放送大学で、学んでいます

大学を出ているので、編入で全科生になりました。心理学を中心に学びまして、今は、再入学により、再び学びを始めました。

青木省三「思春期 こころのいる場所」「僕のこころを病名で呼ばないで」「時代が締め出すこころ」、日本評論社

2016年12月04日 | 心理と教育

2013年12月16日 付で書いた放送大学の面接授業で推奨された文献、青木省三「ぼくらのなかの発達障害」ちくまプリマー新書が、当事者に寄り添うような見地から書かれており、いたく感動した。

今年、日評から再刊された三部作に興味があった。全部買うかどうか迷ったが、結局アマゾンで購入した。

一部は、文庫化されたように、いわゆる学術書ではないので、読みやすいし、さまざまなヒントも提示されていたりもする。

 

思春期(青年期)は、一般に、古いところではE.エリクソンらも指摘するように、生きにくさが伴うひとも多いとされている。

「思春期内閉」という言葉があるが、その臨床像をありありと提示されたものとして、山中康裕『少年期の心』中公新書のなかの少女の「症例」は、秀逸だった。

その思春期の時の課題は、年が経ることにより、何らかの解釈により、受け止めやすい「ものがたり」として、解決というか、気にかからなくなるものだろうと、期待してきた。

 

私が、精神分析を受けてみたいとすれば、小学校入学から、小学校2年ないし小学校3年の前半あたりの記憶がとんでいる頃と、中学の2年あたりから、大学の卒業に至る間の意味づけというか、

それらも、含めて、ひとつの「ものがたり」にすることが一番の動機になるかも知れない。

 

『思春期 こころのいる場所』において、「内観療法」と「森田療法」への言及がある。「内観療法」の療法家は、どういう方がよいのかという指摘は、納得させられる。

「森田療法」に関しては、「価値」に関する部分への対応をどうするのかという、私の疑問と、共通するところがあって、さもありなんと思った。

認知行動療法は、体系的な治療法と言うより、プラグマティックな、いろんなものを包摂するようなところがあって、「森田療法」との共通性との指摘もあるが、

それはそれとして、「どう生きるか」は問われても良いのだろうとも思う。

 

 

 

 


自分史を書こうとして、思い出せない事柄

2013年12月03日 | 心理と教育

いわゆるエンディングノートは、はやりなのか、よく売れているようだ。コクヨ式のは、実用的で、書くのに、そう抵抗を感じないこともあるのかもしれないが、よく売れているらしい。私も、仕事柄、いろんなものを買ってみるが、自分史が付いているものは、なかなか手強い。

はたして、世間一般の人は、自分の来歴を余すことなく覚えているものだろうか。

精神分析などの深層心理学は、そこを問題にする。


心理学への期待としての「性的犯罪」 大阪地裁裁判官、盗撮容疑 電車でスカート内撮影 京阪電車

2012年08月30日 | 心理と教育

平成24年8月29日は、たまたま、京阪電車で職場に向かっていたので、おそらく、ひとつ電車が遅かったら、現場に遭遇していたかもしれません。

こういう事件に接しますと、「なぜ?」という疑問がわき起こるものですが、はたして心理学がその答えを示してくれるかというと、どうも心理学は、そういう学問でもないようです。

確かに、きれいな女性を見たときに、その裸を見てみたいとか、その女性が身につけているものに関心が沸くとかいうのは、自然な情動なのでしょう。

この裁判官の場合は、「どんなパンティーをはいているか知りたかった」などが動機とされています。

フロイト心理学のような力動論の立場から見ると「フェティシズム(Fetishism)」という性の逸脱行動と捉えられるのでしょう。

 

とあれ、不思議に思われるのは、社会的地位・階層・門地・教育レベルの違いなどと関係なく、生じうると思われるところです。たまたま、今回のケースでは、裁判官と言うことでニュースになりましたが、おそらくは、一般の会社員・公務員・自営業者その他諸々の職域で分けても、出現率は、そう変わらないかもしれません。

 

最近は、パーソナリティー(人格)とキャラクター(性格)などの区別も、分かりづらくなってきているようですが、そういう性的逸脱行動をする一群の人を、とくべつに区分けしているようでもなさそうです。

 

また、電車に乗る機会のない農業従事者だと、機会そのものがないために、こういう犯罪が起こせないのかもしれません。

 

われわれが、心理学を学ぶ動機として持っていることのひとつに、このような事態に遭遇したとき、何らかの説明が欲しいからではないでしょうか。

 

原初的な情動としては、誰もが抱く妄想のひとつだからです。

 

自分の心の中にも、そういう気持ちがあることに気づくと、やはり不安に感じます。その不安を解消させるための説明が我々には欲しいのだろうと思われます。

 

たんに、こういう現象は、フェティシズムというのですと分類がされるのではなく、なぜ、その女性が身につけているネックレスやピアスでなく、パンティーなのかについて、合理的な説明と、その欲動は普遍的なものなのかについても解明してもらいたいと思うところです。