変化を受け入れることと経緯を大切にすること。バランスとアンバランスの境界線。仕事と趣味と社会と個人。
あいつとおいらはジョージとレニー




とある知人の紹介があって、名作「危険な遊び」を観た。初めて観た訳では
なく、物凄い久しぶりだけど2回目になる。
ポーレットとミッシェルという少年少女が、2次大戦下のフランスで経験した
悲劇の物語。前回観たのは、今回紹介してくれた人がポーレットくらいの年
齢だった時ですよ、多分。随分と昔のハナシだね。

そんな時の経過は確実においらにも訪れており、大したことも考えずに無為
に過ごして来ただけと思っていたおいらさえも、随分と塗り替えられていた。
こういうことに気付くには、同じ物語を時を隔てて観るのが効果的だ。

おいらは、そもそもフランス映画が好きではない。そんなにいっぱい観た訳
では無いので、単なる先入観なのだろうけど、好き嫌いってばそんなもんだ。

決定的においらをフランス映画から遠ざけた作品は、「ラマン」。
内容はもう覚えていないのだが、鑑賞に消費した2時間を返せ! と強く不満
を持ったのだけ記憶している。

それは兎も角。
有名なギターの旋律とともに、物語は始まった。
見慣れない白黒の映像には、あっという間に慣れてしまい、観る目には物語
の色が付いて見えるから不思議だ。
戦時下という究極の状況において、人同士が本性で関わりを持つ世界におい
て、子供達は弄ばれていく。大切なものを奪われた大人達とて、明日をも知れ
ぬ極限状態では構い庇う余裕すら見出せない。
恐らく、実際にそうなんだろう。映画「ガンジー」の中で、流浪しているインド人
とイスラム教徒が、互いに衝突していく情景が描写されていた。この映画とは
異なる状況だけど、人の性(さが)を現しているだろう処に共通点がある。

どうしてそうなってしまったのか。何がそうさせたのか。
繰り返してはならぬという思い、そして現状を守りたいという心、おいらの中で
芽生えたこういった気持ちが、『親の視線』で組み上げられていく。
前回観た時は、明らかにポーレットやミッシェルの視点で観て、聴いて、考えた。
それが現在では、ちょっと違っていた。
例えば物語の初めで死んでしまったポーレットの両親の心、あるいは、隣人と
対立しながらも家族を守るオヤジさん、はたまたその状況ですら融和を掲げ格
式に拘る神父、または愛を育む若者達。
これらの登場人物の中で、誰に目の高さを合わせているか。既に社会の一部
を担う年代として、家族を守る立場の人間として、自ずと悲劇の悲劇たる所以
は内方向に求められていく。

悲しい話だ。

完結しないエンディングが、生きることの連続性、つまりは映画と言うものが
人生の一部を切り取ったものに過ぎないということを語るようでもある。

人それぞれ、自らの人生を量るベンチマーク的な映画があるんじゃないかな。
この映画も今後は、おいらにとってのそういう役割を果たして行くかもしれない。


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