工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

天才マシンデザイナー批判序説!? フェラーリ412T1

2024年08月22日 | 自動車、モータースポーツ

 F1グランプリも夏の間のお休みが明けて次の週末からレース再開です。今年はなかなかの混戦模様になっておりますが、今日のテーマは30年前のシーズンを駆け抜けたマシンのお話です。

 三栄のGPCar Storyの今春の号がフェラーリ412T1でした。既に次の号も出ていますし(こちらもいずれ紹介しますね)、今さらなのは承知の上ですが、やはりご紹介したかったので書いております。こちらのマシン、1994年シーズンに向けて開発されました。天才デザイナー、ジョン・バーナードがフェラーリに復帰して手がけた1台であり、絞り込まれたボディとNACAダクトを思わせる空気取り入れ口が特徴でした。ジョン・バーナードは1980年代にいち早くカーボンを本格的に導入することで、マクラーレンを常勝軍団にすることに成功した立役者でしたし、80年代末にはフェラーリで641/2という非常に美しく、また速いマシンを生み出し、90年にはプロストがセナとタイトル争いをするところまで来ていました。ところが、彼が去った後のフェラーリは低迷、以前ご紹介したF92Aのような失敗作を含め、91年~93年は未勝利に終わってしまいました。そこで再びフェラーリにやってきたバーナードには大きな期待が寄せられたのでした。果たして彼がデザインしたマシンですが、素人目にも「随分と絞り込んだけどフェラーリは伝統のV12エンジンだし、冷却とか大丈夫かなあ」と思わせるものがあったのですが、案の定冷却不足などに泣かされます。そして、シーズン中盤から特徴あるサイドポンツーンをばっさり切った412T1Bに引き継がれます。この「魔改造」が功を奏した形となり、ドイツGPでは荒れた展開の中でベルガーが優勝し、久々の勝利をフェラーリにもたらしました。

(イギリスGPのプログラムより。既に開口部を広げるなどの小さな改良が始まっていました)

 本書ではいつものように関係者のインタビューなどを含めて、このマシンに迫っています。今回随分と関係者の口に上ったのは、これをデザインしたジョン・バーナードへの批判でした。一つはバーナードが本拠地のイギリスを動かず、イタリアのフェラーリ本社に椅子と机を持つわけでもなく、レースウィークは金曜日にサーキットにやってきて(的外れな)指示を出してイギリスに戻って、の繰り返しであり、セッティングの指示についてはあまり役に立たなかった、と述べるエンジニアもいますし、元ホンダでこのシーズンからフェラーリにいた後藤治さんに至っては「バーナードは空力もエンジンも分かっていなかった」とかなり厳しい評価です。空力への理解の無さ、というのはドライバーの一人、ジャン・アレジも指摘しているのですが・・・。

 このシーズンはアイルトン・セナの事故死など、大きな事故が続いたこともあって、急場しのぎの車輌規定の変更が相次ぎました。それと並行するかのようにフェラーリ412T1もインテークを広げてみたり、いろいろトライするも決定的な改善に至らず、とうとうシーズン後半からはグスタフ・ブルナーに「改良」をお願いするに至ります。そこで特徴的なサイドポンツーンを切り、よく言えば凡庸、悪く言えば美しさとは対極のマシンになりました。それが功を奏したわけですが、特に高速系のコースで力を発揮して、当時名うての高速コースだったドイツ・ホッケンハイムでのベルガーの勝利につながっていきます。この改造に対してジョン・バーナードはかなりご不満の様子で、インタビューでも「デザインを台無しにされた。サイドポンツーンが勝てなかった原因じゃない」と述べています。

(412T1B。この年のオーストラリアGPのプログラムより)

 ベルガーへのインタビューでは搭載されたエンジンについて、当時F1から撤退していたホンダの支援もあった、という話も出てきます。これは当時から伝えられていたところでしたし、ニキ・ラウダがホンダの川本社長(当時)に談判した、とベルガーも答えています。ホンダを辞めて時間が経っていたとはいえ、ホンダエンジンをよく知る後藤治さんが加入したというのも大きかったでしょう。

 低迷したフェラーリですが、翌年もアレジが初優勝(であり唯一のF1勝利)を遂げるなど、徐々にフェラーリも上向いてきました。96年にシューマッハが加入し、さらに強いチームになっていきますので、94年シーズンと412T1/T1Bは復活の第一歩となったマシン、と評価してもよいと思います。

 このシーズンは大事故が続くなど、F1にとっては試練の1年でした。セナが亡くなったイモラのレースで2位に入ったのは、テストでケガをしたアレジの代役でドライブしたニコラ・ラリーニでした。本書でも大事故の週末で素直に喜ぶことも難しい複雑な心境について本人のインタビューが掲載されています。

 ベルガー優勝のドイツGPですが、上位陣の脱落で予選5位につけていた片山右京(ティレル・ヤマハ)にも表彰台のチャンスがありましたが、やはりマシントラブルでリタイアしています。2位、3位に予選後方スタートのリジェ勢が入ったことを思えば、返す返すも残念なレースでした。94年の右京の躍進はこの辛いシーズンの数少ない明るい話題でした。このレース、当時許されていたレース中のピットでの給油作業で火災が発生しました。ベネトンのマシンが猛火に包まれたのですが、そのマシンの主はヨス・フェルスタッペンで、今やレッドブルのエースにしてチャンピオン、フェルスタッペンのお父さんでした。

 さて、マシンの話に戻りますが、フェラーリ好きの私の場合、タイトル獲得といったエポックメイキングなマシン(それに限らずF92Aのような美しき失敗作も)については、プラモデルかミニカーで持っているものですが、このマシンについては手元にありませんでした。久々の勝利なのだから、持っていても不思議ではないのですが、原型も改造後もあまり好きな形ではなかったのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 


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国際鉄道模型コンベンション2024 モデラーの展示から

2024年08月21日 | 鉄道・鉄道模型

 JAMの話、続きます。今回は印象に残った展示などをご紹介。

 初日に訪問して古典機談義となったのは「オカ・ジョーキーズ」。

こちらは日本鉄道の貨物機、後の9700形。実物はアメリカ、ボールドウィン製で、初の1D1軸配置の機関車でした。これ以降、1D1配置の機関車は発注元の日本を象徴するものとして「ミカド」の愛称がつきました。常磐線で石炭輸送にあたっていました。

江戸と東京が混在する明治の光景を、模型で観ることができるようになったとは・・・。いい時代になったものです。

台の右側に明治の万能タンク機、B6こと後の2120形が並んでいます。B6は500輌以上の大所帯で、製造国も様々でしたから、細かな違いがあります。かつての河合商会の製品をここまで改造されるとは、ということで、しばしB6談義に花が咲きました。といっても私も作られた方も、実物の現役時代は知らないのですが・・・。私の亡き父でさえ、物心ついたときには蒸気機関車は空制化されていたはずです。こうして原型に近いB6をNゲージで再現されるというのは頭が下がります。

数々の古典機が並びますが、昭和の初めの編成もありますね。私などは明治生まれの祖父母がいましたし、両親は昭和一桁世代ですので、明治、大正、戦前というのは体験した大人から直接聞いた歴史ですが、平成生まれ以降、特に今世紀に入ってから生まれた方にとっては、歴史のひとこまなんですよね。

豚児の大のお気に入りがこちら

RFC(Railway fan Club)さんのりんかい線をモデルにした自動運転。信号が灯り、発車メロディが流れ、ということで実物のような運転に豚児だけでなく、多くのお子さんたちが夢中になっていました。豚児がかなり長居しておりまして、ご迷惑だったのでは、と思います。

 家人はその近くの「激団サンぽーる」の風景がとりわけ印象に残ったようでした。

水の表現などはかなり手間をかけている様子でした。

工場と船溜まりの風景が何とも言えない雰囲気を持っています。

先日、高校生たちのモジュールをたくさん見てきましたが、その中にも水を表現したものが多くありました。それらと比べますとやはり大人は自分の目で見てきた風景も、そして工作に関しても経験値も違いますので、各段に素晴らしい作品となっています。家人が「森の中に引き込まれそう」と言っていました。

 

架空鉄道組合(仮)は、さまざまな自由型、心象鉄道の車輌たちを展示していました。バスの塗装まで「らしく」まとめてありますね。

私も架空の地方私鉄のオーナーですので、車輌やバスに至るまで作る気持ち、よく分かります。

 

地方私鉄ということではこういった展示も(クラブ名等を確認していませんでした、失礼)

建物は市販品がほとんどのようですが、うまくできています。駅舎もトミーの教会でしょうか。

 

弘南鉄道、中央弘前駅。桜の季節でしょうか。

渋谷のスクランブル交差点、新宿南口のジオラマでおなじみ「Cityscape」さんには昨年開業した宇都宮のこの風景も。

三日間、我々の隣のブースにいらっしゃったmatsuri modelさんが手がけたそうで、この路面の表現を教えていただきました。ありがとうございます。

こちらは3carsさん。名前のとおり、2輌でも4輌でもない、3輌編成で走るレイアウトの魅力を表現。こちらの池上線、いいですね。私も10数年前に池上線沿線が外回りの担当エリアだったので、こういう風景だったなあ、と感心することしきり。

 

物欲の方もそれなりに発動しておりましたが、変わったところではGM50周年のキーホルダーを買っています。

エコノミーキットシリーズの箱を模したものと、お店でおなじみ、あのシールを模したものです。値段の表記なども「分かる人には分かる」ものですね。

裏も丁寧に購入場所の「JAM会場」に赤丸がプリントされていました。

 

 

 

 

 

 

 

 


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国際鉄道模型コンベンション2024 ご来場ありがとうございました

2024年08月20日 | 鉄道・鉄道模型

 8/16~18まで開催の国際鉄道模型コンベンションですが、16日はあいにくの台風に見舞われたものの、17日には噂では過去最高のお客様を集め、最終日の日曜日も大盛況で閉幕しました。お客様と準備に奔走されたみなさま、出展されたみなさま、ありがとうございました。そしてお疲れさまでした。

 私もミニチュア人形のYFSブースの「中の人」として過ごしました。おかげさまの大盛況でしたので、なかなか他のブースに出かけたり、クリニックの受講が叶わなかったりという「嬉しい悲鳴」はありましたが、私のジオラマにも足を止め、質問してくださる方や目いっぱい顔を近づけてご覧になっていた方もいらっしゃり、こちらも嬉しい限りです。出展中もいろいろ「付加工作」をして、場内の他のお店で調達した人形まで登場させておりました。こちらはYFSの御徒町のお店で皆様をお迎えする予定です。

 今回は主催者、メーカー等の展示から。まず入場しますと南正時さんの特急列車の多くの写真が出迎えてくれます(撮影禁止のため写真はありません)。今回のJAMのテーマ、特急に合わせたものです。ちょうど私の子供時代、1970年代後半のものばかりで、懐かしかったのと、やはり自分が鉄道に強く憧れた原点みたいな感がありました。私は「鉄道大百科」にはお世話になっていないのですが、雑誌で、またトレカのようなシールなどが昔売られていて、南さんの名前はそこでもお見受けした記憶があります。日本だけでなく、欧州・TEEの黄金期の写真もありました。沿線在住ベテランモデラー氏と一緒に見て回りましたが、この次代の欧州の列車に詳しい氏の説明は濃い話てんこ盛りでした。ごちそうさまです。

 1970年代だけでなく、久保敏氏、佐竹保雄氏らの蒸気時代の特急列車の写真も多く展示されていました。こちらも良かったです。

そしてひな壇を彩るのは模型の特急列車たち。古今東西さまざまですね。

 

「鉄道模型考古学」で知られた故・松本吉之氏のコレクションから

夢屋のDF41、懐かしいなあ。

 

メーカーでは一番印象に残ったのがグリーンマックスさんでした。50周年を記念した展示が良かったです。

上の方に「この部分自作した方が早い」の文字が見えますか?

バキュームフォームの「シーナリーベース」。切り取って色を塗ればシーナリーが作れるという便利なアイテムでした。

 

奥には1/700プラモデルのスカイウェーブシリーズ。今も現役の製品もあります。そして「鉄道カラースプレー」。

 

エコノミーキットシリーズにはどれだけお世話になったことか。ちなみにこの箱は正方形に近いので、包装紙で包むと意外に包みにくいのが難点でした。デパートの模型売り場でバイトしていた頃に難儀した記憶があります。

 

ストラクチャーのシール、懐かしいですね。個人的には木造商店に入っていた「沖田商店」が好きでした。

ということでモデラー出展関係は次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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第23回 国際鉄道模型コンベンション 始まりました

2024年08月16日 | 鉄道・鉄道模型

 鉄道模型の夏の祭典はまだまだ続きます。恒例の「国際鉄道模型コンベンション」が本日から東京ビッグサイトで始まりました。あいにくの台風接近ということで、今日お越しになる方はくれぐれもお気をつけて。

 私は今年もミニチュア人形のYFS様のブースにおります。先日T-TRAKジオラマSHOWで公開いたしましたジオラマも持ち込んでおりますので、ぜひご覧ください。会期中3日間は会場におりますので(金曜は短めの滞在になりそうですが)、皆様とお会いできたらと思います。


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パトルイユ・ド・フランス余話

2024年08月16日 | 飛行機・飛行機の模型

 パリ五輪も先日閉幕し、日本勢の活躍に胸を熱くされた方も多いでしょう。決勝が夜中や明け方ということで、なかなか生で観られないもどかしさはありましたが、私も大いに楽しんだ一人でした。

 東京大会のことをバカボンパパの言葉を借りて「忘れたいけど思い出せない」と書きましたが、読者の方から、あれは「忘れようとしても思い出せない」が正しいのではとご指摘を頂戴しました。さすがディオゲネスクラブの会員、教養が違います。ということで以上のように訂正させていただきます。

 さて、パリ五輪の開会式でフランス空軍のアクロバット飛行チーム「パトルイユ・ド・フランス」が大空にハートを描いていました。このパトルイユ・ド・フランスですが、フランスらしい国旗と同じトリコロール塗装で知られています。このチーム名、ご存じの方もいらっしゃるのではと思いますが、実は偶然の産物でした。

 第二次大戦後の欧州では、各飛行隊や基地ごとにディスプレイチームを作り、さらにその中から年度ごとの「代表」を選ぶ国もありました。複数のチームがあった、というのはフランス、イギリス、イタリアなどで、なかなか元気な時代だったと言えましょう。フランスでもランス所属の第3戦闘機隊にF-84Gによるディスプレイチームが誕生します。F-84Gというとタミヤの1/72キットでもおなじみ、初期のジェット機にあたります。このチームが1953年、当時仏領だったアルジェリアのコンスタンティーヌで開催された航空ショーでに登場します。このときは他の部隊の航空機も参加していたのですが、このチームの飛行の際に、アナウンサーがそのフライトに感激のあまり「バトルイユ・ド・フランス」(直訳するとフランスの斥候隊、となりますが、実際には「フランスの編隊」といった意味のようです)とあたかもフランス代表のように紹介したのがはじまり、とされています。

 使用機もアメリカ製のF-84Gからウーラガンやミステールといった自国製のジェット戦闘機が使われるようになりました。F-84Gの塗装は特別なものではなかったのですが、ウーラガンから「アクロ機」という感じの、胴体にトリコロールの帯が入り、さらにはナショナルカラーの青や星を配したカラーリングに、そのあとを継いだミステールでは主翼にトリコロールを配した塗装となっていました。そして1964年からはジェット練習機のマジステールが採用され、1981年まで使用されます。部隊も空軍大学の中に置かれることになりました。マジステールも最初の数年間は胴体は銀色で、そこにトリコロールなどを配した塗装でしたが、後に胴体は青色を基調とする塗装となります。車などのいわゆる「フレンチブルー」よりもダークブルーっぽい色が特徴でした。

 1981年からアルファジェットに交代し、今に至っております。ちょうどこの時期はヨーロッパの他の国でも、さらには日本でもアクロチームの機種改編が重なりました。ヨーロッパらしい機数の多い編成が特徴で、8機で演技を行っています。アルファジェットになってからも、こまかなところで塗装やマーキングに変化が見られました。主翼下面に空軍を示す「Armée de l'Air」という白い文字が入ったり、垂直尾翼の塗装も微妙に変化が加えられたりしております。また、アルファジェットの方がブルーが明るくなっています。フランス国旗もジスカールデスタン大統領の時代だった1976年に三色旗の青の部分が明るくなり、現在のマクロン大統領になってから、2020年に元のダークブルーに戻っています。

 チームはそのときどきの隊長のカラーが演技に反映されるそうですが、演技をしめくくる8機での「ファイナル・ブレイク」など、いくつかの「伝統の科目」には手を付けないという暗黙のルールがあります。日本でもブルーインパルスは最後の演目である「ローリング・コンバット・ピッチ」と呼ばれる編隊を解いて旋回しながら着陸アプローチする演技は機種が変わっても以前のままです。

 模型でもパトルイユ・ド・フランスの機体を楽しむことができます。1/72になりますが、本家フランスではエレールがフーガ・マジステールをキット化し、パトルイユ・ド・フランスのマーキングもセットされています。

8年ほど前(2016年)に作りました。だいぶ前にエレールから再販されたので複数買い、一つはベルギーのチームで作りました。古いキットですのでそれなりの覚悟がいります。風防枠に傷をつけてしまったり、相変わらずな工作ぶりです。青は調色して暗めのブルー色を作るのに難儀した記憶があります。何か「媚びない青色」という感じがしまして、気に入ってます。

 

 

背の低い、個性的なフォルムです。

胴体の前後方向の白帯や、胴体下面の白帯はデカールを使っています。

 

アルファジェットはフジミです。

1980年代のキットで、高校生の時に組み、そして8年くらい前に組んだのがこちら。今の目で見るとだいぶつらいところもありますが、昔は好キットとして受け入れられていました。ヨーロッパの翼も珍しかったですしね。ブログで御紹介するつもりがなく作っていますので、出来の方は・・・というところで失礼いたします。こちらはこちらで独特の青色で、調色するのに苦労しました。

 

さて、改めて手元の文献からいろいろ調べたりしてみましたが、このチーム名が最初に呼ばれたとされるアルジェリアのコンスタンティーヌという街、かつてはフェニキア人(ローマのライバル・カルタゴで有名ですね)の都市で、キルタと呼ばれていました。後にヌミディアの首都となり、ローマの支配下となり、ということで古代史をかじった者としては懐かしい名前がたくさん出てきます。4世紀初めにキリスト教を国教にしたローマ皇帝・コンスタンティヌス一世の名前を取って町の名前も変わりました。その後も北アフリカの都市として栄えました。飛行場が作られたのは第二次大戦中のことで、連合軍の手によるものだそうです。件の航空ショーからあまり経たずにアルジェリアも独立運動が激しくなりましたので、パトルイユ・ド・フランスという名前も、いろいろな意味で嬉しい偶然の産物だったのではと思います。

 

参考文献 「ローリングインザスカイ 世界のアクロバット飛行チーム」(講談社)こちらは徳永克彦さんの撮影による世界のアクロチームのガイドなのですが、本ブログの記載にあたっては中村浩美さんの「大空の華麗なサーカス」という記事を参考にしました。

「世界のアクロバットチーム」梶田達二著 文林堂 こちらはイラストレーター梶田達二氏の作品集です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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