1960~70年代に、簿記の独習を試みた方の中には、「沼田式簿記」から入門されたかたも多いのではなかったでしょうか。
「沼田簿記」というのは、実際に帳面を付ける過程を経ながら、体験的に簿記を学ぶ方法として、当時は人気があった。
私は、大学に入ってから、父の影響もあり、簿記や会計に触れていくのだが、法学部には、簿記の先生がいるわけもなく、
三条河原町にあった進々堂書店で、元帳や仕訳帳も付録に付いた沼田簿記が分かりやすそうに思えて、買ったのが、簿記との出会いであった。
最近では、日商簿記検定の受験の過程で、簿記を学ぶひとも多いと思われるが、教科書に沿って、仕訳帳に仕訳し、元帳に転記し、試算表を作るという作業から
始めた。
簿記の学習に於いて、左側を貸方と呼んだり、右側を借方と呼んだりするが、本質においては、左方や右方でも、システムとしては成り立つもので、さまざまな疑問は沸くが、
それはそのままにしておいて、徐々に難しい仕訳にチャレンジしていくうちに、簿記のあらましが身につくようになる。
そういう意味では、体験学習、あるいは、シミュレーション学習といえるだろう。
仕訳帳で仕訳をし、元帳に転記し、試算表で貸借が合うかを確認して、それをひたすら繰り返していく。
その作業の過程は、こころの状態は、そのままにしたまま生活していく「森田療法」に似ている。
そのように似ているものは、世の中に多いので、「認知行動療法」は、「森田療法」に似ていると言われるが、本質は、まったく別物だと、私は思っている。
朝、起きると顔を洗うひとも多いと思われますが、森田療法の書物を読んでいて、疑問に思うのは、こういう日常性の継続をどのように考えているのかがよく分からないところです。
禅問答に、弟子が師匠に「仏とは何ですか?」と尋ねると、師匠が「朝飯は食ったかな?」と尋ねるので、弟子が「はい。食べました。」と答えると、
師匠が、「それなら、食器を洗いなさい。」と答えたとき、弟子は、仏を直感したなどというものがあります。
鈴木大拙の著作集にも引用されている話で、禅とは、そういうものだという例として使っていたと記憶しています。
森田療法でも、とりわけ、鈴木知準先生や宇佐晋一先生のような「体験重視」の先生に関する書物等でも、そのような記述があったりします。
一般には、師匠が「それなら、食器を洗いなさい。」といったとき、弟子が、「食器を洗うのですか?」と尋ねたり、ましてや、「仏(ほとけ)のことが知りたいのですが、、、」と再び問うたり、頭の中で「なぜ、食器を洗うのか?」と思うことも、
この禅問答では、不正解、すなわち、落第となります。
こういうのは、文章を読んで、意味は分かったとしても、そのこと自体が何かをもたらしてくれるわけではありません。
なので、このような言語の使用は、「療法」となります。本質は、体験的にしか分からないので、「体験療法」とされていたりします。
昂じれば、生活していくことでの工夫と言うことにもなりましょうし、お金も稼がねばならないので、生きていくこと、そのものとも言えます。次回は、「こころに工夫なし」です。工夫は、工学的なものに限ります。
チンパンジーの方が、人に近いので、犬よりもずっと人間の気持ちをわかってくれるように思われがちですが、実際は、逆です。
パブロフは、犬の胃液の分泌を研究しているとき、「条件反射」を発見しました。それにヒントを得て、ワトソンやソーンダイクは、「学習心理学」における「条件づけ学習」の基礎を実験によって発見しました。
現代の「行動科学」のパイオニアである「スキナー」は、「意志によってコントロール可能な行動」は、例えば、「良いことをしたら報酬を与える」ことで、ある程度「その良いことを続けることができる」ようにさせることを発見しました。
この原理は、学校での学習や教え方に取り入れられています。
例えば、「ほめる教育」などが、その例です。ただし、それぞれの個人に備わった遺伝的特性により、ほめるといった報酬の与え方にも工夫が必要だとわかってきました。
「行動科学」という学問分野で研究されています。