前回はティレル020というマシンに焦点を当ててお送りしましたが、今回はそのマシンが走った1991(平成3)年のF1の話です。
この年はシーズン開幕の直前まで湾岸戦争に世界が揺れておりました。開幕戦のアメリカGPでティレルがダブル入賞、さらに鈴木亜久里も6位入賞と、日本のファンにとってもこれ以上はないスタートでしたが、これ以降日本人の入賞はありませんでした。
この年の最初のハイライトは次のブラジルGPで、A.セナが初めての母国GP優勝を飾りました。このレース、セナは手負いのマシンをなだめすかしながら走り、最後は6速ギアだけで走っていたと伝えられています。そして、開幕からマクラーレン・ホンダはセナの活躍もあり、勝ち星を重ねていきます。ホンダはこの年からV12エンジンを開発、マシンに搭載して勝利を積み重ねました。おそらく、ホンダの「仮想敵」は同じV12エンジンを積むフェラーリだったのでは、と思います。しかし、フェラーリはプロストとアレジを以てしても勝つことはかなわず「暗黒時代」が1994年頃まで続くことになります。
しかし、フェラーリの代わりにタイトル争いに名乗りを挙げたチームがありました。それがウィリアムズ・ルノーとドライバーのナイジェル・マンセルでした。コンパクトにまとまったルノーV10エンジン(「大佐」ベルナール・デュドが率いるルノーも、ホンダに負けない先頭(戦闘)集団でした)と、空力の魔術師・エイドリアン・ニューウィーのデザインした車体は、F1がトータルなパッケージの時代に入ったのだなと印象づけられました。マンセルと僚友パトレーゼは徐々に調子を上げていきます。特に7月のフランスから9月のイタリアまでのヨーロッパラウンドはヒリヒリするくらいのつばぜり合いが繰り広げられました。その間にホンダの創業者・本田宗一郎氏が亡くなり、中嶋悟が引退表明、さらにはベルギーGPでミハエル・シューマッハが新興チーム・ジョーダンからデビュー→1戦でベネトンに移籍という大きな出来事もありました。ベネトンではこれが最後のシーズンとなったピケとコンビを組みます。また、ジョーダンの緑色のマシンも好走し、注目を集めていました。レースだけでなく、背景にいろいろなことが起きるのがF1ではありますが、90年代のF1のサマーラウンドというのは夏の太陽を追いかけるかのように過ぎていく感がありました。
セナを追い上げたマンセルではありましたが、ポルトガルGPのピット作業の不手際でピットアウト直後にタイヤが外れるまさかのアクシデントがありました。これでかなり分が悪くなったマンセルですが、次戦のスペイン(今も続くバルセロナ・カタルーニャサーキットでのレースは、これが最初でした)では長いストレートでセナを抜き、タイヤ無交換で勝利を挙げます。
そこで迎えた鈴鹿ではマンセルのリタイヤでセナのタイトルが確定、レースでもセナが勝つかと思いきや、最後にチームメイト・ベルガーに勝利を譲ったのでありました。露骨に勝利を譲られたベルガーの胸中はどのようなものだったのでしょうか・・・。最終戦の豪州は大雨で短縮終了となり、少々後味の悪いシーズン閉幕でありました。
今よりもレース数の少ないシーズンでしたが、それぞれにドラマがあり、今でも思い出します。
さて、ティレル020の話に戻りまして、私も模型で作りました。タミヤ1/20のキットです。写真のマシンを組んだのは今から15年近く前になりますので旧作ですがご容赦ください。
車体色のガンメタルはタミヤから専用色が出ていましたが、実際にはかなり黒っぽく見えます。当時はまだ流通していたモデラーズのガンメタルのスプレーを吹きました。マーキングはキットの純正ではなく、サードパーティーのものを使用しています。白い帯も塗装にしています。モナコGP(名物のトンネルを抜けた地点で中嶋が最高速をマークしたと言われています)の仕様にしたと思います。
傍らに立つ中嶋悟のフィギュアはモデラーズ1/20です。長らく手元にあったものを最近仕上げました。モデラーズからはドライバーのフィギュアが何種類か発売されておりましたが、どれも特徴を捉えたものばかりでした。離型剤を落とし、サーフェーサーを吹いた後、グリーンマックスの鉄道カラー・No.21アイボリーAを吹きました。光の当たり方で白というよりもアイボリーに見えるときがあり、この色を使いました。さらにファレホのオフホワイトでハイライトをつけました。他の方も指摘されていましたが、発売からだいぶ経っていたこともあってデカールはかなりダメージを受けており、水につけてバラバラになったものもありました。結局、お腹の「BRAUN」のロゴはネットから落としたものを自作デカールにしています。
バックのCDはF1をイメージしたT-SQUARE&Friendsのアルバム「F1GRANDPRIX WORLD」です。91年鈴鹿のマシンのエンジン音が入った「TRUTH」や中嶋悟をイメージした「ホームストレートの雨」といった曲もあり、私のお気に入りのCDです。アルバムのラストは中継のエンディングテーマだった「IN THIS COUNTRY」です。
1991年日本グランプリのプログラム(左側)と。
この頃はあまり速報誌は読まず、年に数回特集が組まれた「Number」誌とフジテレビのF1ポールポジションなどで情報を得ていました。
左側のNumber誌は日本GPのプレビュー号です。中嶋悟・長島茂雄両氏の対談というのも組まれていました。この中で「ミスター」長島氏が「実現しなかったけど若いころにドジャースでプレーするプランがあった」と明かしています。なお、この号でもインタビューの中で中嶋選手がマシンが思ったように仕上がらない、重い、といったことを今宮純氏に打ち明けているのが分かります。他にも1976、1977年の日本GPの話や、海外でF1と関わる企業戦士たちの話など、読み応えのある1冊です。久しぶりにページをめくりながら、あの頃の甘くて苦い思い出がよみがえってきました。
右側はモデルアート1991年10月号。モデルアートでもこの時代はよくF1特集が組まれております。タミヤのキットの紹介記事も掲載されており、参考にした記憶があります。
さて、GPCarStoryの記事に戻りまして、遠藤俊幸氏が当時21歳の学生としてスタンドから日本GPを観戦した話とともに「中嶋さん」への思いを綴っています。私もとても共感したのが、中嶋悟の引退した38歳という年齢のことで、遠藤氏自身が「38歳の自分は(中嶋さんに比べて)子供だった」という件でした。私もあの頃「中嶋さん」の表情、一挙手一投足を見るにつけ、自分も38歳になったら、ああいう「大人」になっているのだろうか、と想像しましたが、実際にはそんなことはなくて本当に「子供」でありました。没落独身貴族などとうそぶいてあちこちのライブハウスやら、飲み屋やら、スタジアムに行きつつ、でも中嶋さんのような「覚悟」とか「責任」のない男だったように(今でもそうですが)思えるのです。一応仕事では評価していただけることもあったのですが、中嶋さんに比べたら、背負っているものが全然違うのですから、仕方ありません。
今回のブログ、最後は自分の話になってしまいましたね。さて、このティレル020というマシン、ここで終わりではありませんでした。次の、さらにその次のシーズンまで使われたのです。そのあたりの話も次回したいと思います。
この年はシーズン開幕の直前まで湾岸戦争に世界が揺れておりました。開幕戦のアメリカGPでティレルがダブル入賞、さらに鈴木亜久里も6位入賞と、日本のファンにとってもこれ以上はないスタートでしたが、これ以降日本人の入賞はありませんでした。
この年の最初のハイライトは次のブラジルGPで、A.セナが初めての母国GP優勝を飾りました。このレース、セナは手負いのマシンをなだめすかしながら走り、最後は6速ギアだけで走っていたと伝えられています。そして、開幕からマクラーレン・ホンダはセナの活躍もあり、勝ち星を重ねていきます。ホンダはこの年からV12エンジンを開発、マシンに搭載して勝利を積み重ねました。おそらく、ホンダの「仮想敵」は同じV12エンジンを積むフェラーリだったのでは、と思います。しかし、フェラーリはプロストとアレジを以てしても勝つことはかなわず「暗黒時代」が1994年頃まで続くことになります。
しかし、フェラーリの代わりにタイトル争いに名乗りを挙げたチームがありました。それがウィリアムズ・ルノーとドライバーのナイジェル・マンセルでした。コンパクトにまとまったルノーV10エンジン(「大佐」ベルナール・デュドが率いるルノーも、ホンダに負けない先頭(戦闘)集団でした)と、空力の魔術師・エイドリアン・ニューウィーのデザインした車体は、F1がトータルなパッケージの時代に入ったのだなと印象づけられました。マンセルと僚友パトレーゼは徐々に調子を上げていきます。特に7月のフランスから9月のイタリアまでのヨーロッパラウンドはヒリヒリするくらいのつばぜり合いが繰り広げられました。その間にホンダの創業者・本田宗一郎氏が亡くなり、中嶋悟が引退表明、さらにはベルギーGPでミハエル・シューマッハが新興チーム・ジョーダンからデビュー→1戦でベネトンに移籍という大きな出来事もありました。ベネトンではこれが最後のシーズンとなったピケとコンビを組みます。また、ジョーダンの緑色のマシンも好走し、注目を集めていました。レースだけでなく、背景にいろいろなことが起きるのがF1ではありますが、90年代のF1のサマーラウンドというのは夏の太陽を追いかけるかのように過ぎていく感がありました。
セナを追い上げたマンセルではありましたが、ポルトガルGPのピット作業の不手際でピットアウト直後にタイヤが外れるまさかのアクシデントがありました。これでかなり分が悪くなったマンセルですが、次戦のスペイン(今も続くバルセロナ・カタルーニャサーキットでのレースは、これが最初でした)では長いストレートでセナを抜き、タイヤ無交換で勝利を挙げます。
そこで迎えた鈴鹿ではマンセルのリタイヤでセナのタイトルが確定、レースでもセナが勝つかと思いきや、最後にチームメイト・ベルガーに勝利を譲ったのでありました。露骨に勝利を譲られたベルガーの胸中はどのようなものだったのでしょうか・・・。最終戦の豪州は大雨で短縮終了となり、少々後味の悪いシーズン閉幕でありました。
今よりもレース数の少ないシーズンでしたが、それぞれにドラマがあり、今でも思い出します。
さて、ティレル020の話に戻りまして、私も模型で作りました。タミヤ1/20のキットです。写真のマシンを組んだのは今から15年近く前になりますので旧作ですがご容赦ください。
車体色のガンメタルはタミヤから専用色が出ていましたが、実際にはかなり黒っぽく見えます。当時はまだ流通していたモデラーズのガンメタルのスプレーを吹きました。マーキングはキットの純正ではなく、サードパーティーのものを使用しています。白い帯も塗装にしています。モナコGP(名物のトンネルを抜けた地点で中嶋が最高速をマークしたと言われています)の仕様にしたと思います。
傍らに立つ中嶋悟のフィギュアはモデラーズ1/20です。長らく手元にあったものを最近仕上げました。モデラーズからはドライバーのフィギュアが何種類か発売されておりましたが、どれも特徴を捉えたものばかりでした。離型剤を落とし、サーフェーサーを吹いた後、グリーンマックスの鉄道カラー・No.21アイボリーAを吹きました。光の当たり方で白というよりもアイボリーに見えるときがあり、この色を使いました。さらにファレホのオフホワイトでハイライトをつけました。他の方も指摘されていましたが、発売からだいぶ経っていたこともあってデカールはかなりダメージを受けており、水につけてバラバラになったものもありました。結局、お腹の「BRAUN」のロゴはネットから落としたものを自作デカールにしています。
バックのCDはF1をイメージしたT-SQUARE&Friendsのアルバム「F1GRANDPRIX WORLD」です。91年鈴鹿のマシンのエンジン音が入った「TRUTH」や中嶋悟をイメージした「ホームストレートの雨」といった曲もあり、私のお気に入りのCDです。アルバムのラストは中継のエンディングテーマだった「IN THIS COUNTRY」です。
1991年日本グランプリのプログラム(左側)と。
この頃はあまり速報誌は読まず、年に数回特集が組まれた「Number」誌とフジテレビのF1ポールポジションなどで情報を得ていました。
左側のNumber誌は日本GPのプレビュー号です。中嶋悟・長島茂雄両氏の対談というのも組まれていました。この中で「ミスター」長島氏が「実現しなかったけど若いころにドジャースでプレーするプランがあった」と明かしています。なお、この号でもインタビューの中で中嶋選手がマシンが思ったように仕上がらない、重い、といったことを今宮純氏に打ち明けているのが分かります。他にも1976、1977年の日本GPの話や、海外でF1と関わる企業戦士たちの話など、読み応えのある1冊です。久しぶりにページをめくりながら、あの頃の甘くて苦い思い出がよみがえってきました。
右側はモデルアート1991年10月号。モデルアートでもこの時代はよくF1特集が組まれております。タミヤのキットの紹介記事も掲載されており、参考にした記憶があります。
さて、GPCarStoryの記事に戻りまして、遠藤俊幸氏が当時21歳の学生としてスタンドから日本GPを観戦した話とともに「中嶋さん」への思いを綴っています。私もとても共感したのが、中嶋悟の引退した38歳という年齢のことで、遠藤氏自身が「38歳の自分は(中嶋さんに比べて)子供だった」という件でした。私もあの頃「中嶋さん」の表情、一挙手一投足を見るにつけ、自分も38歳になったら、ああいう「大人」になっているのだろうか、と想像しましたが、実際にはそんなことはなくて本当に「子供」でありました。没落独身貴族などとうそぶいてあちこちのライブハウスやら、飲み屋やら、スタジアムに行きつつ、でも中嶋さんのような「覚悟」とか「責任」のない男だったように(今でもそうですが)思えるのです。一応仕事では評価していただけることもあったのですが、中嶋さんに比べたら、背負っているものが全然違うのですから、仕方ありません。
今回のブログ、最後は自分の話になってしまいましたね。さて、このティレル020というマシン、ここで終わりではありませんでした。次の、さらにその次のシーズンまで使われたのです。そのあたりの話も次回したいと思います。