「森田療法」とは、森田正馬により創始された心理療法である。
1.狭義の意味での森田療法は、森田療法家のもとに入院して、決められた順序で行われる。
2.広い意味では、森田療法家が、週に一度程度面接し、課題を与え指導を行う外来森田療法も含まれる。
しかし、その本質を会得するには、1.の入院森田療法に依らないといけない。
それは、なぜか。
イ) まず、入院療法の第1期臥褥期は、外界との接触を断ち「生の欲望」を生きるために、苦悩で疲れた頭を休め、
第2期への準備期間であると同時に、「森田療法適性」を判別する過程でもあるからである。
この「森田療法適性」が判別されることにより、クライエントは、「森田神経質」となる。
「森田神経質」と分かると、森田正馬が、「森田神経質」は病人として取り扱ってはならないといっているように
病人として取り扱わなくなる。ここが、重要なポイントである。
ロ)この第1期臥褥期を、日常生活では、体験するのは、ほぼ不可能である。可能であるなら、神経症などには
ならないと考えてもよい。
ハ)また、第2期で、多くの場合、森田療法の本質を体験することになるから、最も効果が出るように
第1期の日数を調整する必要があるからである。
ところで、人格は、そう簡単に変わらないから、森田療法を受けたからといって、「症状」と呼んでいるものが
霧散してしまうということもない。特に、重篤な神経症的苦悩を抱え続けてきた場合には、急に、そういうものが
なくなってしまうと、これはこれで、空虚感を覚えたりすることになるから、なくならなくてもよい。
しばしば、問題になるのは、症状のことを口にしなくなったり、出てきたら出てきたままでいることがあっても、
それはそれとして、生活しておれば、それが他ならぬ全治の姿なのに、それが全治と言われることへの違和感かもしれない。
人間は、こころの悩みを言語化したり、それを何かでなくそうとかしなければ、悩みは悩みのまま存在し、
なくなりそうでなくならないものなのである。
たとえば、森田療法施行前に、怖いと思っていた上司が、全く怖くなくなることはない。怖いものは、怖いとして
それに対して言語的に関わらない、つまり、上司が父と似ているからといった特徴を探ったりする必要もなく
現実の仕事でのつきあいややりとりの中で、自分なりに判断して、対応していけばよいのである。
言語は、行動と結びついており、Aと会う約束したら、その約束をはたさないと、後ろめたい気分などを惹起するように
できている。また、約束を守って会ったのに、不用意なことを言ってしまって怒られることもあろう。そういうときは
落ち込むのであるが、神経質の人は、そういう落ち込む自分に嫌悪したりしてしまう。
そのようなときに、そういったいやな気分とつきあうのではなく、つぎにやるべきことをすればよいのである。
ただ、残念なことに、世の中は、普通の人でも、失敗すると、それを悔やんだりするので、その様子を見て
それをまねてしまうことがある。
ムード一致効果がバウアーなどによって研究されているが、そういう現象を学習しておいて、その状態から
逃れるようにすることは、それも、ひとつの仕事なのである。