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文政12年9月下旬・色川三中「家事志」

2024年10月03日 | 色川三中
文政12年9月下旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。
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文政12年9月21日(1829年)晴
〈ひものや〉は不誠実でトラブルが一向に解決しない。仲介人の久松に連絡しても、のらりくらり。やむを得ず、直接ひものや源七に「滞納賃料を全て支払わない場合には、店を今日から3日以内に立ち退くこと」を申し渡した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
〈ひものや〉との件は、相手方が不誠実で一向に解決に向かって進みません。全面的に相手方が悪いのに、訳のわからない主張ばかりされています。仲介人も役に立たず、連絡すら取れない状況。辛抱強い三中もさすがに切れて、最後通告。

〈詳訳〉
18日にひものやの件を久松に話したら、一両日、日延べしたいとのことであったので、それは許すことにした。
しかし、昨日(20日)まで待ったが連絡がない。今朝久松に人をやったところ、夕方名代が来訪した。店から立退くことはできないとの回答であった。
直ちに、ひものや源七に組合の者とともに来るように伝えた。
源七は来たが、組合の者が同行していなかったため、丸屋重兵衛を呼び、「滞納賃料を全て支払わない場合には、店を今日から3日以内に立ち退くこと」を申し渡した。

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文政12年9月22日(1829年)雨
明日、ならやさんが江戸に出立するそうなので、近江屋宛の礼状を託した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
色川家は江戸の近江屋小兵衛から薬を仕入れましたが、売上不振のため買掛金の支払いについて交渉をしています。先日、利兵衛が江戸に行き、近江屋さんは好意的な回答でしたので(9月11日、18日条)、そのお礼状を三中は送ろうとしています。手紙は本日の記事のように人ヅテに渡すことも多かったのでしょう。

〈その他の記事〉
・隠居(祖父)がいる川口屋敷の隣りの土地(山口弥左衛門殿の土地)が売却されるこ決まった。買主は、江戸深川の油屋の清蔵殿。売買代金は金百三十両+問屋株金三十両。合計百六十両。組合の清右衛門殿が押印したとのこと。
土地の広さは表口が約28間余り。隠居殿から、間杭の準備のため、証文や絵図面等を持参するようにとの指示が昨日あった。本日川口まで舟で行って、この件で隠居と協議。


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文政12年9月23日(1829年)
昨日〈ひものや〉の組合(五人組)の者が来て、「穏便にお済ませ下さいと申し上げるべきですが、ひものや源七が『不埒』とされており、ここまで来てしまっては如何ともし難いので、訴訟となっても結構です。」とまで言っていた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「組合」というのは五人組のこと。五人組は相互扶助なので、ひものやさんを庇う立場にありますが、五人組の人も呆れるほど、皆のいうことを聴かないのでしょう。

(詳訳)
昼過ぎにひものや源七の組合の者3名が来た。「ひものや源七が不埒とされたことについて聞きました。大概のことであれば、我々も穏便にお済ませ下さいと申し上げるところですが、ここまで来てしまっては如何ともし難いのでどのようなことをされても結構です。」と告げた。
やむを得ず訴訟とするほかなく、その旨組合の者に伝えた。


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文政12年9月24日(1829年)曇
今日昼頃、栗山八兵衛殿(町年寄)が来られ、「貴殿が町年寄を退役されることは非常に残念。ぜひ続けてほしい」との話しがあった。
夕方、入江(名主)へ内談したいことがあるが都合は如何かと尋ねたところ、「大町の博奕一件のことがあり、他日としていただきたい」とのことであった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
町年寄の栗山殿は、三中のことをかなり買っており、町年寄は退任しないでほしいとの説得を繰り返しています。その答えは書いていないのですが、辞めるという結論にブレはないのでしょう。親友でもある入江氏に今後のことを相談したかったのでしょうが、入江氏は大町で起こった博奕の件の調査等をしており多忙。それにしてもこの当時の大町(現土浦市大町)は飯盛女やら博打やらで治安は良くないです。


〈その他の記事〉
・茂吉と嘉兵衛が行商のため鹿島に向けて出立した。
・霊岸島相模屋に勤めている伯父の久弥殿が川口の隠居(祖父)宅に到着。江戸から土浦まで病気のため籠で来られた。知らせを受け、川口まで船で行った。薬は当帰建中湯を用いた。

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文政12年9月25日(1829年)雨
三中先生は本日休筆です(明後日再開)。
#色川三中 #家事志

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文政12年9月26日(1829年)
三中先生は本日休筆です(明日再開)。
#色川三中 #家事志

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文政12年9月27日(1829年)晴
夜に、栗山氏(町年寄)と入江氏(名主)と、町年寄の退役の事で協議。その他様々な話しをしたが略す。
#色川三中 #家事志
(コメント)
本日の記事では「町年寄の退役の事」としか書いておらず、詳しい協議内容がわからないのですが、栗山氏(町年寄)からは町年寄を辞めないよう強く慰留されたので(9月24日条)、名主を交えて三中の実情を理解してもらおうとしたのでしょう。

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文政12年9月28日(1829年)曇
明日、中町の間原主人が江戸へ出立するので、母も一緒に江戸に行くこととなった。新参の喜兵衛が同行する。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中の母親の江戸行きに同行した喜兵衛。下男として、本年7月3日条に初出。その後、疫病が流行る中、喜兵衛も感染し、8月12日から9月2日まで病欠。そして、色川家の後家の江戸へのお供への抜擢です(それとも人手不足?)。今までの仕事ぶりが評価されたとみたいです。

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文政12年9月29日(1829年)晴
ひものや源七は昨日組合に呼び出されたにもかかわらず、呼出しに応じず。入江(名主)はこのことを町組小頭に報告した。町組小頭は今日昼頃にひものや源七を御呼び出しになる予定である。この旨入江から連絡があった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
ひものやの件は、ついに町内の話し合いでは済まず、町組小頭(藩の役人)の出番となりました。ひものやが呼出しに応じなかったことについて処分するのでしょう。

〈その他の記事〉
・夜に、栗山八兵衛殿が病気をを押して来訪された。大町の売女のことについて。厳しく言葉で諭しても、大町では悪習を改めないのでその対応につき話しをしたいとのことであった。


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文政12年9月30日(1829年)晴 朝雨
ひものや鉄五郎が昨日町組小頭宅に呼び出された(差添人・奥井吉右衛門様)。町組小頭は大変ご立腹になり、「成程こんな者だから、名主や町年寄が手を焼いたのか。不届きな奴だ」と叱責を受けた。本日御上から「遠慮」を仰せ付けられたという。
#色川三中 #家事志
(コメント)
ひものや鉄五郎に「遠慮」の処分。「遠慮」は江戸時代、武士や僧に科した刑罰の一。軽い謹慎刑で、自宅での籠居ろうきょを命じたもの。夜間のひそかな外出は黙認された、とされていますが、土浦藩では町民にもこの刑を科したことかわかります。


〈詳訳〉
昨日、ひものや鉄五郎が町組小頭のお宅に呼び出された(差添人・奥井吉右衛門様)。町組小頭のいうことを聞かなかったため、両小頭は大変ご立腹になり、「成程こんな者だから、名主や町年寄が手を焼いたのか。不届きな奴だ」と叱責を受けた。差添人の取計らいでひとまずその場は収まった。夕べも今朝も、組合員が早朝から集まり、鉄五郎に色々と説明し聞かせた結果、本人からも大変申し訳ないと詫びられたとのことであった。
しかし、このような些細なことで組合や町役人を騒がせ、御上にもお手間をおかけしたのだから、店にそのまま居続けるといわれてもおいそれとは承知できない。もっとも、御上様がそのようなご方針であれば、私の方も承知せざるを得ない。この件について御上のご方針も伺った上で、いずれ挨拶に伺いたいと申しあげた。
なお、本日ひものやの鉄五郎は御上から「遠慮」を仰せ付けられた。


〈その他の記事〉
夜に小頭宅を訪ねる。両小頭から、「どうして町年寄を退役するのか。心の内を話してみよ」と聞かれ、私は、「心中に含むようなことはございません。ご存知のとおり病弱なものですから」と申し上げた。「病気であれば致し方ないが、全快してから勤めればよいではないか。病気以外にも意図するところがあるのではないか。あるならば全て話すがよい」と仰るので、
次のように申し上げた。
「私は普段から病弱で、商売も上手くいっておりません。一両年以前であれば、町年寄などとてもお受けできない状況でした。昨年あたりから債務の支払い交渉が成立していき、一息ついたところです。しかし、債務は年賦で返済し始めたばかりですので、町年寄として様々な金員を立て替えるのは、かなりきついです。
また、去年は凶作で穀物の価格が高騰しており、商売が難しくなっております。このような状況では、町年寄の仕事が不行届きとなってしまう恐れがあります。そのため、退役を願い出た次第です」
両小頭は「事情は分かった。病気をゆっくり治して、おいおい勤めにでよ。上の者からもそのように聞いている」と仰せられました。
「何の能力もない私のような者を町年寄としていただいたのは、恐れ多く、ありがたいことです。今後のことにつきましては、帰って親族とも相談した上で、同役の方々からご挨拶申し上げられるよう、先ずは失礼いたします」と申し、その場を辞した。

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