技術的なことが書かれた書物は、書かれているようにやろうと思っても、事実上出来なかったり、逆に過剰になってしまったりするものだ。
なので、技術的な言及に対しては、それが自分に合うかどうかを見極め、その適用に当たっては、慎重に取り扱われるべきなのであろう。
できれば、練習ができるほどよい場があると、よりいっそう洗練されると思われる。
「忘れる・忘れられない・忘れてしまう」は、ある意味で、つまり、たとえば、フロイトなどの知見を借りれば、抑圧という防衛機制とのせめぎ合いということになろう。
理性化により、それらを客観視できるようになったとしても、無意識レベルでは、ひょっとすると生きているかもしれないのだ。
それは、ともかく、いろんなことに対して、気づいているということが、様々な人間関係で役立つのだろうと期待される。
松田翔太の医者としてのイメージは、上戸彩の主治医役となった「流れ星」であったので、このドラマへの期待があった。
僻地医療といえば、吉岡秀隆主演「Dr.コトー診療所」。見逃した回もあったが、ほぼ見た。このドラマも、結構大げさなところがあったが、それでも、現実離れした感じもなく、おちゃらけもなかったように思う。
それが、この「海の上の診療所」は、どうだろう。
荒川と藤原は、突然タンスを始めるし、最初から違和感がある。
「流れ星」の医者としての松田翔太のほうが、しっくりきたし、もちろんドラマ自体もよかった。
「Dr.コトー診療所」を期待する方が無理だと言われれば、そうなのだろうが、ちょっとおじさん的には、ついて行けないです。
堺雅人主演「リーガル・ハイ」シーズン2を見た。シーズン1もおもしろかったが、スピード感があり、あっという間に見終わった。第一話は、意外な展開で、次に続くこととなったが、今後が楽しみなドラマである。
「よろず占い処 陰陽屋へようこそ」 を見た。推理作家の天野頌子の原作を脚色している。ストリー展開がスムーズで、飽きさせないところは、さすがである。娯楽作品としては、安心して視聴できるように感じた。
2013年10月期のドラマ「ダンダリン 労働基準監督官」は、あまり世間では知られていない労働基準監督官の仕事ぶりを描いたドラマである。原作が、コミックなので、あまり期待はしていなかったが、「労働基準監督官」の日常を描くと言うよりは、コミカルに描かれている。そのせいか、あまりにも現実離れしており、緊迫感もないおちゃらけたドラマになっているのが残念である。
6時過ぎ起きて、大阪発のサンダーバードで一路金沢へ向かいました。自宅から目的地まで、約4時間。
以前金沢に行ったときは、全くの観光でしたから、駅の反対側などは見るべくもなかったのですが、今回は、そちら方面です。
いや-。すごいです。北陸新幹線が来ることもあってか、駅前もきれいになっていますし、裏手も現在改装中のようです。
ともかく、きれいです。
でも、大阪から行くと、観光地でないところは、人が少ないですね。
二日目は、私が手伝うこともできないので、片付けは、妻に任せて、観光に出かけました。
三回目の兼六園ですが、全く変わっていません。多少変わっていたとしても、私には、分かりませんでした。
おなじみの石橋と池を撮影しました。
次に、21世紀美術館に行きました。ここでは、放送大学の学生証が生きました。1000円のところ800円ですべて見ることが出来ました。
とりわけ、プールの底から上を見ることが出来るプールは、楽しかったです。
21世紀美術館には、喫茶室があり、食事も出来るのですが、お昼頃だったせいか、すごく混雑していたのであきらめました。
つづいて、鈴木大拙館に行きました。
「こころの時代~宗教・人生~」の『心に枠のない世界』
-鈴木大拙館を訪ねて-(NHK Eテレ)で紹介されたので、行ってみたいと思っていました。
鈴木大拙選集のうち数巻は、たぶん二十歳のときに買って読んだのだと思います。禅についても、いろいろと学びたいと思ってきましたが、ほとんど何もしないままに、40年近く経ってしまいました。天竜寺の座禅会などに参加したことを懐かしく思い起こされます。ただ、佐保田鶴治先生が主宰されていた「ヨーガ禅」の研修会が京都の桃山で行われていたので、そちらでの体験のほうが長いです。
これにより、人生の苦悩がすっきりと解消したわけでもなかったのですが、私の基本思想の底流に、このときの体験があるのも事実なのでしょう。
残念なのは、生活の糧のために、それらに多くの時間が割けなかったことです。
とくに残念なのは、オーム真理教というテロ集団がヨーガのイメージを汚してしまったことです。
超能力というのは、私は、実在すると思っていますし、ユングなどは、ある意味で超能力者であったと言ってよいかもしれません。
超能力者が、透視したり、予言できたりすることは、当然の能力なので、それはそれとして受け止めれば、それが故に素晴らしいものでもないことが分かろうものです。
しかし、確かに、不思議な体験なので、あまりにも科学的な知見に寄りすぎて生きてきた人には、その事実が素晴らしいものであるかのように感じられるのでしょう。
現在でも、そのような能力を使って、占いをしたり、宗教活動をしている人がいるのは、嘆かわしいものです。
香林坊なども訪れましたが、今回は紹介を省きます。親戚が、金沢に移ったので、また、何度か訪れることになりましょう。
1.文字が、発音を表彰していないため、漢字を見ても発音できない。
「你好」は、「ニーハオ」と発音するのだけれど、「你」は、「ニー」だと覚えないと、「弥次喜多道中膝栗毛」の「弥」の旁からの連想だと「や」という音声が思い浮かぶだろう。中には、「何々してもらえませんか」と言うときに使う「请」は、「チン」で、日本語に似ている。
このように、文字が漢字であるため、日本語に引きずられることがある。
これは、英語既学習者が、フランス語の「La Season」という単語を見て、「ラ シーズン」と発音してしまいそうになる感覚と似ている。
2.中国人は、漢字が読めたりかけなくても、「ニーハオ」という。
たとえば、挨拶だけだとかを言えればよい場合だと、「你好」という文字を知らなくても、「ニーハオ」と言えば挨拶が出来るのだが、それでは、中国語を学んだことにはならない。
たとえば、学習法して著名な「ピンズラー標準中国語」(ユーキャン)だと、文字のテキストがないので、決まり切った言葉だけしか話せない。そのため、旅行に行くとかで、簡単なことが言えればよいのなら、このような学習もよいのだろうが、少なくとも、大学の教養科目としては、成り立たないだろう。
中国語会話であっても、練習として、「ピンズラー標準中国語」(ユーキャン)は、有用であるが、文字や文法なしには、学んだことにはならないと思われる。
3.英語学習の応用が効かない
当然のことであるが、言語体系が全く異なるので、英語を学んだ経験が、生きてこない。英語だと「ハロー」というが、そこには、意味がないので、そのまま覚えられるが、中国語は、「你好」と有意味な漢字が付随するので、そのまま覚えるのが困難になる。「你」は、あなたという意味を持ち、「好」は、よいという意味がある。そのため、「你」は、「ニ」で「あなた」と覚え「好」は、「ハオ」で「よい」と覚えないといけない。
4.中国語は、同じ音でも、アクセントにより、意味が異なる
これは、大変やっかいなことで、平らに「マー」といえば、「母」を表し、上がり調子に「マー」といえば、「馬」を表すと行った具合で、アクセントを覚えないといけない。日本語でも、多少あるが、違っていても、方言によるものだし、あまり間違いも起こらない。
5.正確な中国語の発音は、ピンインで覚えないといけない
「すみません」のことを「トイプチー」というが、「トイプチー」は「対不起」で、「トィ4」「プ4」「チ-3」は、「ドイブチー」のような破裂しないような音韻で発音しなければならない。
6.そのほかにいろいろとある。