2013年12月16日 付で書いた放送大学の面接授業で推奨された文献、青木省三「ぼくらのなかの発達障害」ちくまプリマー新書が、当事者に寄り添うような見地から書かれており、いたく感動した。
今年、日評から再刊された三部作に興味があった。全部買うかどうか迷ったが、結局アマゾンで購入した。
一部は、文庫化されたように、いわゆる学術書ではないので、読みやすいし、さまざまなヒントも提示されていたりもする。
思春期(青年期)は、一般に、古いところではE.エリクソンらも指摘するように、生きにくさが伴うひとも多いとされている。
「思春期内閉」という言葉があるが、その臨床像をありありと提示されたものとして、山中康裕『少年期の心』中公新書のなかの少女の「症例」は、秀逸だった。
その思春期の時の課題は、年が経ることにより、何らかの解釈により、受け止めやすい「ものがたり」として、解決というか、気にかからなくなるものだろうと、期待してきた。
私が、精神分析を受けてみたいとすれば、小学校入学から、小学校2年ないし小学校3年の前半あたりの記憶がとんでいる頃と、中学の2年あたりから、大学の卒業に至る間の意味づけというか、
それらも、含めて、ひとつの「ものがたり」にすることが一番の動機になるかも知れない。
『思春期 こころのいる場所』において、「内観療法」と「森田療法」への言及がある。「内観療法」の療法家は、どういう方がよいのかという指摘は、納得させられる。
「森田療法」に関しては、「価値」に関する部分への対応をどうするのかという、私の疑問と、共通するところがあって、さもありなんと思った。
認知行動療法は、体系的な治療法と言うより、プラグマティックな、いろんなものを包摂するようなところがあって、「森田療法」との共通性との指摘もあるが、
それはそれとして、「どう生きるか」は問われても良いのだろうとも思う。