔しかったので、今日、再び行ってきた。
狙いは「金色堂」横「経堂」前の「いろはもみじ」
見事に色づいていた。

それにしても中尊寺は義経人気なの観光客がいっぱい。
先週などは午後から行ったものだから、駐車場に入るのに30分も要した。
なにしろ月見坂がいっぱいなのである。

今日は、それを予測して朝8時に家を出て、9時に到着。
観光客が来る前に写真を撮ることにした。
流石に朝早くは人が少ない、しかし三脚を担いだカメラマンだらけ。
急ぎ足で、目的の「いろはもみじ」へ、じっくりと堪能をしてきた。
その後、観光客がどっと押し寄せ、早く来てよかった、と思ったのでした。

この写真は早速Villa嘉壽家堂にアップしましたのでご覧ください。
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ALWAYS 三丁目の夕日

2005-11-12 21:33:12 | 観た、聴いた
今日は、映画「ALWAYS 三丁目の夕日」を観てきた。
丁度コンビニで、コミックを購入して、ストーリーも若干わかっていて、これを映像で見るのも面白いかな、という気持で行ったのである。

いやあ、泣けた、泣いた、頬を伝わる涙、なんて、すごーく久しぶりの感覚であった。
ずっと泣いているわけではなくて、笑いもあるのだ。

さて、映画を観る前には「レトロ」というものを多く感じさせてくれるのだろうな、と思っていたのだが、「レトロ」な部分に「懐かしさ」というのをあまり感じなかった。それは、多分東京のレトロと田舎育ちの私にとってのレトロというのが違うからなんだろう、と思う。

「ああ、東京ではこんなだったんだ」という感想のほうが強かった。
昭和33年頃の東京が舞台であったが、こんな状況なんて田舎では今までもありえないことであって、この映画は「東京のレトロ」であるので、昔の東京を知らない人にとっては「懐かしさ」というのはあまり感じないかもしれない。

しかし、そのことだけがこの映画の「ホント」の部分ではないようだ。
「人情」というか「人と人とのつながり」ということに「懐かしさ」を感じ、そして「失った」ということを思うのではないか。

血の繋がった「家族」でさえ、今は大きなつながりを持たないような気がする。それは、一人一人が独立した存在、になってきたからではないか。
昔は、一人一人が集まって共に生きる、ことにしなければ生きていけなかった。今では、共に生きなくても、生きていける。
それは「福祉」によるところが大きい。
つまりは、独立して生きているようだが自立して生きているのではない。
自立ということであれば、昔のほうがそれぞれ助け合って自立していたように思える。

だからといって「昔は良かった」なんていわない。
ただ、そんなふうに生活していたんだ、ということをこの映画で確認できた、のだ。
人は人を思いやり、思いやるからこそ相手からも思いやられるのだ。
そこに「笑い」もあり「涙」もありそして「幸福」があるのではないだろうか。

それにしても、泣いた・・・泣いた。
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石巻

2005-11-11 23:50:45 | 日々雑感
昨日、出張で石巻に行ってきました。
チョイト時間があったので、街と北上河畔を散策というかカメラを持ってぶらぶらしました。

昼間の街の中はほんとさびしくて、ひっそりとしていました。
いわゆる「シャッター街」というカンジで、街の中はこういうふうにさびれているんだなあ。

そして本日、Villa嘉壽家堂に橋の写真と一緒に
「巻石」という石巻という地名の由来となったところ
「中瀬」石ノ森章太郎漫画館があるところ
をアップしました。

ぜひ、ごらんあれ。
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理想の生活 NHK連続ドラマ

2005-11-10 23:22:08 | 観た、聴いた
ここ一ヶ月、夜11時からこの番組を見ていた。
本日で最終回。

60歳で定年を迎えた主人公(堺正章)がこれまでの会社一辺倒の生活から定年を期に家庭に入り込もうとするが・・・
ということから始まる。

「老後」という問題は、非常に切実な問題である。
身につまされる出来事ばかりが描かれていた。

最後はハッピーエンドとなったが、そうそううまくいくはずがないのが現実である。
親のこと、妻のこと、子供たちのこと、そして何より自分のこと。
これからどうしたらいいのか。
ということは、ここ何年もの間の自分にとっての課題であり、解決されていない、方向さえ見つけることのできない問題である。

このドラマのようにはいかないが、いつか、せめて方向性だけでもナントカしなくては。
というわけで、まだまだそんな年齢ではないが、感情移入して見ていたのだ。
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コンバット

2005-11-09 23:22:15 | 観た、聴いた
今週からNHKのBSで「ローハイド」と「コンバット」が始まった。
どちらも1960年代のアメリカのテレビ映画である。

残念ながらというか、当然というか、私はリアルタイムで見ていない。
勿論、私と同年代で見ている人はいる。
職場で話をしたら、年上の人たちは見ていたとのお話。

さて、私は、ローハイドはあまり好みではなく、コンバットがいい。

コンバットのすごいところは、明確に反戦を打ち出しているところだ。
それも、現実的な戦争に向かい合っている中(シュチュエーション)での反戦である。

アメリカのすごいところは、勝って、こんな反戦映画をテレビで流すところである。
日本がもし勝っていたら、反戦映画など見ることも作ることもできなかったであろ
う。
今日もサンダース軍曹が「もし戦争が終わって国に帰っても、俺は多くの人を殺してきたということを忘れてはならない、一生それを背負って生きていくんだ」
ということを言っていた。

今、靖国神社問題が大きく取り上げられているが、アジアの国々が恐れているもしくは危惧しているのは、日本が本当に反戦の国なのか信用できないからだろう。

日本は勝てば勝つほど「反戦」を閉じ込めてしまう「匂い」や「体質」が、外から見ればまだあるんだろうと思う。

では、それを解消するにはどうしたらいいのか?
ということは思いつかないが、日本は今のままでは国際的にも国内的にもアカンと思うのである。

というようなことをコンバットを見ながら思ったのであった。
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論語 貝塚茂樹 講談社現代新書

2005-11-08 23:44:36 | 読んだ
1999年に購入し、何回目かまたペラペラめくってみている。
論語というのは、あの
「子曰く(し、いわく)・・・」で始まるヤツである。

私はなんだかこの論語というやつが、中・高校のあたりから気になっていた。
ので、イロイロな本や漫画を読んでいた。というか、この本でやっとホンモノを手にしたのである。

著者の貝塚茂樹は中国古代史の権威、だと思う。
それから、あの湯川秀樹(ノーベル物理学賞)のお兄さんではなかったか?(間違っていたらゴメンナサイ)

権威ではあるが、割とやさしく書いてある。

論語は「孔子」の言行を弟子たちが語り継いだもの。
これは仏教でもキリスト教でも同じようで、こういう人たちが直接著述するわけではない。やっぱり「生き方」で「倫理」や「哲学」を実践した人が偉大な人として後世に伝えられるのか。

論語と言うのは、冷静に考えれば「当たり前のこと」じゃないかと思ったりする。
人というのは「当たり前のこと」を「当たり前」にできないものなんだろう。

例えば
子曰く、巧言令色、鮮ないかな仁。
(しいわく、こうげんれいしょく、すくないかなじん)
と言う言葉がある。

上手なお世辞、こぼれるような愛想笑いは、まことの愛、つまり仁、そんなものとは縁遠いものだよ。

と言う意味だが、孔子の時代から2500年以上も経っているのに、まだこんな人いっぱいいるよね。
なんなんだろう!

やっぱ普遍なんだろうねえ、だから、いつまでも続くんでしょう。
チョット近頃、人、というものに嫌気がさしているので、論語を読んで頭を叩かれようと思っています。
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ローマ人の物語20 悪名高き皇帝たち4 塩野七生 新潮文庫

2005-11-07 23:23:09 | 読んだ
いよいよ「ネロ」です。
「悪名高き」といえばネロ。
といっても、なにが悪名高きにさせたのかはよくわかっていない。
ネロは16歳10ヶ月で皇帝に就任した。

著者は言う
皇帝の責務の二大重要事は「安全」と「食」の確保である
ネロが皇帝に就任した当時はこの二つとも保証されていた

とも。
だから、若い皇帝をローマ市民は歓迎した。

つまり、
人間は、問題がなければ不満を感じないというわけではない。枝葉末節なことであろうと問題を探し出しては、それを不満の種にするのは人間性の現実である。
ということなのだそうだ。

今の日本でも、日常生活を送るうえでの「安全と食の確保」には大きな不満はないと思われるが、そのことへの感謝などは一顧だにされず、多くの不満が渦巻いている。
そういうときには「気分一新」を願うものらしい。

小泉さんが歓迎されたのもそういうことかも知れず、今もって支持率が下がらないのは気分を一新させてくれるのではないか?という期待が大きいからではないか、なんて思ってしまう。
しかし、人間は気分を一新することは望んでも、暮らしを新たにすることはあまり望まないらしい。

したがって、ネロに期待したのは「気分の一新」だった。

セネカがネロを補佐していた。
そしてその政治方針は「アウグストゥスの政治」であった。
しかし、著者は問う。
アウグストゥスの政治の本質は<デリケートなフィクション>であるが、これを機能させていくには冷徹さが必要。それが充分であったか?
答えは「No」である。

セネカはネロに対して「寛容について」という書を著し寛容の精神を説いた。しかし、著者は寛容であり続けるには絶対の必要条件として冷徹が必要だとしている。
そして
(セネカという)何ともスゴい教師に恵まれていたと言うしかないネロだが、教育の成果とは、教える側の資質よりも教わる側の資質に左右されるものである
としている。

ネロが悪名高き皇帝となったのは、多くの要因があるが、若いことが最も大きなものだったような気がする。
若いということは「口出し」をする者が増え「言うことを聴かない」者も増え「ちやほやする」者が増え、なにが正しくなにが誤りなのかわからなくなることである。
そこに「寛容」の精神では、道をあやまるのは自明の理ではないか。

ということもその結果がわかっているからいえるのであってねえ。

ネロは結局「安全」と「食」を保証できなくなり失脚する。
そしてローマ市民は「アウグストゥス」の血に訣別した。しかし、帝政とは訣別しなった。

このローマ人の物語を読むと「政治」とは何か?ということを改めて考えさせられるが、政治とはもしかしたら究極の「パーソナリティ」によるものではないだろうか?なんて思い始めている。
誰もが満足できる政治はありえない、ゆえに「デリケートなフィクション」であらねばならず、それに納得性を付け加えるには「パーソナリティ」がもっとも大きなファクターになるんではないか。
なんてね。

ローマ人の物語はマダマダ続くらしい。
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いも煮会

2005-11-06 23:11:46 | 日々雑感
今日は毎年恒例の地区行事「運動会、防災訓練、いも煮会」であった。
昨日から準備をして、今日は暑くもなく寒くもなくいい天気で過ごすことができた。

運動会といったって、パン食い競争とグランドゴルフのホールインワン競争だけである。
それから消防署からきていただき、通報訓練、消火訓練、救急車がくるまでの応急救急訓練などを行い、芋煮会。

当地方の芋煮会は、サトイモ、豚肉、味噌である。
それを100人前作る。
大鍋があるのである。すごいのである。
以前、旧家で味噌を作るのに使っていた大鍋と「まき」を使ってもやす簡易竈のようなものがセットになっている。

この大鍋で作ると、材料が少々不味かろうが、味付けがいい加減すぎようがおいしいのである。

ビールといも煮とおにぎり。
これを外で食べる、大勢で食べる、と、おいしいのでございます。

この準備と後片付けで、ゆっくり楽しむことができないが、準備と後片付けで地域の人たちとお話をする。これがいいのである。そして、このつながりこそが、最大の防災対策なのである。
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せつないカモメたち 高樹のぶ子 週刊朝日連載終了

2005-11-06 00:32:27 | 読んだ
先週号(11月4日号)で「完」となった小説である。
高樹のぶ子の小説って、チョット難しいなあ、というか「好み」ではないなあ、と思っていた。だから、多分定期購読をしている週刊朝日に連載となっていなければ読まなかったと思われる。

物語は、バツ1の主人公「私」(香代子)は映画館に勤めている。そこへ中学生の「アヤ」が現れ、仲間達にいじめられているのを私は見る。
その後、ひょんなことからアヤと友達になり、物語は始まる。

主人公は、アヤの父「真一」と親密になる。真一は妻と離婚をしアヤを育てているが、実は育てることに熱心ではなく、心のどこかでは疎ましく思っている。その辺は子供には微妙に伝わるらしく、彼ら父娘の仲はあまりよくない。

主人公は「もしかしたら、この父娘の間に、妻と母として入り込むことができるのではないか」と徐々に思い始める。(小説中ではそのようには書いていないが、私にはそう思える)

さて、その思いはどうなるのか?
ということで、最後のほうは盛り上がった。
ナカナカ面白いと思いました。高樹さんの作品はチョット注目しようと思いました。(月刊誌などであったら読んでみよう)

追伸
 11月5日、平泉「毛越寺」「中尊寺」に紅葉を求めていってきました。
 その結果は「villa嘉壽家堂」に写真をアップしましたのでごらんください。
 さて「紅葉」は・・・
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決断力 羽生善治 角川新書

2005-11-04 23:29:45 | 読んだ
羽生ってすごいなあ!というのが感想である。
1970年生れであるから35歳である。それが、この本を読むと「達している」年齢に思える。

それだけ勝負の世界で生き抜き、勝ち抜いて行くというのは、並大抵の精神力ではないんだなあ、と思わされる。
並大抵の精神力というのは、積みかさねによってのみ生まれるんだろう。

さて、私は本を読むとき近頃はポストイットを用意し、気になる部分に貼り付けることにしている。この本はすごい量になった。金言だらけ、というカンジなのである。

それは目次からでもわかる。少し抜書きしてみよう。

第1章 勝機は誰にもある
 2.勝負どころではごちゃごちゃ考えるな。単純に考えろ!
 4.経験は、時としてネガティブな選択のもとにもなる
 6.勝負では「これでより」と消極的な姿勢になることが一番怖い
第2章 直感の7割は正しい
 2.データや前例に頼ると、自分の力で必死に閃こうとしなくなる
 4.決断は、怖くても前に進もうという勇気が試される
第3章 勝負に生かす「集中力」
 1.深い集中力は、海に潜るステップと同じように得られる
 6.感情のコントロールができることが、実力につながる
第4章 「選ぶ」情報、「捨てる」情報
 4.創意工夫の中からこそ、現状打破の道は見えてくる
 6.将棋上達法-近道思考で手に入れたものはメッキが剥げやすい
第5章 才能とは、継続できる情熱である
 1.才能とは、同じ情熱、気力、モチベーションを持続することである
 5.プロらしさとは、力を瞬間的ではなく、持続できることだ


これが良く知らない人が書いていたのなら、読まないだろうし、例え読んでも感心しないだろう。
羽生という勝負師が書いたからこそ説得力があるのだと思う。
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しあわせの書 泡坂妻夫 新潮文庫

2005-11-03 20:59:27 | 読んだ
なんだか久しぶりのカテゴリー「読んだ」である。

副題が「迷探偵ヨギガンジーの心霊術」となっている。解説を見ると「サイキック・ディテクティブ(超能力探偵)ヨギ・ガンジー・シリーズの最初の長篇となっている。
不覚にもシリーズということを知らず買ってしまった。

不覚にも、ということは、実は私は、途中から始めるのではなく最初から始めたい、というタイプで・・・野球中継であれ、ドラマであれ、読書であれ、途中から、というのはできるだけ避けたい、と思っているのであります。
なので、こういうシリーズモノはやっぱり一から見たい。

もっとも、途中でやめることには、あまり抵抗がないので、なにも「はじめ」にそれほどこだわらなくてもナア、と自分でも思うのであります。

ということで、どうもレギュラーの登場人物がいる。
主人公のヨギ・ガンジーと不動丸、美保子、という3人組である。
小説であるから、一応、共感を持つことができるが、もし現実にこんな3人組がいたならば、絶対に「ひく」と思う。

さて、この3人が某宗教団体の次期教祖選びに巻き込まれる。
というのがこのお話の柱である。
「しあわせの書」というのはその宗教団体の「教義」というか、「説法」とも「談義」ともつかない話(教祖 桂葉華聖)や教祖の生涯が書いてある本をいう。

お話の中でも、どんでん返し、のようなものがあるのだが、なんと言ってもこの本の「サプライズ」はこの本自身にあるわけで・・・・

本の扉を開けると
<読者の幸せのために
  未読の人に「しあわせの書」の
  秘密を明かさないでください>

とあるので、内緒ですが。
私その秘密を確認したとき「まさかぁー」と思いました。
「よくやったなあ」と感心しました。

興味のある方はどうぞお読みください。
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仙台フォークジャンボリー(その3 くちずさむ)

2005-11-02 23:52:15 | 観た、聴いた
さて、第3回目である。
若いころにはウスウス気づいていて、近頃は重々承知なのであるが、私「しつこい」です。
「てえげえぬすろ!」(=大概にしろ!)といわれそうですが、ブログは日付の新しい順であります。ですから、第1回、第2回を読んでいない方は是非そちらを先にご覧下さい。

<こうせつ>と<なぎら>のMC
そして「まるで六文銭のように」登場。
小室等、及川恒平、そして四角佳子。
1曲目は「夏・二人で」
好きでしたね、この曲。
♪長いドレスがほしいな、あの飾り窓の♪
ってところがいいんです。
久しぶりに、及川恒平と四角佳子のデュエットでした。
「面影橋から」といえば、及川恒平の代表曲でもありますねえ。拓郎のもいいですけど、こちらもすて難い。
続いて、新曲。なんと言う題名か忘れてしまった。
そしてラストは「街と飛行船」
この歌は、当時放送禁止だったらしく、私ははじめて聞いた。後にネットで調べてみるとイロイロあったらしいが、何しろ当事者たちがあまり覚えていないようなことだったらしい。

というわけで、期待していたのに、あっという間に終わってしまった。
せめて「おケイさん」のソロの歌でもあってほしかった。
オープニングでも言っていたが「おケイさん」仙台のコンサートは初めてということ。
今度は是非「四角佳子」または「まるで六文銭のように」で来てほしいものである。

ところで「まるで六文銭のように」というグループは「六文銭」というグループの中の3人が近頃集まったものである。
私は、彼らの最後のアルバムだと思うが「キングサーモンのいる島」を買って、ずいぶん聞いたものである。
今回はその中から1曲「夏・二人で」だけである。
ああ、もっと聞きたい。というのが大きな感想。

続いては<山田パンダ>
幕間は<こうせつ>と<なぎら>だったか。
第1曲目は「ソーラン節」合いの手を観客が(練習つき)、乗ってきました。
続いて「おはようおやすみ日曜日」そして「落陽」あれっ?もう一曲なんだったかなあ。

山田パンダといえば「黄色い船」「君がよければ」「眼をとじて」「こもれ陽」そして「僕の胸でおやすみ」と私は思うが、今回は「ナシ」ね。
前回、彼の歌を聞いたのはいつだったろうか、テレビだったか。兎も角、歌がうまくなった、というか、声が出るようになった、というのが感想。

ここで、ゲスト、さとう宗幸登場。<こうせつ>のリクエストで「青葉城恋唄」を歌うことになる。佐久間順平さんのバイオリン。
♪広瀬川 流れる岸辺・・・♪
「いいねえ、それそれ」とか言いながら、<こうせつ>登場。驚き苦笑してやめる宗さん。
気を取り直して再度歌い始める。しっとりと歌い終えて退場。

さて、続いては<こうせつ>と<パンダ>のMC
笑わせてくれる。会場内の年齢層調査。50代が最も多く、40代、30代、そして60代である。
それから、イルカの話。昔々、シュリークスというバンドで<パンダ>と<イルカ>は一緒だった。(どういうバンドだパンダとイルカって)
そのとき<イルカ>は可愛かった。ミニのキュロットで・・・とか、テレながら話す<パンダ>。そして<イルカ>と西武新宿線で一緒に帰ったという話。そうしたら次の日、リーダーでその後<イルカ>の夫となる神戸君から<パンダ>は「もう一緒に帰らないで」といわれた。という話。

イルカ登場。
なんと、ノースリーブのミニのワンピースにブーツという驚きの格好。
「サラダの国から来た娘」でスタート。
イルカの唄で大好きなのは「あの頃の君は」なんだけれど、今まで一回も生で聴いたことがない。「今夜こそは」と思っていたのだが・・・
最後はやっぱり「なごり雪」で終了。

<パンダ>登場<イルカ>を呼び止める。なんだかやのうち<なぎら健壱>のステージ準備OK。
とここで「あっ!あの子知ってる」とイルカ。<なぎら>の相棒を見て彼が高校の時から知っているらしい。

なぎら健壱登場。
「生」で見るのは初めて。スゴーク期待している。「イムジン河」「よいとまけの歌」「日輪」もう1曲は明治時代の歌だったような。とまじめに歌った。1曲くらいそうでない歌を期待していたんだけれど。それにしても「いい声」です。
この人も、もっと聞きたい。

MCは<イルカ>と<パンダ>
そして、南こうせつ登場。何をどの順番で歌ったのかうろ覚えなのであるが・・・
「妹」拓郎のコンサートで拓郎がこうせつのまねをしていたのが思い出される。このコンサートの前日、拓郎のツアー最終日でこうせつも行ってきたらしい。そのときも拓郎が歌っていたそうだ♪妹よ、ふすま一枚かかげて今♪とかなんとか。来年つま恋でまたコンサートがある。
「夢一夜」いい歌です。しっとりしていてね。
そして、パンダを呼んで「僕の胸でおやすみ」を歌う。いいねえこの歌。一回本気で言ってみたいねえ。

フィナーレというか最後はまた、出演者全員が出てきて「出発の歌」「神田川」・・・
思い出せば、書き出せば、キリがないほどなのだけれど、歌もお話も、それぞれがよくって、ああいつまでもこの雰囲気の中に浸っていたい。と思う。
歌、っていいなあ。生のギターって素晴らしいではないか。とつくづく感じさせられたのでした。

出演者も言っていたけれど、それが「思い出」ではなく「今」としていいのである。
懐かしい歌、というよりも、心を動かす歌でありつづけている、というのがいいのである。

最初は「もうこのてのコンサートはいいかな」って思っていたのだけれど、「このてのコンサートがいい」ということに改めて気づいたのであった。
長々と3回にもわたり書いてしまった。ちょっと異例の展開であった。おつきあいありがとうございました。
「ではまた来週」(パンダさん言ってくれなかったもんなア)
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仙台フォークジャンボリー(その2、開演)

2005-11-01 23:37:03 | 観た、聴いた
実は、昨日「その2」を延々と書き上げ、アップするさいにぶっ飛んだ。
いつもならバックアップをしてからアップするのに、昨夜は、延々と書いたことに気分がウキウキして、何の気なしにアップして「ダウン」で、ムッとしている。「goo」やめてやる!とまで思った。
で、冷静な期間、をおいて、また書こうとと思いなおしているのだが、まだまだ「ムッ」としている気分がぬけきらないので、そんな感じの文章になってしまうかもしれない。その辺は、事前にご了承願いたい・・・。

ということで、いわゆる「その2」に入るのだが、ブログというのは「日付」がキーとなっていて、このブログに到着(というか迷い込んだというか)した人は、ほとんど「その2」を目にするわけで・・・「そんな順番なんてあまり関係ないし・・・」というかた以外は、できれば「その1」から読んでいただいたほうが、私としては「嬉しい」のであります。

という、本文に入る「前段」が長引いているわけで、申し訳ないというか・・・申し訳ない気持ちにさせている「goo」に対してのイカリがまたふつふつと沸いてきて、さらに「前段」が長くなり・・・という、グルグルな状態がつづき・・・

雨にぬれた階段を急ぎ足で昇る私に
「間もなく開演です」
と言う声が聞こえる。
急ぎ足は駆け足になる。そして
「曲が始まると、中に入れないことがあります」
なんて、追い討ちがくる。
チケットを取り出し、確認ももどかしくホールへ。
席は二階。
もつれそうな足を、次はどちらの足を踏み出せばいいのか?なんて考えると立ち止まってしまうので、兎も角、運動能力だけに身体を預けて、階段を昇る。
そして会場へ入る。
「セーフ」
息が切れる、汗が出る。
上着を脱ぎ、荷物をまとめて抱え、席へ座る。
なんだか、これだけで大きな満足感が・・・

席に着き、息を整える、若干時間がかかる。
「えっ?」
まだ始まらない。ではあの「お急ぎください」はなんだったんだろう。
若干「ムッ」とする。近頃は「ムッ」とすることが増えてきた。

とかしているうちに、オープニングで出演者全員登場。
まずは「まるで六文銭のように」の及川恒平、四角佳子、小室等。
目は、四角佳子、つまり「おケイさん」に釘づけである。
細身のスタイル、若干気の強そうな顔立ち。

なぜか、中学から高校にかけてはこういうタイプが好みだった。どうしてだろう?
なんて、思いながらおケイさんを追う。

続いて、山田パンダ、南こうせつ、イルカ、なぎら健壱と登場。バックにはおなじみの佐久間順平さんがバイオリンで。
早速一曲目。
と思いきや<こうせつ>があわてている。
ハーモニカを忘れたようだ。

一曲目「自転車に乗って」
高田渡の名曲というかなじみの曲である。今年亡くなった高田渡。2003年のフォークジャンボリーでは味を出していたなあ。
一緒に口ずさむ。

終わって<こうせつ>が出演者を紹介。
イロイロお話があって
二曲目は、これも名曲「雨が空から降れば」
♪しょうがない、雨の日はしょうがない♪
なのである。

さあそして、いよいよ始まりである。
年令順?ということで「まるで六文銭のように」から始まる。

ということで、この続きはまた明日のココロだ。

追伸
 「幸せの書」-迷探偵ヨギ ガンジーの心霊術-泡坂妻夫 新潮文庫 を読んでいます。


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