放送大学で、学んでいます

大学を出ているので、編入で全科生になりました。心理学を中心に学びまして、今は、再入学により、再び学びを始めました。

老いを見ると言うこと

2017年05月30日 | 終活・葬儀・相続

2010年頃から、介護に関する相談に行ったのが始まりで、介護保険の適用申請やヘルパーさんの手助けなどにより、道半ばの2017年を迎えたのだが、たとえば、祖母の時のように、病気になって、入院したら、2週間ほどで往生してしまったという、被介護者も、介護者も若い段階で、力業で乗り切るというのが困難な時代なのだろう。

母の場合、2003年の夏に、田舎へお墓参りに行って、強い頭痛を訴え、入院したのが始まりで、その後の脳梗塞、転倒による骨折あるいは転倒後の慢性硬膜下血腫などの入退院を繰り返したが、結果的には、父よりも、命を長らえることとなった。

大抵の人は、葬儀というのは、インパクトがあるので、そちらにばかり注目されるのであるが、実際に困っているのは、生き残ったほうなのである。

 

できれば、すぐにでも、自宅か仕事場のそばの施設に移れると、毎日顔も見ることができるし、状況が分かって安心できる。

 

最近は、施設も、インターネットで探せる時代とは言え、民間の公共料金などの変更は、さほど困難ではないが、保険金の請求や預金の名義人の変更などは、住所が変わると、添付資料も増えるし、本人が動けないので、予想以上に厳しい状況がしばらく続きそうである。

父が、自分で土地を買い、家を建てたという思いから、宇治にこだわったのはもっともなことであるが、また、もう一度、施設探しからのスタートになるので、気が重いことである。

忌明けまでに、なんとかしたいとは思うものの、ロスが生じた仕事がたまっているし、欠員になっている従業員の補充も、やはり人手不足なのか、うまくいっていない中で、極めて厳しい現実と向き合っている。

その中には、自分自身の課題も見えてくるため、一層やっかいである。

 


景気の指標としてのGDP

2017年05月30日 | 私の経済学

景気の指標としては、いろいろあるが、1.消費支出、2.貿易収支、3.設備投資、4.政府支出を押さえておけば、経済ニュースを聞いても役に立つ。

政府は、オリンピックの年までに、昨年末のGDP500兆円から、600兆円へと、「アベノミクス」で拡大させる構想を打ち出している。

経済成長が続いていた1970年代では、実質GDPが指標として重要性を持ったが、デフレ下においては、国民の生活実態とは乖離するため、名目GDPの方が、景気を表すには適当なのだろうと思っている。

GDPの増加は、資本主義経済のかなめであることはいうまでもない。

統計局のデータに寄れば、消費支出は、減少しており、これだけを見れば、極めて困難なことを目標に据えているように見える。

 

こういうときに、さよなら逆転ホームランを出すとすれば、手っ取り早いのが、戦争であろう。

 

戦争により国富が失われるにせよ、戦後の預金封鎖と財産課税を行えば、そこから逃れた者は例外として、ここまで拡大した格差も、低レベルで、縮まる可能性もある。

 

ブルデューが提唱した「文化資本」による社会の考察は、一時流行したピケティーの「資本論」にも通底するところがあり、資本家が富を失わない限り於いて、「文化的装置」も維持され、たとえば、教養だとか、振る舞いだとか、それらを包摂する「文化」を共有しうる。

マルクスが、資本主義に対して抱いた危惧とも、通有するところがあり、政府目標として、600兆円をオリンピックまでにGDPを増やすという方針自体が、「自発的な資本主義」から乖離しているように見えてしまう。

 

中国のような「資本主義」を目指しているように見えてしまうのだ。


宮里藍の引退

2017年05月29日 | 私の経済学

何年か前に、売却したゴルフ会員権の譲渡損失の損益通算による「還付申告」が増えた時期があった。

私も、ゴルフぐらいなら、スポーツ音痴の私でもできるのでないかと、父のゴルフ道具を借りて、練習を始めたことがあった。

たいていは、何か始めるとき、それに関する書物を読むことからスタートする。

しかし、家の近くにあったバッティングセンターの玉を打つよりも、困難を極めた。

人がやっているのを見よう見まねでやろうとするのだから、無理もない。

思い返せば、ゴルフブームは、あの頃が最盛期で、バブルが崩壊してから、ゴルフに興じる人も少なくなり、

今でも、私より、かなり年上で余生を送っておられる方に聞くと、若い人は増えていないそうである。

70代以上の元気な方が、日の出とともに、コースを廻り、簡単なランチが済むと帰って行く人たちも多いそうである。

ゴルフ場の経営が思わしくないことは、経済誌などでも取り上げられてきた。

宮里藍、報道によると、31才。これから活躍できるという若さでの引退には、正直驚いた。

野球から転向したジャンボ尾崎が、かなりの高齢まで活躍していたのと対称的である。

 

ゴルフの終焉は、英米流の資本主義の崩壊を連想させる。


葬儀のことなど

2017年05月28日 | 終活・葬儀・相続

私の場合、「相続」に関する仕事をすることもあるので、死後の行政手続等については、多少の知識を有していたものの、父の生前には、あまり具体的な話しもできていなかった。病院や葬儀社での手続は、それほど手間もかからなかったが、遺影を飾るのに、写真がいることになったが、これは、用意されていなかったので、実家に戻り、探してみたが、スナップ写真ばかりで、適当なものがほとんど無かった。実際には、毎年、田舎へ墓参りに行く度に、父の姿を写真に収めていたものの、それを取りに帰るには時間が無かった。

普通の写真から引き延ばすのに、2万円がかかった。そのうえ、スキャンして拡大したものだから、画質がよくないうえ、とりあえず、正面を向いた写真が2枚しかなかったので、いまひとつ、表情が硬かった。

また、これは、実際的ではないが、利用する葬儀社のサイトを見ることができるノートパソコンか、タブレットを持っていると、菊コースだとか、秋桜コースだとかいったセット料金が分かるので、打合せの際に分かりやすい。

家族葬が増えたため、葬儀費用がこれだけかかったという情報は持っていても、現場を見ていないので、比較検討もできなくなっている。

なお、以下は、心覚えのためのものである。

1.午前中になくなった場合でも、病院に到着するまで、1時間半はかかるのと、葬儀社を手配しても、昼からになる場合は、写真や葬儀の打合せに必要なものは、親族にクラウド上にアップして貰うと、時間のロス等を縮減できる

2.死亡したものの住所と、死亡した場所の住所と、死亡届を提出する者の住所が異なる場合は、死亡した者の住所地の役場には提出できない。

3.ガソリンは、可能な限り満タンにしておく。

4.日本郵政関係は、手続が面倒なので、移せるのなら、市中銀行等に移しておいた方が融通が利く。

 


私淑という生涯学習の可能性

2017年05月27日 | 私淑という生涯学習 教育社会学

懐かしい「私淑」という言葉を初老になって聞いたのは新鮮であった。放送大学の学部向けのスクーリングなので、その講師であった稲垣 恭子放送大学客員教授は、戦前の「高等女学校」の聞き取り調査もされている気鋭の教育社会学者である。

多くの人は、「私淑」という言葉の連想から、夏目漱石の「こころ」を思い出されるであろう。

「私淑」という概念は、「実際に会ったか、書物を通して知ったか、その対象人物を、『先生』(人生の師)のように慕って、そこから学ぼうという教育システム」と位置づけられるかも知れない。

私の専門は、実務家ではない「臨床心理学」(やや、論理矛盾はあるかな?)なので、たとえば、このブログでも、何度か触れているように、中井久夫先生や河合隼雄先生、藤縄昭先生、山中康裕先生、また、とりわけ、神田橋條治先生が上げられるだろう。

私は、北山修先生の出身校である落星中学へ進学することを父から期待されていて、小学校6年生のときには、母が見つけてきた現役の小学校の先生に家庭教師として来て貰っていた。

名前は忘れてしまったが、母から後日聞いた話として、私の問題行動に、その先生は気づかれて、母に教育相談を受けるようにアドバイスしてくださったそうである。その後、中学三年生の時に通っていた学習塾の先生も、私の問題行動を把握されていて、京都大学教育学部の大学院で、相談も受けられると、その時は、母と一緒に説明を受けたことを覚えている。

母は、自分の育て方を否定されたように感じたのか、そのアドバイスは生かされることはなかった。

その点では、スクールカウンセラーの第一人者、滝口俊子先生(放送大学名誉教授)の体験とは、また、異なっている。


私の場合、幼稚園から高校までの先生方に関するイメージがかなり希薄で、担任の先生の名前すら思い出せない。


実際、その生徒・学生時代の悩みを相談できる教員もいなかったし、それに関して、サポートを受けることもなかった。


小学校から高校までは、心理的(実際には、心身とも相関しているのだが)な悩みが、あまりにも深刻で、唯一の救いは、受験勉強であったかも知れない。


現在でも、スクールカウンセラー制度は導入されたものの、十分に機能していないのは、いじめによる生徒の自殺がなくならないことからも垣間見られる。


放送大学への再入学へのきっかけは、以前にも記したが、山中康裕先生の面接授業の案内を偶然見たことに起因する。


私淑している山中康裕先生の面接授業は、抽選で落ちたのでかなわなかったが、間接的に、山中先生には、たいへんなお世話になっている。


まずは、大阪での朝日カルチャーセンターでの「ユング心理学」に関する講座は、3年ぐらい通った。そこで、直接、言葉を聞けたことは大変ありがたいことであった。


その講座を聴講していなければ、中井久夫先生の著作集を知らずにいたかもしれない。早い段階で、中井久夫先生の著作集に接することができたのは、山中先生のおかげである。

神田橋條治先生の著作にであったのも、梅田の紀伊國屋書店で、中井久夫先生の著作集を買いに行ったときに、たまたま、立ち読みして買ったことに寄るのではないかと思っている。

このお二方への「私淑」は、一度もお会いしたことも、テレビでも、一度も、接していないということで、書物を通して学ばさせて貰っている。




森田療法施設 京都 「三聖病院」閉院 以降

2017年05月26日 | 森田療法・宇佐療法・終焉

現実的には、東福寺の元三聖病院の跡地にできた「三聖モータープール」ができたおかげで、今熊野にある関与先を訪れるとき、便利になりました。

私が、宇佐晋一先生の元で、入院森田療法を受けたのが、19才の時でした。

たまたま、最近、日吉ヶ丘高等学校の同窓会のお知らせが来ていたので、思い出しました。

森田療法の原法に沿った入院療法については、すくなからずの入門書や解説書が出ているので、ここでは、あまり触れません。

 

当時は、まだ、現・京都森田療法研究所の岡本 重慶先生が来られる前で、高齢の精神科医が、宇佐先生のサポートをされていた。そのサポート医は、その診療が終わると、宇佐先生の診察室に一緒に行き、指示を仰ぐのが常でした。

とある日、いつもの通り、宇佐先生の診察室のドアを開いたところ、藤森中学の同窓生で、顔なじみのあるの方が、まさに、宇佐先生の診察を受けておられる事態に遭遇したのでした。

私は、見てはいけないものを見たような衝撃を受けたが、「そのまま」ずっと、こころに秘めていました。

その偶然的事態が、2回あったので、強く記憶に刻まれています。

確か、その方は勉強もできたし、ボランティアもされていたので、何か、その方は、ごく軽症な問題で来られているのだろうと思っていた。

また、ある意味では、「見るなの禁」をも連想されたものです。

当時は、私が、重篤であると思っていたので、それを知られてしまったことへの不安もありました。そのため、話しかけることもありませんでした。


それ以降、なんで、あのように立派な同窓生が、このような森田療法施設に来ていたのかは、ある種の「公案」として、心の片隅にありました。


日吉ヶ丘高等学校の同窓会の度に、そのことが連想されます。

 

私にとっての森田療法は、すでに何回か書いているが、正当な精神療法として、私自身のバックボーンのひとつになっているものです。

ただ、約3ヶ月の入院療法により、卒業してからは、44年間、一度も、三聖病院を訪れることはありませんでした。

 

亡父も、一時期、三聖病院の外来を利用させて頂きました。

当時の父は、一時期、仕事がうまくいかない時期があって、今で言う軽症の「うつ病」であったのだろうと思います。

 

宇佐晋一先生には、若い頃、大変お世話になり、ありがとうございました。

 

 


お坊さんへのお布施

2017年05月25日 | 終活・葬儀・相続

お坊さんへのお布施のことであるが、一般的な「価格決定理論(ミクロ経済学)」の理屈からすると、期待される「効用」は、それがサービスだとすると、具体的には、満足感を満たすと考えられる。

お坊さんへのお礼のハガキの一枚でも書こうと思うのに筆が進まないのは、通夜式と告別式の二日間のパートタイムで、うん十万円を支払ったものの、このうん十万円を私が仕事をして稼ぐ時に要する「知識」と「計算等」の合計に比べると、極めて高額な感覚があるからだろう。

このうん十万円は、お布施の相場からすると、相続税の「葬式費用等の控除」などの例を、よく見ていることから、その程度でもおかしくはない。ただ、今回は、家族葬であったので、一般の参列者もなかったのであるから、今から考えると、多額であったような気がしてならない。

この金額は、葬儀社の方に、相場を教えて貰って、決めたものだが、今でも、こころがざわつくのである。

 

昔、宝石商の会社の経理を見ていたときに、たかだか2~3万円で仕入れたダイヤモンドを外注で加工し、保証証を付け、数十万で販売されているのをつぶさにみて、一月に、二、三人のお客さんがあれば、十分に生活し、貯蓄が可能であったのを思い出す。

むろん、棚卸商品なので、保有コストはかかっていることは割り引かねばならない。

とはいえ、恋人や婚約しようとする人に渡すためと割り切れば、多少高くても、彼女が喜んでくれれば、それで幸福感を得られる。

 

卑近な例で申し訳ないが、仮に、開業臨床心理士にモーニングケアとして、カウンセリングを受けるとした場合、20回から30回ぐらいはセッションが可能である。

 

そもそも、よく考えたら、そのお坊さんに対して、尊敬の念であるとか、来てもらえてうれしいという感覚が無かった。

出身地である滋賀県の寒村にあった菩提寺のおっさんとは、おそらく、高校生頃から、面識もあったし、毎年、8月12日の墓参りには、父と一緒に行っていたので、お話しさせて頂く機会も有ったし、いろいろと気を遣って頂いたという感謝があった。

 

今回は、田舎のお墓を数年前に、総本山知恩院に移し、永代供養を申し込んであるのと、付き合いのあったおっさんも高齢で引退されたため、急なことで、そこまで頭が回らなかったのも事実である。

宗教学者の島田祐巳先生の著作の多くは、読んでいたが、親戚もやってくるし、それぞれ、宗教、とりわけ、今回は葬儀に関して、常識的な線で執り行わねばならなかったことが、悔やまれる。

 

 


物質界から精神界へ

2017年05月20日 | 介護・社会福祉・その税制

人間の歴史の中で、おそらく、医療の発達にも寄るのだろうが、誕生から仕事をし、老後を迎え、亡くなっていく過程に、「介護」という過程が長期に亘って、その人生のそこそこの時間を加えざるをえなくなったのは、近年のことなのだろうと思う。昔でも、介護はあったのだが、制度的支援もなく、いわゆる要介護の方などは、場末の病院に入院していたりしたものだ。

ほんのしばらく前までは、書店に行っても、介護関係の書物が、これほどまでにはなかった。私自身、20年ぐらい前には、そういうことと無縁だろうと思っていた。

子どもの成長と違って、その先に待っているものは、「死」なので、それが終わったとしても、やり遂げたという充実感がない。

実際は、介護により、現実生活も制約されるし、第一、気が休まらない。

私の父の場合は、医師から、もうそろそろ危ないかも知れないと告げられたのが、1年前で、おそらくは、年単位のことではないと言われていたが、そのギリギリまで、長寿を全うできたのだから、本人も苦しかったかも知れないが、期日の限られた仕事をしているせいか、月末に近づくと気が気でなかった。

予定が、立てられないもどかしさもあった。

ただ、1年間を、なんというか、「喪」の期間を前倒しで過ごせたような気がするのは、せめてもの救いである。

ちょうど、河合隼雄先生が、2006年に倒れられ、約一年間を関係のあった人たちとに、こころの整理をする時間を与えられたように。