放送大学で、学んでいます

大学を出ているので、編入で全科生になりました。心理学を中心に学びまして、今は、再入学により、再び学びを始めました。

北山修「評価の分かれるところに -『私』の精神分析的精神療法」誠信書房、2013年

2013年11月30日 | 臨床心理学

私が、中学生だった頃に、「帰ってきたヨッパライ」がヒットした。ラジオでは、よく流れていたし、聞いてしまったものだから、忘れようにも忘れられない。今は、そうでもないのだが、当時の日本の精神分析は、主に慶応大学と九州大学で「研究」されていた。私が、フロイトという名を知ったのは、宮城音弥が著した岩波新書のシリーズであった。とりわけ、「精神分析入門」を読んだあたりから、興味を抱くようになった。年表で見ると、その頃には、河合隼雄先生も臨床家として活躍されていたはずなのだが、「ユング心理学入門」と出会うには、6年後を待たなければならなかった。

私の関心は、趣味であるアマチュア無線に象徴される「無線通信」と、宮城音弥を通して知った「心理学」に二分されていた。基底にあるものは、主に二者関係のコミニュケーションなのだろう。我が家に、お金が有り余るほどあり、何の制限もなく自由に生きられたとするならば、そのどちらかを生業にしようと考えたのかもしれない。

わたしのカラオケの十八番である「京都から博多まで」(藤圭子)を歌い上げるときの背景には、精神分析の聖地であった九州(大学)の象徴として「博多」があるのだろう。フォークソングの「東京」(マイペース)も、慶応大学医学部も含んだ東京への憧れがあるのだろうと思う。ただ、「京都から博多まで」のアンサーソングとして、「私は京都に帰ります」があるように、また、マイペースの「東京」では、「東京へは、もう何度も行きましたね」と、何度も行ったけれど成就しなかった哀愁に合わせるかのように、結果的には、「京都」で栄えることになる「ユング心理学」的なものに戻っていくこととなった。

北山修先生の「評価の分かれるところに」は、本人曰く、最後の書物なのだそうだ。そして、過去のいずれの著作を読んでいない人にも、分かるように書いたとされている。たとえば、あまりよく知らずに著者による「錯覚と脱錯覚」という書名を本屋で見られた方だと、「実験心理学」や「認知心理学」などの内容を想起させたかもしれない。先生は、「幻想」とフロイトの文脈で訳されている「illusion」を「錯覚」と訳し変えた最初の日本人と思われる。「幻想」を「錯覚」と訳し変えることで、「こころ」がスッキリされた体験をお持ちの方も少なくないだろうと想像される。それが、先生の「日本語臨床」の一端である。

本当は、北山修先生には、自伝を書いて頂きたかったのだけれど、様々な著作の行間をつなぎ合わせて、その像を自ら作る必要があるのだろう。語られた内容は、やはり編集されたり脚色されることから、テレビ的で、真実は象徴的にしか語られないのかもしれない。実際に、お会いもしていないのに、自伝というひとつの物語を書けというのが虫がよすぎるのだろう。

ただ、矛盾するようだけれど、「...」としての「きたやまおさむ」をかくなるものと措定しえない「ファン」へのメッセージも、本書では語られている。

 

本書は、北山修精神分析の入門書であると同時に、総括書でもある。


立木康介「露出せよ、と現代文明は言う-『心の闇』の喪失と精神分析」河出書房新社、2013年

2013年11月26日 | 精神分析

日本のラカン派の論客である立木康介先生の「露出せよ、と現代文明は言う-『心の闇』の喪失と精神分析」を天満橋の本屋で見つけ、立ち読みしたらおもしろかったので、本来買おうとしたものをやめて購入したものである。

私は、普段通勤に電車を使わないので、特にそう思うのかもしれないが、電車に座っている人のほとんどが、スマホを見つめて何やら作業しているのが目に付くようになった。タッチパネルになったので、スマホの画面に指で激しくタッチしているひとは、おそらくゲームをしているのだろうと想像が付く。片手持ちが出来るスマホだと、つり革にしがみつくようにしながらもゲームをしている人もいる。

それが、結構いい大人なのだ。

お見合いは、おそらく少なくなったと思うのだけれど、今時のお見合いは、私が若かった頃とは様相が違うのではないかと感じることがある。

仲人が相手の名前とプロフィールを知らせてくれば、その人がフェイスブックやツィッターを利用しているなら、事前に、その人の行動の一部を知ることが可能だろう。

そのツィッターに、「わたしは、和菓子が苦手なのよね。」とかつぶやかれていたら、お見合いの席で、「どのようなお菓子がお好きですか?」という質問は、ややもすれば、嫌みに聞こえるか、関心を持っていないというインプリシットを含ませてしまうかもしれない。

それに、ツィッターの会話に、プロフィールが男との会話で、室町で、新しくオープンしたケーキ屋さんがおしゃれなの~、一度行きたいなぁなどとつぶやかれていると、その関係性を質問したくなるであろう。

京都人だと、室町にケーキ屋?と、反感を覚えるかもしれない。

 

こういった「秘密の暴露」が公然と行われ、他人から見えてしまう世の中になってしまったのだ。

 

これらの問題も含め、フランスの今日的心理臨床の状況まで記述されている。

 

後書きで、著者は、著述における限界(リミット)への言及もあるように、新しい問題提議の書としては、本書のタイトルほど過激ではない。少なくとも、J.ラカンのような難解な言い回しもないので、読みやすい。

 

本書を読むことで、ラカンに関心のある人も、精神分析一般に関心のある人も、電車の光景に疑問を持つ人にもお勧めである。


京都のパワースポット

2013年11月24日 | 京都巡り

パワースポットには、ある意味で、たとえば、放射性物質を含有するなど、何らかの科学的に分別できるところと、心理的な、ユング的に言えば、集合的無意識により「本来的」に知りうるかもしれないところがあるとしよう。

神社仏閣は、特に後者の意味においてパワースポットであることが多いとされる。通常の世界(世間)では、意識を主体とした生活をしているが、パワースポツトは、太古から連綿とつづく、たとえば、日本人としてのアイデンティティと向き合えるような場所にある。由岐神社も、そういう意味でのパワースポットである。私は、俗物なので、神様に祈ると言っても、現世利益をもとめるようなことしかしないのだが、それでも、何かいいことがありそうに思えてくるから不思議である。

ただ、最近は、宗教者や、それに付随する業務に従事する人に、神様とのご縁にかかわる仕事をしているという態度の方が少ないように思えて残念である。たとえば、世襲制で、儀式の作法を学べば、免状が降りるとか言ったことがあるが、それでは、現実世界で苦悩する我々と向き合えないかもしれない。

 

昔の初穂料は、それぞれの事情(収入の過多だとか、その家の格だとか、個人的なこと)により、出せる金額をだすという、所得税制における累進課税制度のような仕組みが存在したように思われる。

それを、一律に決めてしまうと言うのは、神様から遠ざかることであろうと思われるのである。

宗教者には、布教という使命があるのだから、一般の労働者でない態度を見せて欲しいものである。

鞍馬寺の境内にある由岐神社。


紅葉の秋(?)東福寺と鞍馬に行ってきました。

2013年11月23日 | 京都巡り

仕事を終えたあと、そこから近い「東福寺」に行ってきました。観光客も多く来ておられました。東福寺は、私の卒業した京都市立日吉ヶ丘高等学校のそばにあったので、何度も訪れているのですが、東福寺は、紅葉の季節が一番だと思います。

京都五山といえば、別格の南禅寺、天竜寺、相国寺、そして東福寺に、万寿寺です。万寿寺は、火災で焼失したため、三聖寺に間借りする形で再建されています。その三聖寺が、森田療法で有名な「三聖病院」となっています。

東福寺は、通天橋から眺める紅葉が一番なのですが、これだけ人混みが多いと、写真も満足に撮れないだろうと思います。

普段なら、それほど人通りのない通天橋の見える橋も数珠つなぎでした。

USJの人気アトラクションなみに行列が出来ていましたので、今回は、通天橋には入りませんでした。

出町柳まで戻って、昼食を取ろうと思ったのですが、せっかくなので、鞍馬まで行くことにしました。

叡山電鉄で行くのですが、ここはPiTaPaのような電子カードは使えません。スルッと関西のプリペイドカードは使えますが、

途中でおりようとすると、先頭車両の運転士に処理してもらわないといけないので、紅葉の時期など混雑しているときは、

切符を買われることをお勧めします。先頭車両のみにプリペイドカードの精算機があるようです。(2013年11月23日現在)

鞍馬といえば、天狗。昔はなかったと思うのですが、大きな鼻の天狗が駅から出てすぐ左に見えます。

鞍馬寺には、何回か来ていますが、こんなに混雑していたのは、初めてと思います。

鞍馬山には、ケーブルカーがあって、上まですぐに行けるのですが、

わたしが着いたときには、50分待ちでした。

お寺さんは、4:30で終わりですから、ケーブルカーを利用されるのなら

早めに着くようにされた方がよいでしょう。