歴史作家 智本光隆「雪欠片―ユキノカケラ―」

歴史作家 智本光隆のブログです。

祈念―がんばろう東北―

桜の花に癒され、地震の爪あとに涙し・・・しかしながら確実に仙台の街は復興しております。1歩づつではございますが、前進していきたいと思っております―8年前、被災地からこの言葉をいただきました。今年もまた、春がめぐって来ました。今も苦しい生活を送られている方々に、お見舞いを申し上げます。本当に1日も早い復旧、復興がなされますよう、尽力して行きたいと思っております。

冬山!!

2011-01-18 00:16:28 | 日記
寒いですね~
そんな訳で、近年はあまり白くならない山も雪化粧を。



赤城山。撮影後、再び雲の中に。


「雪欠片」とブログタイトルを付けながら、
本能寺将星録紀行などまったく季節感を無視した、更新が続いてすいません。
そもそも、雪に関する写真これが初めてだ。

そんなこの日、東日本の新幹線にトラブルがあったらしく。
昨日、一昨日のセンター入試の日でなかったのがせめてもの救いでしょうかね。


話がまったく変わりますが、校正終わってからようやく書店を回る時間が。



紀伊国屋書店前橋店様


ありがとうございます!!励みになります!!これからもがんばります!!
・・・なお、決して作者が自分で並べた訳ではありません。
念のため。


智本光隆

智本光隆と歴史群像新書2

2011-01-16 03:35:08 | 日記
さて、第2回・・・というか、2回目が最終回かも知れない。


               
             『反関ヶ原』(工藤章興) 1995年


工藤章興氏『反関ヶ原』全5巻。何故か本棚に第1巻がないので画像は最終巻。

主人公は石田三成家臣の島左近。
「本能寺で織田信長が死ななかったら?」に並ぶ永遠のIf、
「関ヶ原で小早川秀秋が西軍を裏切らなかったら?」に、多分最初に答えを出した名作。
関ヶ原本戦は第1巻ですが、以後、岩殿城での最終決戦までの全国規模の合戦が描かれています。

実はこれを読んだあと、自分でもシュミレーション小説書いて見ようかと思い立った経緯あり。
この作品を読む前から三成、大谷吉継というあたりは好きだったのですが、
『反関ヶ原』ではあまり活躍の機会なく。
「なら、自分で書くか!」と思い立ち、あっさり挫折!!

・・・で、時が流れること10数年。
ホントに書くことになった時、これを思い出したのですが、
この間に三成も吉継も各所で主人公になっております。
「なら、嫡男で!」と非常に安直な論法が展開された結果、
吉継の嫡男・大谷吉勝さんの出番と相成りました。
ある意味、『関ヶ原群雄伝』の生みの親とも言えるかも?


智本光隆


智本光隆と歴史群像新書1

2011-01-12 22:33:26 | 日記
校正終了から明日で1週間。
そろそろ、次なる始動の時期なのですが、その前に少し昔語りにでもお付き合い。
私、智本光隆と歴史群像新書との関わりなど。
そうは言っても、「五反田の学研本社に行きました!!」なんてのより、
随分と前の話になりますが。

私は元々、歴史畑ですので物書きとしては(小説などの)読書量にはかなり問題がある方で。
本は手当たり次第!!というのとは程遠い学生時代でした。
一応、高校の頃から歴史小説は好きで「燃えよ剣」から入ってという、良くあるコース。
そんな智本光隆が最初に出会った歴群新書は、


             
          『坂東武陣侠』(中里融司) 1994年


中里融司氏『坂東武陣侠』。第1回歴史群像大賞優秀賞受賞作です。

今更に気が付きましたが、僕が手に取ったのは発売日よりもかなり後。
当時、新幹線に乗るのに新横浜駅前の書店で偶然購入しました。
当時、if戦記といえば太平洋戦争ものが主流だったような気がします。
その中で、武田勝頼が主人公というのは斬新でした。

「武田勝頼とは、本当に無能な男だったのか?」
これは前書きの一文ですが、これはある意味、現在の僕の主人公選択の原点とも言えます。
否定的描写の目立つ、あるいは無名な主人公を取り上げて見たい・・・
大谷吉勝、細川忠興、そして受賞作『風花』の新田義顕しかり、ですね。
その後、歴群新書とは離れた時期がありましたが、中里先生の作品は好きで、
たまに書店で見つけると目を通していました。

ちなみに、中里氏は現在は歴史群像大賞の選考委員のおひとり。
中里氏が第1回で、僕が第14回の優秀賞です。
運命を・・・勝手に感じてます。
新横浜の本屋でこれを手に取った時、まさかそうなるとは考えても見なかった(当たり前か)
90年代は遠くなりにけり・・・強く感じる今日この頃。


智本光隆



本能寺将星録紀行6―愛宕山 百韻は見ず―

2011-01-11 22:56:27 | 本能寺将星録
さて、安土より帰還。
次なる目的地は洛西深く分け入った地、その名は愛宕山。

愛宕山は山城・丹波の国境に位置する山。
大宝年間(701-704)に神廟が開かれ、古来より修験道の聖地とされた山です。
本能寺の変直前の天正10年5月28日、この山を訪れた明智光秀は連歌会において百韻の発句に
「時は今、雨が下知る皐月かな」と読み、織田信長への叛意を示したと。

ちなみに『本能寺将星録』を書くにあたり、真っ先に思い描いたのは、
愛宕山での細川忠興と明智光秀のシーンだったりします。

さて、そんな訳で三条京阪からバスで麓の清滝へ。



嵐山経由。修学旅行生が大勢いました。


しかし、この日は前夜から雨。まあ、「梅雨の時期であるから、一日中晴れた空を仰ぐということは難しい」
・・・何てシーン何処かにありましたが、まさにそんな時期で。
清滝に到着する頃には、何とか雨は上がりましたが。ちなみに、客は僕ひとり。



渡猿橋から清滝川を望む。


愛宕へと修業に訪れた文覚上人が、ここで猿が連なって魚を取っていたことに由来。
作中にも登場するのですが、橋そのもの写真を撮っていない間抜け。
しかし、また雨が。う~ん、どうしたもんか。15分程度、様子を見ましたが。



10時23分、入山します。


『本能寺将星録』の作中、愛宕山と細川家とは密接な関係があったとしています。
京兆家の細川政元は修験道にのめり込んだとされ、奇人変人に描かれることが多いのですが、
細川家(京兆家)の全盛を築いた男には、思惑があったに違いない・・・そこから得た描写になりました。

この愛宕山、戦前はロープウェイが設置され、山頂にはスキー場やホテルが建設されたとのこと。
戦時中の金属供出で廃止、戦後は信仰の山へと戻りました。
その参道に足を踏み入れたのですが・・・

一歩、登る度に足を取られる、泥の参道。
振ったり止んだりの雨。
で、あっちこっちに流れる小川?を飛び越える。

まず、30分歩いたのですが、この時点で靴はずるずると滑る。
装備はそれなりに背負っていたのですが、靴が少々甘かったかも知れません。
根本的に僕の登山スキルの問題という気がしますが。

更に10分歩いたところでかなり強めの雨。
愛宕山は普通に登っても2時間~2時間半はかかるそうなので、
この様子だと3時間は見なければならない。
下山は夕方。いや、この足元ではもっとか。

しかし、智本光隆は入山に際し、ひとつの誓いを立てました。
「如何な状況でも、山頂までいければ今度の作品も、書き上げることが出来る」と。
その決意を新たにした瞬間、頭の上から振ってきたような天の声。
担当・A田氏「いや、登らなくても書いて下さい」
そんな天の声にも変な声が。
・・・はい、そうっすね。

一応、その後も5分程度進んだのですが、濁流っぽいのが行く手を阻むに至って断念。
すいません、山を甘く見てました。
この翌日、母校を訪問して恩師の先生とそのゼミ生(後輩にあたるのか)にこの話をした所、
「そりゃ、この時期に無茶だ」
と斬って捨てられました。

しかし、梅雨の時期にこの山を登った光秀、そして忠興(作中では)はすごい!!
それを実感して、愛宕を去りました。
何だよ、この締め方は。

途中で写真どころではなくなったので、数枚ですが一応。


 
参道の傍らには地蔵菩薩。このあたりはまだ歩きやすい。


ちなみに、嵯峨周辺には足利尊氏が後醍醐天皇を弔った天龍寺、
他に新田義貞、楠木正行、足利義詮の墓なんかもあります。
南北朝ファンにはかなり嬉しい。
京都在住当時、もちろん行ったことはありますが、当時はフィルムカメラだったもので、
機会があれば写真を整理して紹介を。


さて・・・そんな訳で今日の所は帰りましょう。
ところで、智本光隆は大学在学中、左京区一乗寺に暮らしておりました。
今回も、そのあたりに泊まっております。
一乗寺と言えば宮本武蔵と吉岡一門の決闘「一乗寺下がり松」で有名ですね。
で、そんな我が下宿の街。どんな所かといいますと、



叡山電鉄一乗寺前。


はい、こんな所。分かる人、多いのか少ないのは見当もつかない。
いや、深夜に偶然見た時は驚いた。
あのアニメ作った奴、きっと天天有のラーメン食ってたな。
俺は鶴はしも好きだけど。



ちなみに隣、修学院駅。


何気に今日で6日連続更新。このブログ始まってから初。
・・・って、今回は一体、何の紀行やねん!!





初市!!

2011-01-10 01:37:55 | 日記
朝にお焚き上げがありましたが、1月9日は初市でございます。
前橋初市は厩橋初代藩主・酒井重忠(『関ヶ原群雄伝』に登場してました)の代か続くとの伝承あり。
別名、だるま市とも呼ばれております。

近年、規模が縮小気味(いや、笑えないな・・・)ですが、地元の新春の風物詩。
ただ、カメラは持っていかなかったので、購入品の写真を。




「縁起だるまの小林山」というのが上毛かるたにありますが、
群馬といえばこのだるまか。
天明の大飢饉対策に農家の副業に広まったとのこと。

ただ、我が家は元々養蚕農家。






まあ、そういう訳でもないのですが、まねき猫を購入。
養蚕農家ではネズミ対策に猫を用いること多し。
「猫絵」を描いて後世に残した領主もおります。

ちなみに、この猫は前年に吉事があれば翌年はひとつ大きなものを購入すると。
完全に店主の売り言葉な気がしますが。
「限界まで大きくなったら?」
「いや、私の身長位のもあります」
との返答。
とはいえ、去年は総じて好事。ひとつ大きくしておこうか。
景気よく、値引いてくれたことだし(笑)



智本光隆