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嘉永7年9月中旬・大原幽学刑事裁判

2024年10月24日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永7年9月中旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(気になった部分のみ)。
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嘉永7年9月11日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は非番のはずだったが、朝掃除、着物の洗濯、昼から障子張り、御弓場の設営。九ツ時に平作殿が「用事で下町に行くから後はよろしく」といわれ、引き続き仕事。
幸左衛門殿は八ツ半時に松枝の借家町へ行った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は本日休み(非番)なのですが、結局一日中仕事。同僚の平作は五郎兵衛に仕事を押し付けて下町へ。平作はこのところサボり気味です。

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嘉永7年9月12日(1854年)添番
#五郎兵衛の日記
朝掃除、時触れ、楊枝削り。七ツ時、幸左衛門殿と一緒に、牛込揚場の湯に行く。帰りに問屋で黒餅一抱を232文で買って帰る。本日夜番は休み。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
記事中の「牛込揚場」は現在は「新宿区揚場町」。夕方が比較的暇なのか、七つ時から銭湯に行っています。帰りに黒餅を一抱も買っています。やはり五郎兵衛は食いしん坊です。これでは幽学先生ならずとも、食べ過ぎに注意といいたくなります。
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嘉永7年9月13日(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
同僚と一緒に田中様と安達様の米搗き。暮方から同僚は外出してしまい(宜平殿は松枝町の借家へ、平作殿は麹町大崎方へ)、小生一人で仕事。本日月見。奥や御家中様より団子、芋、栗、豆をお祝いでいただく。九ツ半から夜番。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
旧暦9月13日は十三夜のお月見。五郎兵衛はお祝いの品(団子、芋、栗、豆)をもらっています。食いしん坊五郎兵衛だけあって、食べ物はきっちり記録しています。

〈詳訳〉
本日は本番。六ツ時から田中様の米搗き、宜平殿、平作殿と三人で替わるがわる九ツ半迄。七ツ時から安達様の米搗き。暮方に宜平殿は松枝町の借家へ行き、平作殿は麹町大崎方に行ってしまって、小生一人で夜具上げ。時触れ。本日月見。奥や御家中様より団子、芋、栗、豆をお祝いでいたはだく。九ツ半より夜番を勤める。

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嘉永7年9月14日(1854年)
#五郎兵衛の日記
非番予定だったが、平作とシフト交替。六ツ時より安達様の米つき、掃除、夜具下げ。五ツ時に宜平殿が戻る。安達様及び宮本様の米つき暮方まで。平作殿は、小川町の御門番に異動することになり、本日引越し。小生は九ツまで夜番を勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「平作殿」は、五郎兵衛が藪家で働き始めた当初からの同僚(7月13日条)でしたが、この度、小川町の門番に転勤となりました。荷物が少ないからか、命じられたら、すぐ小川町に行ったようです。


〈詳訳〉
非番予定だったが、平作とシフト交替となり、勤務。六ツ時より安達様の米つき、掃除、夜具下げ。五ツ時に宜平殿が戻ってきたので、かわるがわる米搗き。九ツ時安達様の米つき終わり、次いで宮本様の米搗き暮方まで。平作殿は、小川町の御門番は勤めることとなり、本日引越し。小生は九ツまで夜番を勤める。


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嘉永7年9月15日(1854年)添番
#五郎兵衛の日記
殿様の御登城日。
朝掃除、楊枝削り。四ツ谷まで使い。
幸左衛門殿と松枝町の借家に灰を持っていく。本町へ廻り安達様の為に砂糖購入。飯田町の湯へ行き、五ツ時に御屋敷に戻る。九ツ半から夜番。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「安達様」(旗本籔家の家来か)は、五郎兵衛にちょくちょくお使いを頼んでいます。こうしてみると砂糖が多いですね(今日も砂糖です)
・砂糖(本町の小西利左衛門)(閏7月4日条)
・砂糖(8月13日条)
・葛(9月9日条)

〈詳訳〉
本日殿様は六ツ半時に御登城。
添番。朝掃除、宜平殿と二人で髪結い。楊枝削り。八ツ半時、田中様から四ツ谷までの使いを頼まれる。七ツ半に戻り。幸左衛門殿と二人で松枝町の借家に灰を持っていく。日暮れ後に本町へ廻って安達様の為に砂糖を買って帰る。飯田町の湯に入って、五ツ時に御屋敷に戻る。九ツ半から夜番も勤める。

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嘉永7年9月16日(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
朝掃除、宜平殿と二人で着物洗濯。楊枝削り。夜番を九つまで勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は本番と九つ(深夜0時)までの夜番勤務。よく働くので、籔家でも五郎兵衛は珍重されたのではないでしょうか(それにしても働かせ過ぎのようではあります)。奉公人の人員は明らかに減っていますが、五郎兵衛は文句も言わずに仕事をこなしています。


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嘉永7年9月17日(1854年)
#五郎兵衛の日記
非番のはずだったが、仕事(宜平殿も)。掃除、床下げ、馬場の仕度。昼から御弓場の設営。九ツ半から夜番。真夜中(四ツ半時)に平作殿が来て道具を持って行った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛の仕事には「馬場の仕度」とか「御弓場の設営」があり、藪家の家来が御屋敷内で練習していることがわかります。昨年にはペリーが来航しており、軍事対応の必要性が増していたのでしょうが、相変わらずの弓馬の調練で大丈夫でしょうか。

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嘉永7年9月18日(1854年)添番
#五郎兵衛の日記
朝掃除、時触れ、楊枝削り。七ツ時に牛込薬店の湯に行く(大寺と)。九ツまで夜番勤務。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は、大寺さんとはよく一緒に風呂に入りに行ってます。今日もまた一緒に銭湯へ。
・幸左衛門殿と大寺と堀田の湯へ(7月28日条)
・幸左衛門殿、大寺と牛込の薬店湯へ(閏7月17日条)
・大寺と二人で薬店の湯(8月7日条)

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嘉永7年9月19日(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
朝掃除、四ツ時に御奥様が外出なさるとの御触れを聞く。八ツ時に御奥様は雉子橋様へ行かれた(御供揃)。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本日は「御奥様」の公式の外出。五郎兵衛はどのような供がついていたのか、日記に記録してくれています。
行き先は「雉子橋様」。「雉子橋」は橋の名前なので、橋近くに屋敷がある方のところに行かれたのでしょう。

〈その他の記事〉
本日は御供揃で御奥様は雉子橋様へ行かれたとありますが、御供を次のとおり記録したいます。
御駕籠四人
御脇
御取次壱人
奥附壱人
御近習二人
御先 半助、安左衛門
御箱持壱人
御草履取壱人
押壱人
釣台弐人
女中供
腰添壱人
草履取壱人
もの持壱人
五味庄太夫
若党壱人
草履取壱人

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嘉永7年9月20日(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
・今日は三峯様の御祭り。
朝掃除の後、赤飯を作り御家中衆へ配る。
晩に御家中衆は大座敷で酒盛り。
・宜平殿は腫物が痛み、休むために九ツ半時に松枝町の借家へ行った。御屋敷の仕事は
藤助殿と二人で勤めた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「三峯様」は三峯神社の神社のことでしょうか。御家中衆は午前中に赤飯を配られ、晩には大座敷で酒盛りに興じています。

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