放送大学で、学んでいます

大学を出ているので、編入で全科生になりました。心理学を中心に学びまして、今は、再入学により、再び学びを始めました。

禅問答と「無意識」言語

2014年01月04日 | 哲学・思想・雑感
我々が、何かついて悩む場合、それは、自分の歴史、とりわけ家族に関わることとの関係で悩むことが多いのではないでしょうか?
それを媒介するのが、言葉です。言葉には、意味が含まれると同時に、そこから鈴なり式に連想されたり、まだ、意識化出来ていない感情が含まれていたりします。
通常の会話では、たいして問題にならないことでも、お母さんのこと、お父さんのことに関することでは、微妙な問題を含みます。
兄弟間で共有している問題だと、背景的共通性により、同じような無意識を含んだ言葉として会話できることも、その嫁であったりして、別の無意識レベルの背景を持つ人が口にすると、がぜん、自らのコンプレックスが刺激されて、苦悩にいたることもあることでしょう。
そこで、禅問答からの発想として、それらの、たいていは、不満であったり、自己の主張であったりする、それらの言葉を、禅問答における問いかけと考えて、禅問答の答えのような話しに転換させることで、当面の苦悩から一歩退くことができるかもしれません。
「お兄さんは、お母さんやお父さんに対して、もっとかかわって欲しい。」などと、主張されると、こちらとしては、実績として、さまざまなことをやっているのに、それらへの感謝がないではないかという怒りを感じたりして、会話が噛み合わず、嫌な思いをすることもあると思います。
そういう嫌な気分を引きずると、くよくよしてしまうので、そういう感情から解放されることが必要です。
そこで、言語の意味も、聞きつつ、禅問答における問いかけとしても、聞くことにより、その問いかけを放擲してしまうことで、そういう嫌な気分を和らげることを試してみるのも良いかもしれません。
具体的には、自分が聞いた嫌な言葉を、頭の中でリフレインしたとしても、そのままにしておくことから始まります。
言葉を、「音」として、赤児のように聞くことで、それを感情、あるいは、コンプレックスに付加しないということです。
禅の修行では、それを毎日、時には、何年も行いますから、身につきますが、一般の人は、禅問答の機会もないことですから、困難なのですが、可能性としては、常識や規範意識などを度外視した気分の良い心身の状態を身をもって体験するのも良いかもしれません。
それらの助けになるのは、深層心理カウンセリングのようなものを受けてみるとか、呼吸法の練習、瞑想などの実践が役立つかもしれません。

知恩院にて、彼岸会がありました

2013年09月21日 | 哲学・思想・雑感

他にも寄る予定をしていたため前日の夜には、いつもより丁寧にお風呂に入り、身を清めた。本日、8時過ぎに起きて、朝食を取り、10時前に家を出た。最初の計画では、イオンの駐車場に車を止めて、京都駅からタクシーで知恩院に行こうと考えていたのだが、道路の掲示板によると、山ジャンクションから渋滞していると出ているけれど、思ったほど、車の混みようが少ないので、知恩院周辺に停めることにして、直行した。

阪神高速京都線に鴨川東出入口が出来てから、九条通りから東大路通りに抜けやすくなった。

ただ、3連休の初日なので、観光客も多く、四条通まで混雑していた。

東山三条近くのコインパーキングが空いていたので、そこから知恩院をめざした。

東山通りを東に入ると、「京都地検の女」のロケで有名な古川町商店街が左手にあったので、帰りに探訪してみようと思った。

白川沿いの道は、柳の緑に映え、なかなか風情のある場所である。

古い方の知恩院の門から山手をめざすと、知恩院の山門が見えてくる。

昔は、その前の観光バスの駐車場に車を止められたが、いつの間にか、観光バスのみとなった。

まだまだ暑いが、行楽日和でもあり、観光客の姿も多い。

今は、御影堂が修繕工事で使えないため、法要なども法然上人御堂で行われる。

二人分の回向料を支払って、日中法要が終わるのを待った。

2~30分待ったあと、始まったが、それまでの法要における何人ものお坊さんによる読経は、独特のハーモニーがあり、ありがたい気分にさせられる。

玄侑宗久の「アミターバ」のことなど思い出しながら、阿弥陀仏信仰の世界も、言語で世界を創作しているという点で、面倒なところもあるのだが、こういうあり方もよいのだろうなどと考えていた。

歴史的には、「浄土教」の布教師たちは、地獄絵を見せながら、畏怖の念を抱かせ、信仰を強制しようとしていたのを法然が、地獄の世界をおもての世界から放逐し、「南無阿弥陀仏」を唱えるだけで往生できるという思想を流布させ、それによって救われたものも多いのだろうと思う。

しかし、死んでからの地獄も問題なのだが、死ぬ前の現世での地獄に関しては、宗教は、本来的に無力なはずだ。個別具体的な活動はあるにせよ、坊主たちが、我が身を犠牲にしてまで、他者を救えるかというと、あるだろうけれど、全員がそうかというと、なかなか困難だと考えられる。

この世の地獄を天国に変える秘法は、まだ、ないし、将来もおそらくないのだろうと思う。

たとえば、今回の回向は、位置づけとして、先祖供養であって、現世に生きる我々とは、直接的には無縁である。本当は、おばあちゃんも、この回向料の1万円(二世帯分)を、このような回向のようなものに使わずに、何かうまいものでもくったらどうかと草葉の陰から願っているのだと、私は、思っている。ただ、確認のしようがないから、お参りをするわけだが、そのあたりを、たとえば、坊主が、教えてくれるとかしてくだされば、すごく納得がいくと思う。このあたりの理論は、そうそう見当たらない。

すべての坊主が、先祖霊に憑依して、いたこのように口寄せできなくてもよいから、誰か具体的に知らせてくれる人はいないのだろうか。

そういうシステムをたとえば、知恩院は持ち合わせていないので、新興宗教のように、超能力を持った教祖様を信じてしまうひとが多いのではないかと考えたりする。

そんな不思議なことは、非科学的であり得ないという反論はあるだろうえが、よしもとばななも、そういうのはあるのだというように、やはりあるのだと思う。

元良勇次郎の弟子である福来友吉は、一種の超常現象の解明に失敗したが、そもそも「偶然性」(シンクロニシティ)の概念なしに、実験をしたのであるから、まあ、仕方がないことだと言えよう。

統計学では、確率論的に、「たまたま起こった事象」を根拠のないものとして切り捨てるが、95~97.5%ぐらいあり得なくて、2.5~5%ぐらいならあり得る事象は、はたして、なんなのだろうか。まったく意味のないことなのだろうか。

 

つらつらと、そのようなことを考えながら、千姫のお墓と、濡髪神社を参拝し、下山した。ちなみに、もらい忘れていた御朱印をもらった。

 

そして、行きしなに見た古川町商店街の食道で、おばんさい弁当(750円)を食べた。

お店の名前は、覚えていないのだが、ひじきの炊いたのと、干し大根の炊いたのと、あんかけ豆腐とサンマの蒲焼きが入っていた。

値段の割には、リーズナブルで、愛想のよい女将さんがいて、よかったです。でも、ちょっと観光客を意識しているなあという印象もある。

また、寄ってみたいお店だ。でも、たぶん、昔は、揚げ物屋さんか何かではなかったのではないかと、メニューと店構えから想像される。

帰りの道は、混雑しており、どうも五条坂下あたりで、交通事故があったみたいで、しばらく車が動かなかった。消防車両や警察官も出動していた。


中井久夫「『昭和』を送る」、みすず書房、2013年

2013年07月21日 | 哲学・思想・雑感

先週の日経新聞「読書欄」のコラムに、斉藤環先生が、中井久夫先生の書物を取り上げていた。その中に、中井久夫「『昭和』を送る」、みすず書房、2013年の紹介があった。

タイトルになっているエッセイ「『昭和』を送る」の初出は、1989年であり、ながらく一般の読者が目にすることができなかった。

あとがきなどで、エッセイ集への収載が遅れた理由が述べられている。

中井久夫の「昭和天皇論」の体裁を取っているが、一般性のある「『君側の奸』コンプレックス」なる概念を提唱していたりして、興味深い。

ただ、天皇・皇太子・皇族のセットで、うまく機能するようになっている日本の天皇制度だとすると、将来に若干の不安も感じる。

このエッセイに登場する症例には、自我以前の心的外傷に関するものが取り上げられており、いろいろと考えさせられた。

 

個人の神経症の問題にしても、家族の問題にしても、地域の問題にしても、日本の問題にしても、その解決を時間にゆだねざるを得ないこともあり、

早く問題を解決したいと思いながら、そのまま、解決に向けて生きていく生活を続けて行かざるを得ない事柄は多く存在する。

東北大震災から、2年余。未だ復興のめどが立たない一端には、住民の意思統一がとれないこともあるのだと、NHKのドキュメンタリー番組は

伝えていた。

 

問題の解決が困難なときは、とりあえず、気にはしつつも、それを抱えながら生活していくことしか方策がないのかもしれない。

 

 


デヴィッド・クローネンバーグ監督「危険なメソッド」鑑賞

2012年11月04日 | 哲学・思想・雑感

アルド・カロテヌート「秘密のシンメトリー」入江良平ほか訳、みすず書房、1991年という書物が話題になった頃には、「ユング心理学」が流行っていて、私も、当時目を通したことがあった。その後、シュピールラインを巡る話題を取り上げた書物も発刊されている。精神分析は、フロイトにより編み出された一種の「治療論」であって、たとえば、無意識の図式化に関しても、学問的体系化の過程で変化しており、初期の理論では予定されていなかった「タナトス(死の本能)」を概念として取り入れたのであるが、その源泉がシュピールラインの洞察にあったとされ、そのシュピールラインがユングのクライエントであったことなどから、様々な憶測が飛び交いこの三者関係は、注目されていた。

ちなみら、この映画のストリーは、ウキペディアによると「1993年のノンフィクション本『A Most Dangerous Method』の舞台版である『The Talking Cure』(2002年)を原作としており、その脚本家でもあるクリストファー・ハンプトン自らが脚色した」となっている。

この映画は、背景となる精神分析や分析心理学のような深層心理学の知識なしに見ることは、日本史の概要を知らずに坂本龍馬のドラマを見るのに似て、分かりにくいかもしれないし、ユングの家の玄関に掲げられた「ことば」が、そのストーリーとどう関係するのかを見逃すかもしれない。逆に言えば、細かいディテールをいくつ指摘できるかが、見るものに問われているのかもしれない。たとえば、フロイトは葉巻をくわえているのに対し、ユングはパイプをくわえている。また、連想心理実験のシーンなども興味深い。

 

いろんな連想がわき起こってくるが、第二次世界大戦前後の精神療法の状況が、このようなものだとすれば、たとえば、千里眼研究で有名な福来友吉のありようなども、解釈可能かもしれない。

 


路傍の石 について

2012年09月15日 | 哲学・思想・雑感
「路傍の石」というと、主人公が、旧制中学に行ける能力があるにもかかわらず、家庭の貧困などにより、行かせてもらえず、丁稚奉公で苦労するくだりである。
この本を買ってもらったのは、小学生の頃と記憶しているが、当時は、さほど裕福でもなかったので、主人公のような未来は、私では、到底耐えられないだろうと思われ、ある種の恐怖さえも感じた。
放送大学の共通科目「人格心理学」に教養小説が取り上げられていたため、もう一度、読んでみようと思った。
この本は、Windows95が発売された頃に新潮社より出た電子書籍「新潮文庫の100冊」に収録されたものを持っている。コンバートが必要であるが、さえできれば、iPhoneでも読める。
その二章ぐらいを、速読アプリに収録した。
たとえば、「暗夜行路」の志賀直哉が、示唆しつつも分からない父との葛藤のような、おそらく時代も作用していると思われる、山本有三の父へのルサンチマン(高橋健二〉に、今も共感を覚える。

トラウマ遺伝

2012年08月26日 | 哲学・思想・雑感

トラウマ遺伝とは、受けたトラウマが、遺伝子以外のものによって、遺伝的形質のように、その子孫に伝わることをいう。

その態様が、その地域や家族に固有のものであっても、日常生活を損なうものでない場合は、問題ないであろうが、そうでない場合は、何らかのケアが必要であろう。

こういう考え自体は、ユングの家族的無意識だとか、ソンディの衝動病理学など、近代において、生じてきているし、そう奇抜なアイデアではない。

トラウマも、その内容や深さにおいて様々なので、一概に論じられないが、それが、語りうる段階に達しても、語らない方がよいであろうという判断から、語られずに、雰囲気のようなもので伝わった場合、それは、言語化されていないため、何らかのイメージでしか表現できないものとなるであろうと想像される。

推理小説のタイトルなんかには、よいかもしれません。


戦争関連番組では、オリンピックの陰に隠れたものの「軍法会議」が取り上げられた。

2012年08月16日 | 哲学・思想・雑感

NHKスペシャル「戦場の軍法会議」がお盆休みの時期に放映された。

戦争体験者が、死亡により少なくなりつつある中、ここ何年かか、重い口を開き始めている。

やはり、ひとりで戦争に行くわけではないので、一緒に行った人に迷惑がかかるかもしれない

ことは、話されざるままに多くの戦士たちも抱えたままなくなっていったか、今も抱えておられるのであろう。

そして、まだ、生きておられる方も、高齢になられた結果、中には、話しておこうという方が

出てこられたのかもしれない。

 

そのような番組のひとつが、先日の「戦場の軍法会議」であろう。NHKの緻密な取材を基に

当時の「軍法会議」の実態と戦局の悪化とともに、それがどのように変質したのかといったことが

一人の「法務官」の残した資料をもとに検証されていく。

 

なかなか見応えもあったし、考えさせられた。