嘉永6年5月上旬・大原幽学刑事裁判
大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(大意)。
嘉永6年5月1日(朔)(1853年)
#五郎兵衛の日記
元俊医師が病気。小生が岸部屋に薬を取りに行き、宿で薬を煎じた。その後、湊川の借家に行って昼食。大原幽学先生は小石川に出かけられた。夕方、宿(山形屋)に戻ると元俊医師が元気になっていたので、本所回向院へ一緒に参詣に行く。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
五郎兵衛は元俊と同じ村(長沼村)の者で、同じ宿です。元俊が病気なので、薬を取りに行き、薬を煎じることまでしています。夕方には元俊が元気になったので、回向院まで散歩。仲間と共に生きる五郎兵衛。貴いです。
回向院
嘉永6年5月2日(1853年)
#五郎兵衛の日記
大雨のため、しばらく宿(山形屋)にいる。その後、湊川の借家へ。夕方、宿に戻る。古屋新蔵が来ており、山形屋に泊まる。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
旧暦五月ですから、本日の大雨は梅雨の雨。しばらくは宿(山形屋)にいましたが、その後は湊川の借家へ行っています。古屋氏が江戸に到着。山形屋は公事宿ですが、公事関係者以外も宿泊できたことが分かります。
嘉永6年5月3日(1853年)
#五郎兵衛の日記
湊川の借家に行き、昨日古屋新蔵が来たことを伝える。大原幽学先生「酒代でもやらぬと、あとで悪口をいわれるからな」と、酒代百疋を小生に預けられた。小生これを古家殿にもっていき、「師匠は古屋には今回は会わぬといっております。代わりに酒代をお持ちしました」といって渡したら、幽学先生から怒られた。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
本日は五郎兵衛の失敗談。どうも五郎兵衛は物事をストレートに言ってしまう癖があるようです。それが分かっているなら、幽学も五郎兵衛には冗談とも本音とも分からぬことは言わなければよいのです。しかし、五郎兵衛のようなイノセントな者は思わず本音が出てしまうのでしょう。
#ペリー来航
嘉永6年5月3日(1853年)
ペリー艦隊のうち、サスケハナ号及びサラトガ号が琉球から小笠原諸島に向けて出港(浦賀到着まであと1ヶ月)。ペリーは小笠原諸島も重要視しており、父島に植民地を建設する必要があると考えていた。
嘉永6年5月4日(1853年)
#五郎兵衛の日記
屋形源八殿が宿(山形屋)に来た。弟が刑事事件を起こし、捕まっていたが、昨日出牢したので、元俊医師に診てほしいとのこと。小生一人で湊川の借家にいく。元俊は診察のお礼に上喜撰茶半斤と金平糖をもらってきた。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
屋形源八殿の弟の刑事裁判は、大原幽学とは全くの別件。入牢していたから、元俊医師に診察を頼んだのでしょうか。診察代が上喜撰と金平糖。上喜撰といえば、この歌が有名です。
『泰平の眠りを覚ます上喜撰 たった四杯で夜も寝られず』
ペリー来航は、嘉永6年6月3日ですから、この日記の一ヶ月後。
なお、上喜撰茶は山本山から販売されています(⇒参考)。江戸時代からのものではないかもしれませんが。
嘉永6年5月5日(1853年)
#五郎兵衛の日記
昼前に湊川の借家へ行く。節句の儀式を執り行った。荒海村(成田市)の者は、本日大名の御登城を拝みに行った。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
本日は五月五日、端午の節句です。五郎兵衛が節句の儀式を執り行っています。
荒海村の者は登城見物。大名の登城は庶民からは一大イベントだったようです。
五郎兵衛の登城見物(3月3日条)
嘉永6年3月3日(1853年)#五郎兵衛の日記
— 断感ろーれんす (@tk23956) March 2, 2023
五つ時に湊川の借家に行き、その後、大名のご登城の様子を見物。御老中阿部様のご登城のときには、大名・旗本はみな阿部様のお上りを拝んでいて壮観であった。
その後、湊川に戻って風呂に入った。#大原幽学刑事裁判
嘉永6年5月6日(1853年)
#五郎兵衛の日記
江戸から帰村するものの為に小網町まで荷物を運んだが、本日将軍様の外出とのことで、船がでない。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
本日「小網町」(中央区日本橋小網町)という地名が出てきておりますが、同町には行徳河岸がありました。この河岸から行徳(市川市行徳)行きの船が出ます。行徳は木下街道、成田街道の起点で、大原幽学一門が江戸に往来する際に通る町でした。
嘉永6年5月7日(1853年)
#五郎兵衛の日記
朝早く、帰村の者を小網町で見送り。帰村の者は小網町から船で行徳へ。小生は湊川の借家へ。昼過ぎ、岩本町から出火。風下のため、諸道具全てを荷造りし、2階から担ぎ出せるようにしたが、下火となり事なきをえた。その後火事見物。火元を見る役人が馬で通ったり、火消し方は梯子を担ぎ、鳶をもって纏を振り、幟を立てていた。その様、筆に尽くしがたし。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
江戸の火事の記事。火事は頻繁に起きています。そのため、持ち物を荷造りして、2階から担ぎだすことができるスキルは必須でした。火消の様子も記事中にあります
嘉永6年5月8日(1853年)
#五郎兵衛の日記
昼前に湊川の借家へ行く。大原幽学先生は、大丸へご用事があり外出。小生は写し物をした。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
五郎兵衛はいつもどおり湊川の借家に行き、書物の書き写し。これをやっているときは、暇で手持ち無沙汰なときです。大原幽学は大丸へ。江戸店は大伝馬町にあり、1910年(明治43年)には一旦閉店。現在の東京駅隣接の東京店は1954年(昭和29年)に開店しています。
#ペリー来航
嘉永6年5月8日(1853年)
ペリー艦隊のうち、サスケハナ号及びサラトガ号が小笠原諸島の父島に到着し、調査を開始(5月12日まで)。当時の父島の人口は31人(小笠原諸島で唯一人が居住)。
嘉永6年5月9日(1853年)
#五郎兵衛の日記
湊川の借家へ行って写し物をする。
深夜、泉橋方面で出火。近くの火事であるので、用心のため、諸道具を担ぎ出す用意をした。一町四方が焼けたが、湊川の借家は無事。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
今日も五郎兵衛は湊川の借家(裁判対策本部の場所)に行き、書物の書き写し。そして、今日もまた火事が起きています(5月7日にも火事の記事あり)。近隣なので諸道具を荷造りして、避難の準備。火は対策本部までは来ませんでしたが、鎮火するまでは緊張を強いられたでしょう。
嘉永6年5月10日(1853年)
#五郎兵衛の日記
大雨。昼に湊川の借家に行き、書いたものの読み合わせをする。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
今日もまた大雨。旧暦五月、梅雨の雨です。五郎兵衛は裁判関係ではやることがなく、書物の複写(書き写し)をして、書き間違いがないか、読み合わせをしています。