放送大学で、学んでいます

大学を出ているので、編入で全科生になりました。心理学を中心に学びまして、今は、再入学により、再び学びを始めました。

「相続」と「意地」

2017年07月20日 | 精神分析

私は、仕事柄、遠目からではあるが、他の人たちの「相続」をそう多くはないが、観察してきた。

最近は、相続税の課税最低限が下げられたために、それを飯の種にしようとする輩で、世の中は賑わっている。

昔に比べて、戦後の相続はやっかいである。戦前までは、家督相続だったので、もめることも、基本的にはなかった。(その前提とした暗躍はあったかも知れないが)

そして、農耕社会にあっては、お金を貯めているものも少なかったし、土地は、分配するほど広い面積もなかった。

相続するものが、すべて独身の子であれば、そこには、「意地」というものの出現は、あったちとしても、ストレートである。

しかし、配偶子が付いていると、相続するものが、兄と弟だとすれば、いわゆる兄弟コンプレックス(カインコンプレックス)を内包した形で、その勝者を、それぞれの妻に対して示すことにより、「我は男子なり」ということを認めさせなければならないという「強迫観念」が働く。

亡くなったお父さんである被相続人とともに、兄弟の配偶者も死亡すれば、純粋な「カインコンプレックス」解消の場となるだろう。

配偶者とは何なのか?どこまで、お互いに関与するのかについても、これは、蓋を開けてみないと分からないことである。

 

中井久夫「世界における索引と徴候」(中井久夫集3)、みすず書房、2017年7月所収の小論に「意地の場について」がある。これは、同出版社の「記憶の肖像」に収められているものと同じ内容である。

私は、たしかに、この小論を読んだ記憶があったが、体験がないと、情動的なものが働かないので、内容についての意義を十分にくみ取れていなかった。

 

 


「もらい子妄想」

2017年06月10日 | 精神分析

私が、「もらい子妄想」について、もっともらしい説を読んだのは、若い頃だったので、手元に、論文や書物がない環境に於いて、正確なことは書くことはできません。

長年、聞かなかった言葉を突然聞くと、確かに、「もらい子妄想」を私も経験していたので、母から、自分が捨て子ではなかったかと悩んだということを聞いたときも、すぐに概念化し、記憶にとどめた。

家族内の虐待は、最近では、虐待する母や父が、当事者であったこともあるという事例が観察されるにつれて、「文化遺伝」のような形式により、再生産されるのかも知れない。

 

 


きたやまおさむ(北山修)先生の自伝?

2016年11月21日 | 精神分析
岩波書店から刊行された「コブのない駱駝」
予約していだのが届いたので、ざっと目を通した。すでに知られていることも多いので、「物語」として読むことで、北山先生の話を聞いたことになろだろう。残念ながら、何もかもが語られている訳でもないので、あとは、自分自身で連想を追うしかないのだろう。
特定の人物についての知識があれば、その背景も分かるように書かれている。それは、ミュージシャンであったり、精神分析家であったりする。カレッジフォークの時代に活躍した人の名前や、ウィニコットや前田重治という名前を懐かしく感じることだろう。
京都に暮した人は、宵々山コンサートを連想することもあるかもしれない。
精神分析家との交流がどうであったかについては、かなり、省略されている。
モノローグである必然なのかもしれない。
もう、これ以上は、語られないのかもしれない。
フォーククルセーダスとの出会いは、私が、中1の頃である。
1980年に、北山医院を東京で開院されているが、その頃、京都にも、一般的な精神科クリニックも、少数ながら存在した。
ただ、ラプランスの精神分析の事典を村上先生が翻訳していたような背景が、京都にはあったので、そういう意味では、東京だったのかもしれない。

再び、北山修。

2016年11月11日 | 精神分析
やや、強迫観念的かもしれないが、たとえば、毎日の仕事を始めるときに、たとえば、ZARDの「負けないで」を聞くことにすると、何となく、うまくスタートできることがあった。
学習心理学などでは、条件付けと考えうるが、その曲調や歌詞が、うまくマッチしないと、そのような効用がなかったことを考えると、たぶん、コンテンツが意味を持つのだと思う。
北山修作詞「戦争を知らない子どもたち」の「戦争」を「人生」に置き換えて、口ずさむと、何となく気分がいいことを経験してから、北山修の歌詞を適当に変えて歌うと、気分がいいことを経験した。
北山先生が、きたやまおさむだと気づくまで、時間がかかった。
心理学、とりわけ、精神分析学やユング心理学などの書物を本屋に行くと、必ず、眺めていたものだが、「ウィニコット」に関する本を手にした時も、最初は気づかなかった。
精神分析の九州学派には、関心があったものの、それは、西園先生であったり、前田先生などの方が連想されて、異質な雰囲気を感じたからかもしれない。
かといっても、慶応学派の小此木先生などとも少し違う感触があった。
後年、一般向けの書物も書かれることになったが、京都市出身である上に、そこが中心部ではない生まれにもよっておられたからかもしれない。
河合隼雄先生も、そうであったが、職業柄、自身の自己開示に慎重にならざるを得ない特殊性があるのかもしれない。
河合先生は、薄く短く、自伝的内容の書物を著されたが、ほんとうに知りたい本質部分は、開示されることなく、この世を去られた。
それらのために、私の人生における布置を投影するかのように、全体が見えないままに、宙ぶらりんである。

菩薩からの手紙

2014年02月01日 | 精神分析

昨年辺りから、土曜日に仕事に出かける日が増えたり、本業に関連するけれど、通常の業務でない仕事が入ったりと忙しい上に、住んでいるマンションの大規模修繕工事が遅れているために、休日も仕事をしていてうるさかったりと、ややストレスがかかる状態で暮らしている。

夢の中身については、公開される場では書けないのだが、菩薩から手紙が届く夢を見た。

 

夢に関心を持つようになって、40年ぐらいになることもあって、起きたらすぐ忘れることの方が多いものの、時折、不思議なものは、目覚めてからも覚えていることがある。

 

その手紙には、「今は大変なときなので、努力したり、まじめにしていたらだめだ。」というようなことが書かれていて、すごく印象に残った。

たぶん、文殊菩薩だったと思うのだけれど、ひょっとすると、観世音菩薩や弥勒菩薩かもしれない。

 

夢は、メタ認知に関連するので、誰かに解釈してもらわないと、なかなか有意義な意味は読み取れないのだが、しばらくお守り代わりに、その手紙を持っておこうと思う。


立木康介「露出せよ、と現代文明は言う-『心の闇』の喪失と精神分析」河出書房新社、2013年

2013年11月26日 | 精神分析

日本のラカン派の論客である立木康介先生の「露出せよ、と現代文明は言う-『心の闇』の喪失と精神分析」を天満橋の本屋で見つけ、立ち読みしたらおもしろかったので、本来買おうとしたものをやめて購入したものである。

私は、普段通勤に電車を使わないので、特にそう思うのかもしれないが、電車に座っている人のほとんどが、スマホを見つめて何やら作業しているのが目に付くようになった。タッチパネルになったので、スマホの画面に指で激しくタッチしているひとは、おそらくゲームをしているのだろうと想像が付く。片手持ちが出来るスマホだと、つり革にしがみつくようにしながらもゲームをしている人もいる。

それが、結構いい大人なのだ。

お見合いは、おそらく少なくなったと思うのだけれど、今時のお見合いは、私が若かった頃とは様相が違うのではないかと感じることがある。

仲人が相手の名前とプロフィールを知らせてくれば、その人がフェイスブックやツィッターを利用しているなら、事前に、その人の行動の一部を知ることが可能だろう。

そのツィッターに、「わたしは、和菓子が苦手なのよね。」とかつぶやかれていたら、お見合いの席で、「どのようなお菓子がお好きですか?」という質問は、ややもすれば、嫌みに聞こえるか、関心を持っていないというインプリシットを含ませてしまうかもしれない。

それに、ツィッターの会話に、プロフィールが男との会話で、室町で、新しくオープンしたケーキ屋さんがおしゃれなの~、一度行きたいなぁなどとつぶやかれていると、その関係性を質問したくなるであろう。

京都人だと、室町にケーキ屋?と、反感を覚えるかもしれない。

 

こういった「秘密の暴露」が公然と行われ、他人から見えてしまう世の中になってしまったのだ。

 

これらの問題も含め、フランスの今日的心理臨床の状況まで記述されている。

 

後書きで、著者は、著述における限界(リミット)への言及もあるように、新しい問題提議の書としては、本書のタイトルほど過激ではない。少なくとも、J.ラカンのような難解な言い回しもないので、読みやすい。

 

本書を読むことで、ラカンに関心のある人も、精神分析一般に関心のある人も、電車の光景に疑問を持つ人にもお勧めである。


斉藤環「戦闘美少女の精神分析」ちくま文庫、2006年

2013年09月28日 | 精神分析

ずいぶん前から探していた斉藤環「戦闘美少女の精神分析」ちくま文庫を本日書店で入手し、読み始めた。しかし、本書は、「おそ松くんの精神分析」とか「オバQの精神分析」などなら、何とかイメージできるかもしれない者には、おそらく難解なのだろうと思う。

「戦闘美少女」の該博的知識やイメージなしに読むのは、「鉄人28号」を読んだことがないひとが、「正太郎くん」について語ろうするぐらい困難であろう。

「精神分析」は、イメージを直接扱うと言うよりは、その枠組みで語りうる言葉を提供するものだとすると、たとえば「セーラームーン」の「ラム」ちゃんに「ファリック・ガール」という概念を付与することにより、その戦闘美少女全般について語ることを容易にした点で、すぐれている。

どうも「ファリック・ガール」は、「ファリック・マザー」からの援用であるようだ。

父と母と子の三位一体が、精神分析の出発点であることからすると、第三の概念として説明されるのかというと、そうでもないらしく、「ヒステリー」概念にリンクさせ、ここは、多くの読者が大きく頷くところなのだろうが、まさに、そういうキャラクターとして理解すれば、分かりやすいのかもしれない。

「ヒステリー・ガール」のリアルは、アイドルに代表されるものなのだろうが、そこから、さらに聖域まで近づければ、「戦闘美少女」までいくのかもしれない。

 

本書は、アマゾンなどで頼めば、すぐに送られてくる類いの書物であったが、内容が内容だけに、即時購入はためらわれていた。しかし、付属の年表や多くのちりばめられた図版に魅せられたのと、あとがきや解説を読んでも、読んでためになるものなのかも判断しかねたし、他では手に取れないかもしれないという思いから買ってしまった。