改めて役者として参加した「かしわ演劇祭」。「かしげき(かしわ演劇祭)」自体の雑感は先日書いたけれど、個人的な反省点をまとめておきたいと思う。そういう意味ではこの記事は個人的な備忘録だ。と、同時に、それは役者というものの可能性についての考察でもある。
今回、僕が参加した芝居は、どこにでもありそうな日常的な風景の断片。無口で独善的な父親とその父親に気を使う母親、そうした父の態度に苛立ちを隠せない弟と父と弟の両方の気持ちを理解しながらそれゆえに決断のできない兄。そんな家族に1つの事件が起こる。母親が倒れるのだ。肺がん。それまでは微妙なバランスで成り立っていた家族に生じる亀裂。そしてそれは「日常」という時間の中では「平穏」とも「絶望」とも見える風景なのだ。
ストーリーの詳細は書かないけれど、この芝居では「日常」的であることと、そうした中でのそれぞれの役者の「感情」「想い」とそれが「噛み合わない」様を描き出すことが必要となる。
セリフを言うというのはやはり非常に難しい。特にこうした「日常」的な芝居であればあるほど、それは「セリフ」調の話し方ではうそ臭くなるし、「気持ち」や「感情」を作らねば淡白すぎたり、棒読みに聞こえたりもする。
またそうした「噛み合わなさ」をはじめ、1つ1つののシーンの雰囲気・空気感を作り出せていたのかというとそれも十分ではない。それは当然、僕だけでできるわけではなく、それぞれのシーンに登場している役者陣一人一人が共通の想いで創り上げねばらない。果たしてそれがどこまでできていたのか。一人一人の役者はそれぞれの役を極めねばならない、と同時にそれぞれの役者の演技によって「親密さ」や「距離感」といったものがそれぞれのシーンで作り上げられねばならないのだ。
そして何よりも今回の芝居で1番の難題だったのが、ラストシーンだ。
愛する母親を失いボケてしまった父親と、その風景に慣れてしまいある意味「穏やか」に、ある意味「即物的に」そうした日常を過ごす弟、そうした様子を見て衝撃を受け今からでも何とかしようとする兄という、3者3様の「噛み合わない」絶望を演じることが必要とされる。
そのためには、わずかなセリフとその行間に複雑な感情(の変化)を表現しなければならなかったのだけれど、できていたのかといわれれば非常に心もとない。自分の実力がまだまだなのだと思い知らされる。
僕にとって素晴らしいと思える役者というのは何人もいるが、その中でも元M.O.P.の「キムラ緑子」というのは、舞台役者としての「憧れ」でもある。彼女の凄さというのは何よりも、舞台上での「支配力」だ。キムラ緑子が「悲しみ」を感じれば、それは舞台はもちろん大ホールの観客皆にその「悲しみ」は伝染する。彼女が「やりきれなさ」を演じれば、そのやりきれなさがそのホール全体を包み込む。
これだけ舞台や客席への「支配力」をもった役者はそうはいない。
例えば大竹しのぶのような映像出身の役者は周囲3~4mの「伝播力」は素晴らしいのかもしれない。共演する相手を飲み込む力は十分あるだろう。しかしそれでは舞台上の役者だけで終わってしまう。キムラ緑子の凄さというのは、それが客席の後ろまで、つまり10m以上にわたってそうした彼女の演じる/感じる「感情」を伝え、その場を支配してしまえるからだ。
もし彼女が僕の役を演じていたらどうなっていただろうか。
そう考えると自分の力不足を感じざろうえない。果たしてどんな風にその複雑な感情を創り上げたのだろうか、その感情をどのように観客に伝えただろうか…。
もちろん比べるだけでも失礼なのかもしれないけれど、そうした部分の作りこみがまだまだ足りなかったのだ。次回(といってもいつになるのかわからないが…)はもっともっと表現できるようにならねばいけないと率直に思うのだ。
かしわ演劇祭2012雑感 - ビールを飲みながら考えてみた…
今回、僕が参加した芝居は、どこにでもありそうな日常的な風景の断片。無口で独善的な父親とその父親に気を使う母親、そうした父の態度に苛立ちを隠せない弟と父と弟の両方の気持ちを理解しながらそれゆえに決断のできない兄。そんな家族に1つの事件が起こる。母親が倒れるのだ。肺がん。それまでは微妙なバランスで成り立っていた家族に生じる亀裂。そしてそれは「日常」という時間の中では「平穏」とも「絶望」とも見える風景なのだ。
ストーリーの詳細は書かないけれど、この芝居では「日常」的であることと、そうした中でのそれぞれの役者の「感情」「想い」とそれが「噛み合わない」様を描き出すことが必要となる。
セリフを言うというのはやはり非常に難しい。特にこうした「日常」的な芝居であればあるほど、それは「セリフ」調の話し方ではうそ臭くなるし、「気持ち」や「感情」を作らねば淡白すぎたり、棒読みに聞こえたりもする。
またそうした「噛み合わなさ」をはじめ、1つ1つののシーンの雰囲気・空気感を作り出せていたのかというとそれも十分ではない。それは当然、僕だけでできるわけではなく、それぞれのシーンに登場している役者陣一人一人が共通の想いで創り上げねばらない。果たしてそれがどこまでできていたのか。一人一人の役者はそれぞれの役を極めねばならない、と同時にそれぞれの役者の演技によって「親密さ」や「距離感」といったものがそれぞれのシーンで作り上げられねばならないのだ。
そして何よりも今回の芝居で1番の難題だったのが、ラストシーンだ。
愛する母親を失いボケてしまった父親と、その風景に慣れてしまいある意味「穏やか」に、ある意味「即物的に」そうした日常を過ごす弟、そうした様子を見て衝撃を受け今からでも何とかしようとする兄という、3者3様の「噛み合わない」絶望を演じることが必要とされる。
そのためには、わずかなセリフとその行間に複雑な感情(の変化)を表現しなければならなかったのだけれど、できていたのかといわれれば非常に心もとない。自分の実力がまだまだなのだと思い知らされる。
僕にとって素晴らしいと思える役者というのは何人もいるが、その中でも元M.O.P.の「キムラ緑子」というのは、舞台役者としての「憧れ」でもある。彼女の凄さというのは何よりも、舞台上での「支配力」だ。キムラ緑子が「悲しみ」を感じれば、それは舞台はもちろん大ホールの観客皆にその「悲しみ」は伝染する。彼女が「やりきれなさ」を演じれば、そのやりきれなさがそのホール全体を包み込む。
これだけ舞台や客席への「支配力」をもった役者はそうはいない。
例えば大竹しのぶのような映像出身の役者は周囲3~4mの「伝播力」は素晴らしいのかもしれない。共演する相手を飲み込む力は十分あるだろう。しかしそれでは舞台上の役者だけで終わってしまう。キムラ緑子の凄さというのは、それが客席の後ろまで、つまり10m以上にわたってそうした彼女の演じる/感じる「感情」を伝え、その場を支配してしまえるからだ。
もし彼女が僕の役を演じていたらどうなっていただろうか。
そう考えると自分の力不足を感じざろうえない。果たしてどんな風にその複雑な感情を創り上げたのだろうか、その感情をどのように観客に伝えただろうか…。
もちろん比べるだけでも失礼なのかもしれないけれど、そうした部分の作りこみがまだまだ足りなかったのだ。次回(といってもいつになるのかわからないが…)はもっともっと表現できるようにならねばいけないと率直に思うのだ。
かしわ演劇祭2012雑感 - ビールを飲みながら考えてみた…
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