ここ小諸市でも最低気温マイナス10度の昨日
朝起きたら一面真っ白でした
滅多に降らない雪なのに
今年はこちらでも雪体験ですかね
傾斜地のここでは
足の親指に体重がかかるため
何するあてもなく
音楽を聴きながら、読書三昧と居眠りとお腹を満たすこと
動かないでいると身も心も腐ってしまいそう
ひとり、隣の東御市にある海野宿に行ってきました
人っ子一人いない冬の静けさの中のたたずまいの
散策はとても心地よいものでした
店の多くは冬季閉鎖
開いていた店で宿場街道に似合いそうな
木綿の服を買いました
あらら・・・タイ製!!
電柱と電線が全くない町の様子は川越と同じかな
これらが目に入らないだけでも
タイムスリップした気持ちになります
以下東御市HPより抜粋
海野宿は寛永2年(1625)に北国街道の宿駅として開設され、本陣1軒・脇本陣2軒が設けられていました。
この街道は中山道と北陸道を結ぶ重要な街道であって、佐渡で採れた金の輸送や、北陸諸大名の参勤交代の道であり、江戸との交通もすこぶる盛んで、善光寺への参詣客も多く通行しました。
宿の東と西に桝形が置かれ、延長約6町(約650m)であり、延享3年(1746)の「海野宿屋敷割図」によれば、中央を流れる用水の両側には103軒の家が続き、人足25人と25頭の馬が常備され輸送にあたっていました。宿場時代の建物としては、出桁造りの旅籠屋(一般の人が泊まる旅館)や、防火壁の役割を果たしている立派な卯建の立っている家もあります。表構えの格子戸は特に「海野格子」と呼ばれています。
明治時代になると宿場の機能は失われ、本陣・脇本陣は衰微し、建物も大部分を失いましたが、その他の家は広い部屋を利用して養蚕・蚕種業を始めました。そのため旅籠屋の建物はそのまま残される結果となりました。
当時、国の産業第一と言われた蚕種業で蓄積された財力により改築が行われましたが、表構えは宿場風を残しています。
歴史的町並が残る場所として、昭和61年(1986)建設省より「日本の道百選」に選ばれ、続いて昭和62年(1987)には文部省より「重要伝統的建造物群保存地区」にも選定されています。
朝起きたら一面真っ白でした
滅多に降らない雪なのに
今年はこちらでも雪体験ですかね
傾斜地のここでは
足の親指に体重がかかるため
何するあてもなく
音楽を聴きながら、読書三昧と居眠りとお腹を満たすこと
動かないでいると身も心も腐ってしまいそう
ひとり、隣の東御市にある海野宿に行ってきました
人っ子一人いない冬の静けさの中のたたずまいの
散策はとても心地よいものでした
店の多くは冬季閉鎖
開いていた店で宿場街道に似合いそうな
木綿の服を買いました
あらら・・・タイ製!!
電柱と電線が全くない町の様子は川越と同じかな
これらが目に入らないだけでも
タイムスリップした気持ちになります
以下東御市HPより抜粋
海野宿は寛永2年(1625)に北国街道の宿駅として開設され、本陣1軒・脇本陣2軒が設けられていました。
この街道は中山道と北陸道を結ぶ重要な街道であって、佐渡で採れた金の輸送や、北陸諸大名の参勤交代の道であり、江戸との交通もすこぶる盛んで、善光寺への参詣客も多く通行しました。
宿の東と西に桝形が置かれ、延長約6町(約650m)であり、延享3年(1746)の「海野宿屋敷割図」によれば、中央を流れる用水の両側には103軒の家が続き、人足25人と25頭の馬が常備され輸送にあたっていました。宿場時代の建物としては、出桁造りの旅籠屋(一般の人が泊まる旅館)や、防火壁の役割を果たしている立派な卯建の立っている家もあります。表構えの格子戸は特に「海野格子」と呼ばれています。
明治時代になると宿場の機能は失われ、本陣・脇本陣は衰微し、建物も大部分を失いましたが、その他の家は広い部屋を利用して養蚕・蚕種業を始めました。そのため旅籠屋の建物はそのまま残される結果となりました。
当時、国の産業第一と言われた蚕種業で蓄積された財力により改築が行われましたが、表構えは宿場風を残しています。
歴史的町並が残る場所として、昭和61年(1986)建設省より「日本の道百選」に選ばれ、続いて昭和62年(1987)には文部省より「重要伝統的建造物群保存地区」にも選定されています。