ほんとうの親鸞 (講談社現代新書) | |
島田裕巳 | |
講談社 |
前回の「浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか」幻冬舎新書に続く、真宗がらみの書物である。
最近は、書店に行くと「死ぬこと」に関する書物に加え、「宗教」がらみの本も増えている。
「死ぬこと」をテーマにした本には、年老いてから、どのように死ねばよいのかについて具体的な方法まで言及した「How to die?」的な書物から、特定の立場、特に宗教的基礎に立つ立場が多いが、理念的に考察したものまで出版されていて、「宗教」にいたっては、どうでもよいというか、役に立たないならまだしも、きわめて有害とさえ思える書物が、平積みされていたりする。
そんな中にあって、「ほんとうの親鸞」は、唯円によって書かれた「歎異抄」が、明治に入るまで宗派の中で禁書にさせられていたという事実の提示から、現在の「親鸞像」がどのように作り出されているのかを解明していく。そして、「歎異抄」以前の「親鸞像」を描いてみせる本であり、きわめて、異例な書物だと言えよう。
多くの人は、丹羽 文雄「親鸞」や倉田 百三「出家とその弟子」などの作品により、親鸞をイメージしているはずだ。
ただ、昔から、「真宗非仏説」といって、真宗はキリスト教の一種であると主張するものまであるほど、その思想は、仏教にとどまるものなのかについても疑問視されてきたと見る人も少なくないだろう。
島田氏というと、オウム事件で失脚したということもあって、その事実から、彼の言説に疑問を持つ向きも少なくないだろうが、たとえば、発泡スチロールの仏像だか、シバシンだかを本物と見誤ったとか、オウム真理教事件の初期にあって、そのウラを見破れなかったことが、その主因であることを考えると、汚名を返上し切れていないところのほうが不幸であろうと思われる。
つまり、宗教学というものが、宗教から独立して成立し得ない学問であるとの認識が現在の知識人にも共有されていないし、「宗教」の「うさんくささ」が投影される対象でもありうるという本来前提として持つべき「常識」をというか、もう少し言えば、「研究法」を明示的に提示し得ていなかった「宗教学」の限界があるともいえる。
たとえば、臨床心理学という学問は、1970年代からさかんになったものだが、その主流派は、力動論の立場に立っていたので、たとえば、フロイト的なロジックだとか、ユング的な方法論だとか、そういう一見科学的な方法論をその根底に据えたのとは、ずいぶん異なっている。まあ、これは、新しい学問として打ち立てたことにより可能であったのだろうが、その代わり、ずいぶん西洋的な雰囲気の学問になっているし、放送大学の講義でも、複数の科目にわたって、たとえば、エリクソンの学説が引用されている。それも、日本で、日本人でも、そうなのかについて研究した報告も、あまり見受けられないし、それらの学説を継受したうえで、若干の自説の展開にとどまっているものが多いのは残念である。
思い返せば、大学時代には、私は、トクヴィルの研究者ですとか、ペステロッチの研究者ですとかいって、その学説を講ずる先生が結構おられたことを思うと、昔と、そう変わっていないのかもしれない。
本書は、学術書でないので、気軽に一読できるが、著者も述べているように親鸞自身の著作がないこともあって、後付けのかざりを取り去ると羽をもがれたニワトリのような親鸞像が容易に作り出せるとに驚かされる。