放送大学で、学んでいます

大学を出ているので、編入で全科生になりました。心理学を中心に学びまして、今は、再入学により、再び学びを始めました。

斉藤環「戦闘美少女の精神分析」ちくま文庫、2006年

2013年09月28日 | 精神分析

ずいぶん前から探していた斉藤環「戦闘美少女の精神分析」ちくま文庫を本日書店で入手し、読み始めた。しかし、本書は、「おそ松くんの精神分析」とか「オバQの精神分析」などなら、何とかイメージできるかもしれない者には、おそらく難解なのだろうと思う。

「戦闘美少女」の該博的知識やイメージなしに読むのは、「鉄人28号」を読んだことがないひとが、「正太郎くん」について語ろうするぐらい困難であろう。

「精神分析」は、イメージを直接扱うと言うよりは、その枠組みで語りうる言葉を提供するものだとすると、たとえば「セーラームーン」の「ラム」ちゃんに「ファリック・ガール」という概念を付与することにより、その戦闘美少女全般について語ることを容易にした点で、すぐれている。

どうも「ファリック・ガール」は、「ファリック・マザー」からの援用であるようだ。

父と母と子の三位一体が、精神分析の出発点であることからすると、第三の概念として説明されるのかというと、そうでもないらしく、「ヒステリー」概念にリンクさせ、ここは、多くの読者が大きく頷くところなのだろうが、まさに、そういうキャラクターとして理解すれば、分かりやすいのかもしれない。

「ヒステリー・ガール」のリアルは、アイドルに代表されるものなのだろうが、そこから、さらに聖域まで近づければ、「戦闘美少女」までいくのかもしれない。

 

本書は、アマゾンなどで頼めば、すぐに送られてくる類いの書物であったが、内容が内容だけに、即時購入はためらわれていた。しかし、付属の年表や多くのちりばめられた図版に魅せられたのと、あとがきや解説を読んでも、読んでためになるものなのかも判断しかねたし、他では手に取れないかもしれないという思いから買ってしまった。


知恩院にて、彼岸会がありました

2013年09月21日 | 哲学・思想・雑感

他にも寄る予定をしていたため前日の夜には、いつもより丁寧にお風呂に入り、身を清めた。本日、8時過ぎに起きて、朝食を取り、10時前に家を出た。最初の計画では、イオンの駐車場に車を止めて、京都駅からタクシーで知恩院に行こうと考えていたのだが、道路の掲示板によると、山ジャンクションから渋滞していると出ているけれど、思ったほど、車の混みようが少ないので、知恩院周辺に停めることにして、直行した。

阪神高速京都線に鴨川東出入口が出来てから、九条通りから東大路通りに抜けやすくなった。

ただ、3連休の初日なので、観光客も多く、四条通まで混雑していた。

東山三条近くのコインパーキングが空いていたので、そこから知恩院をめざした。

東山通りを東に入ると、「京都地検の女」のロケで有名な古川町商店街が左手にあったので、帰りに探訪してみようと思った。

白川沿いの道は、柳の緑に映え、なかなか風情のある場所である。

古い方の知恩院の門から山手をめざすと、知恩院の山門が見えてくる。

昔は、その前の観光バスの駐車場に車を止められたが、いつの間にか、観光バスのみとなった。

まだまだ暑いが、行楽日和でもあり、観光客の姿も多い。

今は、御影堂が修繕工事で使えないため、法要なども法然上人御堂で行われる。

二人分の回向料を支払って、日中法要が終わるのを待った。

2~30分待ったあと、始まったが、それまでの法要における何人ものお坊さんによる読経は、独特のハーモニーがあり、ありがたい気分にさせられる。

玄侑宗久の「アミターバ」のことなど思い出しながら、阿弥陀仏信仰の世界も、言語で世界を創作しているという点で、面倒なところもあるのだが、こういうあり方もよいのだろうなどと考えていた。

歴史的には、「浄土教」の布教師たちは、地獄絵を見せながら、畏怖の念を抱かせ、信仰を強制しようとしていたのを法然が、地獄の世界をおもての世界から放逐し、「南無阿弥陀仏」を唱えるだけで往生できるという思想を流布させ、それによって救われたものも多いのだろうと思う。

しかし、死んでからの地獄も問題なのだが、死ぬ前の現世での地獄に関しては、宗教は、本来的に無力なはずだ。個別具体的な活動はあるにせよ、坊主たちが、我が身を犠牲にしてまで、他者を救えるかというと、あるだろうけれど、全員がそうかというと、なかなか困難だと考えられる。

この世の地獄を天国に変える秘法は、まだ、ないし、将来もおそらくないのだろうと思う。

たとえば、今回の回向は、位置づけとして、先祖供養であって、現世に生きる我々とは、直接的には無縁である。本当は、おばあちゃんも、この回向料の1万円(二世帯分)を、このような回向のようなものに使わずに、何かうまいものでもくったらどうかと草葉の陰から願っているのだと、私は、思っている。ただ、確認のしようがないから、お参りをするわけだが、そのあたりを、たとえば、坊主が、教えてくれるとかしてくだされば、すごく納得がいくと思う。このあたりの理論は、そうそう見当たらない。

すべての坊主が、先祖霊に憑依して、いたこのように口寄せできなくてもよいから、誰か具体的に知らせてくれる人はいないのだろうか。

そういうシステムをたとえば、知恩院は持ち合わせていないので、新興宗教のように、超能力を持った教祖様を信じてしまうひとが多いのではないかと考えたりする。

そんな不思議なことは、非科学的であり得ないという反論はあるだろうえが、よしもとばななも、そういうのはあるのだというように、やはりあるのだと思う。

元良勇次郎の弟子である福来友吉は、一種の超常現象の解明に失敗したが、そもそも「偶然性」(シンクロニシティ)の概念なしに、実験をしたのであるから、まあ、仕方がないことだと言えよう。

統計学では、確率論的に、「たまたま起こった事象」を根拠のないものとして切り捨てるが、95~97.5%ぐらいあり得なくて、2.5~5%ぐらいならあり得る事象は、はたして、なんなのだろうか。まったく意味のないことなのだろうか。

 

つらつらと、そのようなことを考えながら、千姫のお墓と、濡髪神社を参拝し、下山した。ちなみに、もらい忘れていた御朱印をもらった。

 

そして、行きしなに見た古川町商店街の食道で、おばんさい弁当(750円)を食べた。

お店の名前は、覚えていないのだが、ひじきの炊いたのと、干し大根の炊いたのと、あんかけ豆腐とサンマの蒲焼きが入っていた。

値段の割には、リーズナブルで、愛想のよい女将さんがいて、よかったです。でも、ちょっと観光客を意識しているなあという印象もある。

また、寄ってみたいお店だ。でも、たぶん、昔は、揚げ物屋さんか何かではなかったのではないかと、メニューと店構えから想像される。

帰りの道は、混雑しており、どうも五条坂下あたりで、交通事故があったみたいで、しばらく車が動かなかった。消防車両や警察官も出動していた。


自己同一性

2013年09月14日 | 心理学用語

「自分が何なのか」と、「自分は何ができるか」、そして、「自分が何をやりたいのか」のこれらが一致している感覚を自己同一性というのだそうだ。

そこで、同一性が確立しているとは、そういう感覚にあることだと考えられる。

たとえば、自分は、「画家である」と思っていても、誰が見ても「絵が下手である」し、「美術学校に行きたい」のに、放送大学に所属しているとなると、「自己同一性がない」状態だと言える。

 


きたやまおさむ・よしもとばなな「幻滅と別れ話だけで終わらないライフストーリーの紡ぎ方」

2013年09月08日 | 読書日記

本書は、著者名が、ふたりとも、ひらがなになっている。それが、本書の位置づけを暗示しているのだろう。が、よしもとばななは、何年か前に、表記を「吉本」から「よしもと」へ変えている。河合隼雄との対談本「なるほどの対話」が出版されたときは、「吉本」であった。松下電器産業が、社名をパナソニックに変更したように、それなりの理由があるのだろう。

2009年4月から、NHKFMで、「きたやまおさむのレクチャー&ミュージック」という番組が始まり、2012年3月に終わるまで、3年間も続いた。私は、2009年というのが、大変な年で、エアチェックができていなくて、1年間聞き逃したのが、すごく残念であった。

2011年に入って、「生活習慣病としてのうつ病」弘文堂(2013)などの著書がある井原裕教授や精神科医の宮岡等先生などが、ゲストスピーカーとして話されることが多くなっていったので、不思議な感じがあって、謎のままであった。

この書物、きたやまおさむ・よしもとばなな「幻滅と別れ話だけで終わらないライフストーリーの紡ぎ方」朝日出版、2012年に、夏頃に話すと咳がよくでるようになって困ったという記述があった。

そういうのを考え合わせると、いろいろと連想されて楽しい。

内容的には、きたやまおさむアカデミックシアターDVDの講演をもとにしたものと、それをもとにした二人の対談になっている。

対談と言っても、けっこう専門的なことがらも含まれていて、気軽に読めるわけでもないが、お二人の「不思議」が核融合したようなところに、本書の意義があるのだろうと思う。

 

できれば、北山修先生には、自伝を出版して頂きたいものだと思う。

 

 


内観療法について

2013年09月07日 | 臨床心理学

「内観療法」とは、浄土真宗の「お身の上調べ」という修行法から発展した日本の「心理療法」のひとつとされる。

内観は、泊まり込みで、約1週間行われる。一畳ほどの自分の場所が与えられ、食事も持ってきてもらえる。

指導者から、たとえば、小学校6年生のときに、お母さんからしてもらったことなどを思い出すように指示される。

何時間かした後で、指導者がやってきて、どのようなことを思い出したかを尋ねるので、それを述べると、

また、続けてくださいとか言われて、そういうのが、朝から晩まで続くことになるようである。

 

内観者が述べたことは、指導者に聞いてもらうのであるが、そこで、深く受容されたり、解釈されたりすることもなさそうだ。

 

日本独自の文化における「心理療法」は、心の内をさらけ出すというよりは、どちらかというと。言語を欧米のようには駆使しないところに

特徴がありそうだ。