嘉永6年4月下旬・大原幽学刑事裁判
大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(部分・大意)。
嘉永6年4月21日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
小石川の古家に6名で行く。垣結をし、なめもちを植える。夕方湊川の借家に行く。鏑木村から啓一郎殿が来られた。喜左衛門殿は帰村。日暮れに宿(山形屋)に戻る。
(コメント)
小石川の古家の整備が行われています。裁判対策で、大原幽学を高松氏の兄弟ということにするための家です。生垣を作っています。「なめもち」と記載されているのですが、カナメモチのことでしょうか。
嘉永6年4月21日(1853年)
#ペリー来航
琉球の総理官摩文仁按司(マブニアジ)が、那覇沖に停泊中の旗艦サスケハナ号に向かい、ペリーと会見。ペリーは首里城への訪問を要求。なお、総理官は琉球では位階の低い職だが、ペリー側は「琉球王国の摂政」と勘違い。
嘉永6年4月22日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
湊川の借家に行く。大原幽学先生から、身上が滅亡しかねない災いの種の話しがあった。大先生のお話しは、一々ごもっともなことである。日暮れに宿(山形屋)に戻る。
(コメント)
大原幽学から、「身上が滅亡しかねない災いの種の話し」がありました。具体的にどんなことか良くわからないのですが、五郎兵衛は素直に幽学の言葉に耳を傾けています。
嘉永6年4月23日(1853年)
#五郎兵衛の日記
昼から小石川の古家に戸棚を持っていく。また、火鉢や土瓶、五徳を買って運ぶ。蓮屋に寄るが誰もおらず、書付を座敷に置いておいた。湊川へ帰って風呂に入る。その後、宿(山形屋)へ帰る。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
一昨日同様、小石川の古家の整備。戸棚は大八車で運んだのでしょうか。火鉢や土瓶、五徳等の生活に欠かせないものも購入しています。力仕事をしたので、作戦本部の湊川の借家に帰って一風呂浴びています(江戸の公事宿には内風呂はありません)。
参考:昔の五徳
嘉永6年4月24日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
早朝から湊川の借家に行く。平右衛門殿(荒海村)が御代官様から、「田植え帰村の願いを出したらどうか」と言われたとのこと。奉行所から呼び出しもなく、田植えという理由ならば帰村が許されるとの見立てらしい。一同相談したが、却って裁判が長引いてしまうとの理由から、帰村願いは行わないこととした。
(コメント)
江戸での裁判は、奉行所から呼び出しがあるまでは公事宿で待機しなければならないのが原則。しかし、奉行所の許可があれば村に帰ること(帰村)ができます。田植えは帰村の許可事由になるようです。しかし、五郎兵衛たちは、帰村願いをさないで江戸に留まることにしました。
嘉永6年4月25日(1853年)
#五郎兵衛の日記
大原幽学先生が今後お住まいになる小石川の古家の整備。掃除、のし板染め、垣結を行う。夕方、湊川の借家に寄り、湯に入ってから、宿(山形屋)へ帰る。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
小石川の古家の整備。本日で一段落のようです。労働の後は風呂。旧暦の4月下旬ですから、太陽暦なら6月。かなり汗をかいているものと思われます。
嘉永6年4月26日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
湊川の借家に行ったが、他にやることもないため、書物の写しをする。荒海村の者が、先日婚礼をした「はつ」を連れてきた。大原幽学先生は、「難儀と思うことがこれからあるだろうが、往古のことを考えてみなさい。そうすれば、どんなことでもできる」とお話になった。
(コメント)
湊川の借家に行った五郎兵衛ですが、手持ち無沙汰のため、書物の写しの作成をしています。貸本屋で本を借りて、本の写しを作成します。これは当日普通に行なわれていたようで、高橋敏『江戸の訴訟』でも公事宿で貸本を書き写すエピソードが紹介されています(同書69頁)。
嘉永6年4月27日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
湊川の借家に行ったが、今日も書物の写し。本日、大原幽学先生が数名の門弟に名乗りを許可。小生の名乗りは「則恵」。早速印形を作ろうと印形師のところに出かけたが、主人は留守であった。
(コメント)今日も手持ち無沙汰で書物の写しを作成していたところ、大原幽学から
「則恵」という名乗りを頂戴した五郎兵衛。大喜びで印形を作ろうとしましたが、残念ながら印形師は留守でした。
嘉永6年4月28日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
湊川の借家に行ったが、今日もやることもないので書物の写しをする。平右衛門殿は、昨日御代官様のところに行き、帰村願いを出さない旨申し上げたとのこと。
(コメント)
書物の写しも三日連続。とにかく暇そうですが、ひたすら待機の日々なので仕方がない。平右衛門は、代官様に帰村願いは出さない方針を伝えました。村のリーダーが江戸に召喚されているため、代官は収穫に影響が出ることを心配しているので、報告は欠かせないのでしょう。
嘉永6年4月29日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
湊川の借家に行った。今日も書物の写し。
(コメント)
書物の写しも四日連続。暇な日々は続きます。
嘉永6年4月30日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
湊川の借家に行き、今日も書物の写し。大原幽学先生が奉行所に審理を進めてほしいとの願いを提出に行った。諸徳寺村の差添が交代し、届けの手続きを行なっていた。
(コメント)
書物の写しは五日連続。あまりにも長期間放ったらかしにされているので、大原幽学もしびれを切らして、奉行所に審理促進を要請しています。
嘉永6年4月30日(1853年)
#ペリー来航
・ペリー、琉球に上陸し、首里城を訪問。ペリーは歓会門から入場。軍楽隊は、アメリカの愛国歌である「ヘイル・コロンビア」を高らかに演奏。
・同日、琉球王国の薩摩藩との連絡用の船「飛船」(ひせん)が那覇を出航する。