岡野憲一郎さんは、精神科医で、心理療法(精神療法)にも詳しい方なのであろう。
たとえば、記憶を長引かせる怒りを持たないためには、怒りをもたらした相手にものを言った方がよいという趣旨のことが
書かれている。
日本人は、会合でも、なかなか発言しようとしないし、話している方から見ても、ちゃんと了解されているのかも
分からなくて、イライラしてくることがある。
そういときには、やはり、そのことによって、怒りが生じていることを伝えたほうがよい。
このような実際的なアドバイスに満ちた本ではあるが、方法論のところは、具体例が少ないように思われて
やや物足りなく感じるかもしれない。
硬直的に考えるのはよくないが、自分に合った「忘れ方」を模索しているものには、役に立つのではなかろうか。
副題が「思い出したくない過去を乗り越える11の方法」とあるように、また、著者が、精神科医でもあるように、
たとえば、外傷性記憶のように、忘れてしまいたい忌まわしい記憶を
どうすれば忘れられるかについて、いくつかの方法を提示した書である。
本書では、どういう記憶が忘れにくいのかについて、いくつかの例をひいて具体的に示され、
次に、そのメカニズムを説明し、
最後に、忘れるための処方箋を示している。
たとえば、「親孝行」についての著者自身のエピソードがでてくるが、これなどは示唆深い。
ひとによって異なるだろうが、親に対して持つ感情というのは、一方では、いろんな世話を受けたという恩義もあるであろうし、
なぜ、あのとき、必要なあれを買ってくれなかったのかという不満足な記憶もあると思う。
このケースでは「恩を返す」というと、子が親に親孝行することになるのであろうが、
「恩は子孫に返せばよい」という発想が語られている。
親は、どうしてもよい面もあれば、悪い面も持っているので、対象に対する感情もアンビバレントなものになる。
そういうとき、この「格言」は、気分をすっきりさせてくれるに違いない。
十分に自分が納得できる親孝行なんかできない多忙な現代に於いては。
なお、岡野憲一郎「心理療法/カウンセリング30の心得」、みすず書房、2012が一番新しい著書である。
たまたま、ジュンク堂で見つけて買ったところ、おもしろかったので、続いて読む本を探したところ、そのなかで
タイトルに惹かれて買ったのが、紹介した本である。
おじさん図鑑 | |
なかむらるみ | |
小学館 |
世に棲むおじさんの生態を自らのイラストともに描き出す話題作。いわゆる「おじさん」を観察し、類型化した本。
きっと、そのなかに、自分の姿を見つけることだろう。
心理学では、観察法という研究法に相当するやり方で、ティピカルなおじさんの姿を描き出している。
わたしは、ビジネスでも、プライベートでも、リュックを背負っているのだが、ひとつは、アウトドア・ライフへのあこがれがあり、ひとつは、なんだろう? かつては、ノートパソコンをいつも持ち歩いていたし、そのうえ、ハンディー機ではあるが、無線機とサブバッテリーが入っている。最近は、この無線機(八重洲無線VX-7)と、ソニーのカード型ラジオである場合が多い。ベルトには、iPhone4とケータイが取り付けられている。ケータイはあるが、デジカメも持っているし、昔買ったウォークマンも入っている。そのため、やたらと重い。
こういうのを「リュックのおじさん」として、イラスト入りで解説されていて楽しい。
ヴィゴツキー入門 (寺子屋新書) | |
柴田義松 | |
子どもの未来社 |
来学期では、「発達心理学概論」を学ぶので、ヴィコツキーについて、何か読んでおきたいと思って、楽天ブックスで検索していたら、この本が出てきた。
ヴィコツキーは、「心理学のモーツァルト」と呼ばれたりもする。それは、彼が、30代で夭逝したことや、きわめて短い学究生活の中で、多彩な研究を行ったことが、モーツアルトの連想を生むからである。
ゲシュタルト心理学やフロイト心理学、および、マルクス主義の常識が、このヴィコツキー入門を読むには有利らしい。
私は、ゲシュタルト心理学については、その学問の百科事典的知識しかないので、どうだろうとおもったが、「入門」というには、他にも、ピアジェや、その他の有名な心理学者の考えについて予備知識があった方がよいと感じた。
また、著者が教育学者であるため、教育手応用についても論究されており、心理学について、さっと分かりたい人には、結構難しい。
一読しようと思ったが、内容が多岐にわたっており、辞書代わりに使うのがよいだろうと思われる。
高校数学でわかるマクスウェル方程式 (ブルーバックス) | |
竹内淳 | |
講談社 |
そこで、この高校数学でわかるマクスウェル方程式 (ブルーバックス)竹内淳、講談社を買ったのですが、この本の前半は、最初に紹介した「電磁気学のABC」とかぶっていて、前ページの半分ぐらいで、マクスウェルの方程式を解説・証明しようと試みているのですが、この構成が災いしてか、後半は、急に数式のオンパレードとなり、わかりにくくなってきます。後半を読み解くには、前半をきっちり読んでおく必要があるのですが、これが、私のやり方で用いてきた本と同じような内容なので、かえって混乱してしまうのかもしれません。
もう一度、将来トライしてみますが、この本はやめることにします。
次に、私の場合は、経済学(財政学)も勉強したので、微分と統計は、必要に迫られて、大学卒業以降に勉強し直したこともあって、多少は知っているもの、高校の数学も復習しておくことにしました。
高校数学については、高橋一雄「もう一度高校数学」日本実業出版社を買ったのですが、著者のひとりごとのような文(p19 エッ!?汗)がちりばめられていて、そういうのが気になります。例題の解答までのっているので、悪くはないと思います。知っているところは、飛ばしてもよいてので、復習には十分です。
最大の欠点は、寝転びながら読むには、重すぎると言うことです。
そこで、やはりブルーバックスになるのですが、芳沢光雄「新体系高校数学の教科書 上・下」を買いました。
こちらも、新書版と言いながらも比較的大部なのですが、忘れているところ復習するのに便利です。
次に、どうするかであるが、クーロンの法則だって、ニュートン力学の発想と無縁ではないので、急がば回れということわざの通り、中学理科の復習をしておくとよいと思う。
このとき、入手しやすく、読みやすいものとして、前回同様、ブルーバックスの滝川洋二編「発展コラム式中学理科の教科書第1分野物理・化学」である。
これは、図解も多く、すばやく、復習ができるという点でお勧めです。また、この本のよいところは、重要な科学英単語がでていて、覚えておくと、英語の勉強にもなります。
大学受験では、化学と生物を取ったので、物理学はあまりやらなかったこともあり、今、電磁気学を学んでいて途方に暮れているというのが現状である。
物理のほうが点が取りやすいのに、なぜ、生物なんかを選んだのかと疑問に思われる方もおられようが、「遺伝」への関心がそうしたとしか申し上げられない。
というより、中学で、無線の世界から足を洗う必要性を感じていたため、わざと、そういう科目に深入りしたくなかったのかもしれない。
しかし、興味や関心というものは、広く展開していくので、大学に入ると、時間も出来たこともあって、無線への関心が復活した。ラジオを聞いていると、短波放送だと、いろんな国からの放送が聴けるし、アンテナなどを工夫していると、その原理を知りたくなると言うのも人情だろう。
しかし、アンテナを立てる場所がないとか、無線機を買うお金がないとか、資格試験の勉強に時間が取られるとかいう理由で、大阪に来て、アマチュア無線局を開局したものの、なかなか続かなかった。
しかし、老後の趣味というと、結局、アマチュア無線しか思い浮かばなかったし、久方ぶりに、HFのリグを買ってから、上級免許が欲しくなったというのが、電磁気学を学ぼうと思ったきっかけである。
高校の物理をすっかり忘れてしまったものにとって、電磁気学のイメージを作るのに最適な書物のひとつに、福島肇「電磁気学のABC」ブルーバックスがおすすめである。この書物には、計算式とかが一切出てこない。ただ、最低限の公式や法則は、載っていて、p111の「便利なIBの法則」は、フレミングの左手の法則よりわかりやすい。
これは、中学レベルの理科の知識があれば読了できる。
ほんとうの親鸞 (講談社現代新書) | |
島田裕巳 | |
講談社 |
前回の「浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか」幻冬舎新書に続く、真宗がらみの書物である。
最近は、書店に行くと「死ぬこと」に関する書物に加え、「宗教」がらみの本も増えている。
「死ぬこと」をテーマにした本には、年老いてから、どのように死ねばよいのかについて具体的な方法まで言及した「How to die?」的な書物から、特定の立場、特に宗教的基礎に立つ立場が多いが、理念的に考察したものまで出版されていて、「宗教」にいたっては、どうでもよいというか、役に立たないならまだしも、きわめて有害とさえ思える書物が、平積みされていたりする。
そんな中にあって、「ほんとうの親鸞」は、唯円によって書かれた「歎異抄」が、明治に入るまで宗派の中で禁書にさせられていたという事実の提示から、現在の「親鸞像」がどのように作り出されているのかを解明していく。そして、「歎異抄」以前の「親鸞像」を描いてみせる本であり、きわめて、異例な書物だと言えよう。
多くの人は、丹羽 文雄「親鸞」や倉田 百三「出家とその弟子」などの作品により、親鸞をイメージしているはずだ。
ただ、昔から、「真宗非仏説」といって、真宗はキリスト教の一種であると主張するものまであるほど、その思想は、仏教にとどまるものなのかについても疑問視されてきたと見る人も少なくないだろう。
島田氏というと、オウム事件で失脚したということもあって、その事実から、彼の言説に疑問を持つ向きも少なくないだろうが、たとえば、発泡スチロールの仏像だか、シバシンだかを本物と見誤ったとか、オウム真理教事件の初期にあって、そのウラを見破れなかったことが、その主因であることを考えると、汚名を返上し切れていないところのほうが不幸であろうと思われる。
つまり、宗教学というものが、宗教から独立して成立し得ない学問であるとの認識が現在の知識人にも共有されていないし、「宗教」の「うさんくささ」が投影される対象でもありうるという本来前提として持つべき「常識」をというか、もう少し言えば、「研究法」を明示的に提示し得ていなかった「宗教学」の限界があるともいえる。
たとえば、臨床心理学という学問は、1970年代からさかんになったものだが、その主流派は、力動論の立場に立っていたので、たとえば、フロイト的なロジックだとか、ユング的な方法論だとか、そういう一見科学的な方法論をその根底に据えたのとは、ずいぶん異なっている。まあ、これは、新しい学問として打ち立てたことにより可能であったのだろうが、その代わり、ずいぶん西洋的な雰囲気の学問になっているし、放送大学の講義でも、複数の科目にわたって、たとえば、エリクソンの学説が引用されている。それも、日本で、日本人でも、そうなのかについて研究した報告も、あまり見受けられないし、それらの学説を継受したうえで、若干の自説の展開にとどまっているものが多いのは残念である。
思い返せば、大学時代には、私は、トクヴィルの研究者ですとか、ペステロッチの研究者ですとかいって、その学説を講ずる先生が結構おられたことを思うと、昔と、そう変わっていないのかもしれない。
本書は、学術書でないので、気軽に一読できるが、著者も述べているように親鸞自身の著作がないこともあって、後付けのかざりを取り去ると羽をもがれたニワトリのような親鸞像が容易に作り出せるとに驚かされる。