経験や習慣の延長上の直感よりは理性的に判断したほうが適切な場合も多いし、かといって頭で考えるよりも直感的に感じたことの方が正しいこともある。いずれにしても余計なノイズを取り除いて、現実をありのままに直視することが大事なのだろう。
そう考えたとき、経済界のリーダーたちの目は果たして「曇りなき眼」と言えるのだろうか。
原発ゼロ方針 「承服できぬ」 米倉経団連会長 - SankeiBiz(サンケイビズ)
日本にとって経済成長が必要だ、対外的な競争力を維持するためには低コストのエネルギーが必要だということはよくわかる。米倉弘昌経団連会長の心配もまさにそういうことだろう。しかしその意見は果たして「適切」なのだろうか。
60年代から70年代にかけての「公害問題」。水俣病やイタイイタイ病といった4大公害はもちろん、工場や自動車の排ガスや廃液、騒音、多発する自動車事故など、経済成長とともに様々な環境問題、公害が発生した。もちろんそれぞれの企業が「公害をおこしてやろう」と思ってやっていたとは思わない。ただそれぞれの経済主体が、自らの効用・利益を追求しようとした結果、環境対策・公害対策がないがしろにされた。
本来、企業がある商品やサービスを提供しようとした場合、材料費や設備投資、人件費などその商品やサービスを提供するために必要なコストを踏まえた上で、商品の値段は決定される。総コストが90円であれば、その商品は90円以下で売るわけにはいかない。利潤を含めて100円で売るというようになる。
例えばその商品を作る際に「ゴミ」が出るとしてそのゴミを回収・廃棄するためのコストが20円かかるとしよう。それまでの90円にプラスすると総コストは110円となり、商品の値段を値上げせざろうえない。しかし特に法規制のようなものがなくて、そのゴミを山奥や海に捨てられる状況だとしよう。自然に捨てればその20円のコストはかからない。そのまま100円で販売することができ、当然、値上げする場合よりも売れるだろう。
しかし果たしてこれは適正なのだろうか。
こうした問題を経済学では「外部不経済」という。本来のそのエコシステムの中で生じている費用を外部(ex.自然)に転嫁することで、エコシステム内部での過剰な生産や供給を行ったり、本来不要なコストを外部に生じさせることで社会全体の効率性を損なうことになるのだ。公害問題とは、企業が本来対処しなければならない環境対策・公害対策を実施しなかったことで、社会に対してそのコストを転嫁したといえる。
もちろん僕らは「神」ではない。社会全体の最適化のために行動をしているわけではないし、そもそも経済学の大原則としてはそれぞれが経済合理性を追求することで社会全体が最適化されると考えられている。ある程度、エゴの追求になるのは仕方がない。とはいえ資本主義や市民社会が成熟する中で、企業も社会的な責任も理解すことになる。適切なコスト負担を担うことになる。
そう考えたとき、この「原発」の問題というのは、本来あるはずの「リスク」や「(そのための)コスト」を外部に転嫁してきただけだとは思わないのだろうか。そしてその転嫁された「コスト」が巻き散らかされた「放射性物質」の処理のコストであり、ただ未来に先送りするだけの「放射性廃棄物」の処理コストなのだろう。それらを税金で処理したり、(補償もないまま)住民の命を削らせた上で、原子力を使って安価な電気を供給するというのは、かっての「公害問題」と同じ構図だ。
「想定外」のリスクも含めた上で、本来、解決しなければならない問題や対処するために必要なコストを原子力発電というエコシステム内部に含めたときに、果たして安価に(かつ安全に)電力を供給できると言えるのだろうか。財界や自民党はかってと同様の過ちを起こしたことをまだ気づいていないのだろうか。
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60年代から70年代にかけての「公害問題」。水俣病やイタイイタイ病といった4大公害はもちろん、工場や自動車の排ガスや廃液、騒音、多発する自動車事故など、経済成長とともに様々な環境問題、公害が発生した。もちろんそれぞれの企業が「公害をおこしてやろう」と思ってやっていたとは思わない。ただそれぞれの経済主体が、自らの効用・利益を追求しようとした結果、環境対策・公害対策がないがしろにされた。
本来、企業がある商品やサービスを提供しようとした場合、材料費や設備投資、人件費などその商品やサービスを提供するために必要なコストを踏まえた上で、商品の値段は決定される。総コストが90円であれば、その商品は90円以下で売るわけにはいかない。利潤を含めて100円で売るというようになる。
例えばその商品を作る際に「ゴミ」が出るとしてそのゴミを回収・廃棄するためのコストが20円かかるとしよう。それまでの90円にプラスすると総コストは110円となり、商品の値段を値上げせざろうえない。しかし特に法規制のようなものがなくて、そのゴミを山奥や海に捨てられる状況だとしよう。自然に捨てればその20円のコストはかからない。そのまま100円で販売することができ、当然、値上げする場合よりも売れるだろう。
しかし果たしてこれは適正なのだろうか。
こうした問題を経済学では「外部不経済」という。本来のそのエコシステムの中で生じている費用を外部(ex.自然)に転嫁することで、エコシステム内部での過剰な生産や供給を行ったり、本来不要なコストを外部に生じさせることで社会全体の効率性を損なうことになるのだ。公害問題とは、企業が本来対処しなければならない環境対策・公害対策を実施しなかったことで、社会に対してそのコストを転嫁したといえる。
もちろん僕らは「神」ではない。社会全体の最適化のために行動をしているわけではないし、そもそも経済学の大原則としてはそれぞれが経済合理性を追求することで社会全体が最適化されると考えられている。ある程度、エゴの追求になるのは仕方がない。とはいえ資本主義や市民社会が成熟する中で、企業も社会的な責任も理解すことになる。適切なコスト負担を担うことになる。
そう考えたとき、この「原発」の問題というのは、本来あるはずの「リスク」や「(そのための)コスト」を外部に転嫁してきただけだとは思わないのだろうか。そしてその転嫁された「コスト」が巻き散らかされた「放射性物質」の処理のコストであり、ただ未来に先送りするだけの「放射性廃棄物」の処理コストなのだろう。それらを税金で処理したり、(補償もないまま)住民の命を削らせた上で、原子力を使って安価な電気を供給するというのは、かっての「公害問題」と同じ構図だ。
「想定外」のリスクも含めた上で、本来、解決しなければならない問題や対処するために必要なコストを原子力発電というエコシステム内部に含めたときに、果たして安価に(かつ安全に)電力を供給できると言えるのだろうか。財界や自民党はかってと同様の過ちを起こしたことをまだ気づいていないのだろうか。
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