歴史作家 智本光隆「雪欠片―ユキノカケラ―」

歴史作家 智本光隆のブログです。

祈念―がんばろう東北―

桜の花に癒され、地震の爪あとに涙し・・・しかしながら確実に仙台の街は復興しております。1歩づつではございますが、前進していきたいと思っております―8年前、被災地からこの言葉をいただきました。今年もまた、春がめぐって来ました。今も苦しい生活を送られている方々に、お見舞いを申し上げます。本当に1日も早い復旧、復興がなされますよう、尽力して行きたいと思っております。

本能寺将星録紀行2―勝龍寺城―

2010-12-15 00:24:30 | 本能寺将星録
さて、「本能寺将星録紀行」第2回は長岡京市の「勝龍寺城」です。
この城は織田政権で細川家の居城となり、今作では度々登場しております。

古来においてこの地は桓武天皇により、長岡京が造成されたのは有名なところ。
この一帯は久我畷と称され、京都―難波間の交通の要所でもあり、同時に軍事的対立の場所でもありました。
智本光隆は元々、専攻は南北朝時代ですが元弘、建武、そして観応の擾乱と幾度も戦いの舞台となっております。
特に有名なのは元弘3年4月、足利尊氏はこの地で鎌倉幕府に離反し、丹波篠村八幡宮で宮方の旗を掲げています。
この軍勢の中には細川家の祖先も、当然加わっていた訳で。

時代はやや下り、1338年(延元4 暦応2)、南朝は北畠顕家、新田義貞が立て続けに死んだその年、
足利方が洛南のこの地に築いたのが勝龍寺城です。
淀川南の男山は南朝の拠点のひとつであり、都奪還を目指す宮方に備える目的があったとされます。
そして、この城を築いたのが細川頼春。その子が藤孝、忠興の祖先となる細川頼有になります。

しかしながら、この伝承は後に勝龍寺城城主となった細川氏が、正統性を強調する為の創作との説もあります。
ただ、当時の南北朝の力関係から、この地の北朝方拠点を任せられるのは、京都守護を務める細川頼春というのが妥当な気も。
実際、頼春は正平の一統による宮方の京都乱入で、都を守って戦死していますし。

さて、そんな感じで長岡京駅から、いざ勝龍寺城へ!・・・・・休園日でした!!
現在、城跡は「勝龍寺公園」になっているそうです。
仕方なく、これだけ撮って帰るさ。平成4年から「長岡京ガラシャ祭り」があるそうです。



かかり付けの眼科さんに聞いた話なのですが、熊本にも「ガラシャ通り」があるそうな。

・・・地元の皆さん、忠興にも少し触れてあげて下さい。

で、めげずに二日後。


   
ちなみにイベントの際には、城門に「九曜」と「二引両」の旗が立つようです。


作中でも触れていますが、永禄11年(1568)の織田信長の上洛時、勝龍寺城は三好三人衆のひとり岩成友通の支配下。
藤孝はこれを討ち果たし、信長より先祖由来の城と長岡の一帯を与えられました。
忠興と珠子はこの勝龍寺城において婚儀を上げております。公園内には平成3年鋳造の銅像が。


   
以前のものと別アングル。そして、城内の様子を。


ちなみに、勝龍寺城は小説(主にガラシャ主人公や明智物)ではただの小城に描かれることが多いですが、
発掘調査ではかなりの規模の城であったとのこと。作中では折衷的な描写になってますが。
他の作中描写としては大手道の松並木とかあります(現存はせず)
そちらは「山城国西岡御領地之図」(永青文庫)に拠っています。

勝龍寺城は本能寺の変当時、帰属が少々不明な面もあります。
基本、地元では細川家の城と位置付けているようです。
そんな訳で、今作でもそのように(笑)



別アングルと言いながら、前のと似てたので別の角度を。スイマセン。









グランプリファイナル

2010-12-12 00:00:55 | 日記
ここ数日、アクセス数も増加しております。
母校のツイッター見て来て頂いた方もいらっしゃるかと思います。
皆様、ありがとうございます。
「本能寺将星録紀行」の第2回は近日中には何とか。


で、本日はフィギュアスケートのグランプリファイナルありました。
織田選手&村上選手。表彰台おめでとうございます。
しかし、今更ながら織田信高の末裔を称する織田信成選手。
おめでとうというか、惜しかったというべきか。
多分、一番悔しいのはご本人だと思いますが。

そういえば、織田信高って名前だけでも出したことないなあ。
踊る役とか?織田家は芸術家肌多いし。
そして、装束のひ(以下、自主規制)

3月には東京で世界選手権があるので、日本勢が好調だと楽しいですね。
その時まで、浅田真央選手は復調するのかどうか。
・・・ちなみに、今日の大会で浅田選手の横断幕映りませんでした?
いいのかいな、そんなの(笑)


智本光隆

本能寺将星録紀行1―高桐院―

2010-12-09 21:29:21 | 本能寺将星録
12月24日発売の『細川忠興戦記 本能寺将星録』に先駆けて、このブログでもちょこっと企画を。
今年6月末、本作執筆のために取材に行きましたので、その写真を随時公開したいと思います。
その第1回は京都紫野の「高桐院」(こうとういん)です。

同院は京都の大徳寺塔頭のひとつで細川忠興、珠子(ガラシャ)の墓があります。
初回から墓ってのも何ですが、まずはご本人に挨拶が大事(笑)
大谷家の場合、墓所が群馬県伊勢崎にあるので楽でした。吉勝も吉継も入ってないんですが・・・

高桐院は慶長6年(1601)建立、開祖は細川藤孝の弟・玉甫紹そう(王に宗)です。智本光隆は京都在住が長かったので、
大徳寺には行ったことがありましたが、高桐院はこれが初めて。

   
参道、そして緑の天蓋


書院南庭


本作は本能寺の変(天正10年)が舞台ですので、もちろん高桐院は登場しないのですが、
ここをモデルとした庭が度々登場しております。



そして、忠興と珠子の墓所へ。

「誠心誠意、書かせて頂きます」と挨拶を。そして、前作の描写を謝罪。


これは千利休秘蔵の石灯篭。天下一の灯篭との評があったもので、豊臣秀吉から求められたものの、
裏面に傷をつけてキズモノとしてこれを逃れ、切腹の際に忠興へと贈ったという逸話が。
後日、完全を忌む忠興自身が付けた傷もあるとの伝承あり。

ちなみに、後に細川家が転封された熊本の泰勝寺には藤孝、麝香夫妻、忠興、珠子夫妻の墓石が
一ヶ所にあるとのことですが、4つ同じ大きさのようです。
去年、大河ドラマ「天地人」で直江兼続夫妻が同じ大きさの墓で並んでいるとありましたが、
そう言えば僕の地元の酒井重忠夫妻も同様。(2代目からは藩主のみ)
これは、全国的に同様か?
珠子の墓は大坂の崇禅寺にもあるとのことです。

しかし、横には細川藤孝以下、歴代当主の墓も。
その中で、自分と珠子の墓だけ別に建立する忠興。

ちなみに、ちょうど今の時期は紅葉の名所として有名。
「緑の庭」から「赤の庭」へ?






入稿完了・・・そして歴史ヒストリア

2010-12-08 21:22:05 | 日記
入稿しました。
現状、下の写真のよう。
ちなみに、今日は真珠湾攻撃の日です。
空母赤城より発進!!目標は下の工房(笑)

先日、NHK歴史ヒストリアで「私は愛を信じます~絶対に裏切らない武将~」が放送されましたね。
主人公は高山右近重友。実は12月24日発売の『細川忠興戦記 本能寺将星録』に出演しています。
しかも、かなり重要な役どころで。

本作は言わずと知れた「歴史シュミレーション戦記」ですが、
今作では「信仰に生きた高山右近」に対して、「そうしなかった細川忠興」のようになっています。
裏切らない・・・それは信仰に対して?それとも主君に対して?領民に対して?それとも・・・
録画を見て、ちょこっと感じた次第。



写真は所用でお伺いした陶芸で有名な赤城山の「清山」・・・と猫。


智本光隆

掲載誌ご紹介

2010-12-08 06:12:07 | 関ヶ原群雄伝
少し前のことですが、前作『関ヶ原群雄伝』が雑誌で紹介されております。

                     
                     続戦国武将ぴあ(ぴあMook)


発売は9月17日でこのブログ立ち上げより前でしたが、
まだ店頭にあるようなので紹介しておきます。

『関ヶ原群雄伝3 小早川秀秋の決断』が大御所様の著作にまじって紹介されています(汗)
いいんかいな・・・

本作の主人公は大谷吉勝ですが、秀秋は準主役格。特に3巻はその決断が焦点となっております。
秋の矢矧に雪が降る?

お見かけの方は、是非ご覧ください。
さて、今日は入稿だ・・・


智本光隆