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ひものやとの休戦成立 文政12年10月上旬・色川三中「家事志」

2024年10月14日 | 色川三中
ひものやとの休戦成立 文政12年10月上旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。
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文政12年10月朔(1日)(1829年)晴
九ツ過ぎ、入江氏と栗山氏が来られる。町年寄の退役につき話す。一、二年町年寄として名前を残しておかれてはどうかとも勧められたが、固くお断りした。私の病気と経営悪化のため辞職を希望し、夕方に別れた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中の町年寄の退役問題は、なかなか決着がつきません。任命してから1年も経っていないので、藩の面子もありますし、名主としてもそう簡単に三中の辞任を認めるわけにもいかないのでしょう。

〈詳訳〉
九ツ過ぎに入江氏(名主)が来られたので、栗山氏(町年寄)もお招きし、酒肴を出して話しあった。
私「町年寄を辞めないようにとの御上(土浦藩)からの御意向は承知していますが、辞めざるをえない理由につきましては、これまで申し上げてきたとおりですので、お二人の仲介で何卒宜しくお取り計らい下さい。心中に何か含みがあって町年寄を辞めようとしているのではありません。只々病気の上に、経営の悪化が重なり、このままでは倒産ということにもなりかねないのです。そのような心配をしながらでは、町年寄の仕事も行き届きかねますので、内々に申上げた通りに御上にご伝達頂けますよう、お願い致します。」

入江氏と栗山氏「それならば、まず一、二年ほど名前だけでも出しておいて、その後また職務に就くようにすればよいのではないか。貴君が今すぐ辞めるとなると、町年寄に再任できないかもしれない。それでは問題が多いので、まず一、二年ほど名前だけでも残しておいて、その上で様子を見ながら職務を務めてははどうか」

私「いや、それではご親切の余りに私の勝手を押し通すこととなり、他の町年寄の方の勤めにも悪影響を及ぼしますので、そのようなことは考えておりません。」とお伝えた。

お二人「では、加役ということではどうでしょうか。このことは今まで申し上げなかったけれども、やむを得ないのであれば、そのようにすることも考えております」

私「私は多病であり、かつ経営もままなりません。土浦の御城下で暮らしができていること、先祖が町年寄を勤めてきたことには感謝しておりますが、病気で務めを果たすことができないのは、どうしようもありません。町年寄を辞めることは、他の町役人にも心配をかけ、 御上様にも申し訳ありません。いろいろとご配慮いただいていることには大変感謝していますが、どうしたら良いのでしょう。
平百姓に戻った上で加役を勤めるといいますが、町年寄を勤める以前と同様、単なる平百姓として世間が見てくれればよいのですが、決してそのようには見てくれないでしょう。町年寄を勤める力もないのに、私が自ら役から退くことができないことをとやかくいうことでしょう。世間の人々の評判はどうでも良いとしても、先祖に対しては不本意であり、忠孝を果たしていないのではないかと心配です。
私はもう勤めることはできないとのことを御上に対していうのは恐れ多いことですが、できましたらこの際、退役を命じていただきたく思います。それが不肖私にとっては幸せなことでございます」
そのほかにも相談したことがあり、いろいろと話し合い(大町の隠売女の事についても内々に話した)、夕方には別れた。


〈その他の記事〉
・今年の年貢を中城町分は免除となった。今年の水害は、6年前(申年)に比べると水位は約5寸(約15cm)低かったし、田中(現土浦市田中)のあたりでは被害のなかった田も多くあった。しかし、今年は収穫の少ない者が多かった。
そのため、田地に相掛り候分は、残らず不残掛り物をすべて小作人に割りつけるようにし、定家(田地の管理者?)にもその旨伝えた。小前にも人によってはそのような対応とする。なお、凶作の影響を受けた者の分は、影響を受けなかった者一同に一括して割りかけするつもりである。
・ひものや鉄五郎の組合の者が全員で昨日と今日詫びに来た。組合もいろいろ不行き届きな点が多く、表向きは体裁を整えるためのものにしか見えない。鉄五郎の不行き届きの件は、名主に適切に処置してもらうつもりである。
・昨日、隣主人の向かいにある酒店の横田治右衛門が、いせや治右衛門と改名し、一軒前に引っ越した。お祝いに酒一升を持参した。


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文政12年10月2日(1829年)
三中先生本日は休筆です(本日だけ。明日には再開です)
#色川三中 #家事志

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文政12年10月3日(1829年)
〈ひものや〉の件。ひものや鉄五郎は大家(色川家)への謝罪を相変わらず拒否。
鉄五郎の組合(五人組)は、謝罪したいが、本人が嫌だといっているので困ってしまい、とりあえずそのことを伝えに来た、と。
#色川三中 #家事志
(コメント)
ひものや鉄五郎とのトラブルは、相変わらず鉄五郎が謝罪を拒否しており、膠着状態。他の五人組のメンバーも、鉄五郎の訳の分からない対応に困り果ててしまっています。

〈詳訳〉
ひものや鉄五郎の組合(五人組)全員が夕方に久松時右衛門(ひものやの代理人)のところへ集まり、以下のように申し出た。
「ひものやさんから、依頼があれば、組合の方でも大家さん(色川家)に謝罪致しましょう。しかし、依頼がないので、組合としてはどうすることもできません」
ひものや鉄五郎は組合への依頼を拒否したと、今朝久松から組合に連絡があったとのことである。そのようなことで、組合としては、謝罪致しかねることになってしまったと組合の者が挨拶にきた。

〈その他の記事〉
・入江氏(名主)が惣益講を初めて開催した。一本、金一両掛。一本の名前で半口を懸けた。
・夜になってから、入江のところに行った。

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文政12年10月4日(1829年)晴
ひものや鉄五郎の組合(五人組)の者が、全員で各戸を回って挨拶をしていた。安達権七からのたってと頼みという。ひものやが協力してくれないので、組合も苦しい立場なのであろう。
#色川三中 #家事志
(コメント)
ひものやの件の続き。ひものや鉄五郎の組合は、本人の意向もあって謝罪をするわけにもいかないので、困った挙げ句、各戸を回っての挨拶作戦に出たようです。さて、この作戦功を奏しますでしょうか。

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文政12年10月5日(1829年)曇
・小田三造殿が御出でになられ、初めてお会いすることができた。様々なお話しをした。
・夜に、ひものやの件で栗山氏(町年寄)のところに行き、打合せ。
#色川三中 #家事志
(コメント)
ひものやの件の続き。鉄五郎の組合は、困り果てて、各戸を回っての挨拶作戦を展開。この動きを見て三中は何か思うところがあったのか、
栗山氏(町年寄)のところに行き、打合せ。妥協点を見出すことができるでしょうか。

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文政12年10月6日(1829年)雨
・夫食願を行った。
・飢饉はもう目の前だ。我が家も周囲も不作。食料確保のため稗を作り始めた。15年前は稗を食べていたのに、今は下男下女も稗を食べない。なんと不思議なことか。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「夫食願」とは、自然災害で凶作と成り、夫食米を拝借を願うこと。夫食(ぶじき)とは、江戸時代の農民の食糧のことです。三中は飢饉が目前に迫っていると危機感をあらわにしています。稗を作らない豊かな世の中になったようですが、それだけに飢饉には弱い社会になっているようです。

〈詳訳〉
よくよく今の世の有様を見てみると、既に飢饉間近である。この頃は当家も不作であるし、在々のものも甚だ収穫量が少なく、食べ物も少なくなっている。そこで、稗を作ることとした。十五六年前には稗を多く作って、我家にも折々食事に稗が出てきたものだ。しかし、この頃は皆稗を作らないし、食べない。下男下女でも稗をふかして食事をするというものが一人もいない。心有る人はこれを不思議と思わずにはいられないだろう。

〈夫食願のメモ〉
東崎町小前の者へ
- 金17両2分2朱
- 永16文5分1厘5毛
- 1軒につき以下を配給する
- 穀麦1斗5升
- 稗2斗

中城町小前の者へ
- 金10両
- その他上記と同じ
近年、度々出水が発生しており、特に今年は洪水が発生し、田畑が皆損となり、夫食(ぶじき;食糧)にも支障が生じたため、上記のとおの仰せがあったものである。

夫食代:
東崎町取分6軒
- 金2分永68文1分8厘1毛ずつ
- 碑6斗2升5合ずつ
中城町4軒
-金1分2朱、永3文7分8厘7毛ずつ
- その他上記と同じ

穢多共へ
- 金2両1分銀5匁
- 1軒あたり金1分5匁ずつ


〈その他の記事〉
・大町の吉兵衛の水小屋について。従前の水小屋は文化3年(寅年)築で手狭となったため、土手の上に新たに建設したいとの願い出があり、承認された。
・北条新町の関清右衛門の組合の者2人が書状持参で来られた。「記兵衛」が昨5日に病死し、葬式は本日6日に行われるとのこと。記兵衛は当家に勤めていたが、惣三郎が分家した際に、分家の従業員とした者である。


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文政12年10月7日(1829年) 晴
夜、入江(名主)と話す。「ひものや鉄五郎の件、組合のものが一同で詫びているので、今年は賃料さえ払ってくれれば、そのままでよいことにしたい」と自分の考えを話す。入江もこれに賛同。
#色川三中 #家事志
(コメント)
ひものやさんとの件、三中はついに落としどころを見つけました。今年は賃料の支払いを条件として現状維持で合意したいと。名主も賛同してくれましたし、この線で話しが進みそうです。

〈その他の記事〉
・茂吉と嘉兵衛が鹿島へ行商に出立した。


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文政12年10月8日(1829年)
朝、ひものや鉄五郎の組合(五人組)のところに叔父の利兵衛殿に行ってもらい、「何度も来て謝っていただくのもお気の毒ですから、もうそこまでされなくて結構ですよ」と話しをしてもらった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
ひものやの件の続き。鉄五郎の組合は、各戸を回っての挨拶作戦を展開。その効果か三中は今年限りは現状維持という妥協策を提案することになりました。組合としては大成功。もっとも、ひものやさんは全然反省していないので、一時的な休戦といったところでしょうか。


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文政12年10月9日(1829年)曇
七ツ過時に、ひものや鉄五郎の組合の者と会う。藩には今年一杯は現状維持を願い出ることを話した。組合の者が同意したので、夜に入江(名主)にも話しを通した。この内容で藩に願い出ることとする。
#色川三中 #家事志
(コメント)
ひものやの件、休戦に向けて、丁寧に合意形成をしていっています。組合との話し合い、名主の了解を経て、藩に願出をするというプロセス。常識的ではありますが、ひものやさんが滅茶苦茶なだけに、三中の落ち着きが際立ちます。三中はまだ20代後半なのですが、町年寄に抜擢されるだけあって、大したものです。


〈詳訳〉
七ツ過時に、ひものや鉄五郎の組合(五人組)の者と会う。ひものやの不法占拠は、とりあえず今年は御勘弁を藩に願出ると話した。組合の者は承知致しました。そのとおりにお願い致します。」と述べたので、その旨藩に願い出ることとした。
夜に、入江(名主)のところにへ、ひものや鉄五郎の組合の者が行き、先ほどの話し合いの内容を伝え、入江はこれを承知したとのこと。


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文政12年10月10日(1829年)雨
・ひものや鉄五郎の件は、暮れまで現状維持ということで話はまとまり、藩からもお認めいただいた。
・鉄五郎は藩の役人に対して無礼な態度をとったため、「遠慮」の処分となった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
ひものやの件、民事的には、年内は現状維持で藩の認可も出て、休戦成立です。しかし、ひものや鉄五郎の無礼な態度は、藩の役人の心証を害し、「遠慮」の処分をされてしまいました。

(その他の記事)
・御公儀様の御姫様が着用された裳が、酒井若狭守様の御姫様に下賜され、それがこの度れいに下賜されることとなった。寺に納めるようにとのことである。御紋が切り抜かれていたので、縫って神龍寺に納めるつもりである。
・伊勢屋の出店の隠居が亡くなったことを昨日知った。本日、人を遣わした。香典は二朱。中城の伊勢屋本家に忠勤第一の人物であった。


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