残念ながらこれまでマクルーハンのちゃんとした本を読んでいない。そんなこともあってか、この本で紹介されているマクルーハンの定義がもう1つピンとこない。いや、正確にいうなら、感覚的には理解できるのだけれど、有馬さんの解説を聞いていると「あれ?」と思ってしまう。まぁ、1度、ちゃんとマクルーハンを読めということですね。とはいえ、職業柄インターネットのメディア性については考えざろうえないこともあり、興味深い作品。
世界のしくみが見える「メディア論」―有馬哲夫教授の早大講義録
![](http://ec2.images-amazon.com/images/I/41T0rDGw90L._AA240_.jpg)
マクルーハンの有名な比較の1つ「HOT」にするメディアと「COOL」にするメディアとはいったいどんなものだろう。先に正解から書いておくと、
HOT:活字、ラジオ、映画、講義
COOL:会話、電話、テレビ、ゼミナール
となり、これらを規定する要因としては「精細度」「参加」という概念が唱えられている。
この分類については大筋でその通りだろうな、と思う。この比較がなされた当時は「テレビ」がCOOLだということにかなり喧々諤々だったらしいけれど、テレビ世代の僕らからすれば、テレビが「HOT」だとは思えないだろう。
ただこの本の定義からすると、テレビがCOOLであるのは「単一の感覚だけを刺激するのではなく、3っ(視覚、聴覚、触覚)に分散されるからヒートアップしない」ということになるのだけれど、そう書かれると余計に理解しにくくなる。むしろ、HOTなメディアとは情報を発信する側がそのメッセージのみ伝えようとしているメディアであり、COOLなメディアとは伝えようとするメッセージ意外の情報が載ってしまっているメディアくらいの感覚で捉えたほうがわかりやすいのではないか。
つまり活字では、当然、その文章で伝えたいことが載せられているわけだし、ラジオは語り手の話ている内容だけが伝わるものだ。映画は当然、監督やディレクターが編集したものだし、講義は講師が伝えるものが主だ。これに対して、会話にしろ電話にしろゼミナールにしろ「場」によって生成されるものであり、特定のメッセージを伝えるためのものではない。またテレビについていえば、ニュースにしろバラエティにしろ、特定のメッセージのために編集された映像で完結するわけではない。ニュースキャスターの服装、しゃべり方、うしろで映っている歩行者の姿など特定のメッセージのために完結できない映像となってしまうのだ。そういった感覚くらいで捉えたほうが「HOT」と「COOL」の差はわかりやすい気がする。
また上記とも関係することだが、受けて側の意識として活字やラジオなど「HOT」なメディアでは「参加」の余地がないというのもちょっと違う気がする。
活字にしろラジオにしろ、それらの情報を理解しようとすれば当然集中して読んだり聴いたりすることになるが、受けて側に全くその気がないなら、そのメッセージは全く届かないだろう。つまり受けて側にとっては内的に「参加する」ことが前提の受容モードなのだろう。
それに対して、テレビのバラエティなどは外的には参加モードに近いかもしれないが、その内容を真剣に見ている人もいないだろう。つまり内的には(メッセージに対しては)「流し」モードとなる。
また現在ではメディア単位での「HOT」「COOL」の分類はそんなに単純ではないのだろう。
ラジオの実況に真剣に耳を傾ける人もいるだろうが、FM放送の発達以降はラジオは「ながら」で楽しむものとなっている。「ながら」で楽しむものである以上、聞き手もそんなに集中していないし、またそういった特性のメディアとしてコンテンツを取捨選択しているだろう。マクルーハンが想定していた頃のラジオは「HOT」だったかもしれないが、今では必ずしもそうではないだろう。
活字にしても「小説」や「ビジネス書」「新書」など作者のメッセージ性が強いものであれば「HOT」なメディアだと思うけれど、「ファッション誌」や「R25」などメッセージ色の薄い・あるいはビジュアル性の高い雑誌などは果たして「HOT」なメディアになるだろうか。
で、肝心な「インターネット」はどうかというと、この区分でいくと「COOL」なメディアとなる。
確かにインターネットの特徴として「時間感覚があいまい」なことを考えると、「メール」にしろ「BBS」にしろ「BLOG」にしろ情報の発信者と受信者が時間を共有しているとは限らず、基本的には「COOL」なメディアなのだろう。ブログに着けられるTBやコメントは一体いつの記事だ?というものにつけられることがあるし、「ニコニコ動画」にいたっては本来時間を共有する必要のないVOD動画に対してわざわざ「コメント」を共有させるという「COOL」過ぎるメディアになっている。
しかし同時に、ユーザー個人が情報を発信でき(それだけ思い入れが強くなる)、かつ相手が直接見えないために、過剰な攻撃性が露呈したり、「炎上」「祭り」といった行為が頻発したりと、内的な想像力を引きづられるように個人の感情がむき出しのメディアとなる。これはこれまでのCOOLやHOTの区分では割り切れないのではないだろうか。情報発信者側がHOTな状態となり、攻撃の対象となった受けてもそれにひきづられ「HOT」となり、それを冷めた目で見る観客がいる…
IMやTwitterのような比較的リアルタイムに近いものもあれば、マルチキャストのようにまさに「放送」の代替となるような技術もある。
インターネットが「ネットワーク性」「リアルタイム性」「つながり感」といった独自の特性をいかしたメディアに成長しつつある一方で、あくまで「代替メディア」「代替インフラ」としても機能している。また匿名性という特徴はインターネットを「欲望メディア」として個人の攻撃性や人間の「暗部」を引き出そうとする。
おそらくマクルーハンが想定していた以上に事態は複雑になっているのではないか。
このあたりの「インターネット」の特性を踏まえた上で、マクルーハンの見出した「銀河系」を覗いてみたいと思う。
ブログ・ラジオ・ヒーローの消失
世界のしくみが見える「メディア論」―有馬哲夫教授の早大講義録
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マクルーハンの有名な比較の1つ「HOT」にするメディアと「COOL」にするメディアとはいったいどんなものだろう。先に正解から書いておくと、
HOT:活字、ラジオ、映画、講義
COOL:会話、電話、テレビ、ゼミナール
となり、これらを規定する要因としては「精細度」「参加」という概念が唱えられている。
この分類については大筋でその通りだろうな、と思う。この比較がなされた当時は「テレビ」がCOOLだということにかなり喧々諤々だったらしいけれど、テレビ世代の僕らからすれば、テレビが「HOT」だとは思えないだろう。
ただこの本の定義からすると、テレビがCOOLであるのは「単一の感覚だけを刺激するのではなく、3っ(視覚、聴覚、触覚)に分散されるからヒートアップしない」ということになるのだけれど、そう書かれると余計に理解しにくくなる。むしろ、HOTなメディアとは情報を発信する側がそのメッセージのみ伝えようとしているメディアであり、COOLなメディアとは伝えようとするメッセージ意外の情報が載ってしまっているメディアくらいの感覚で捉えたほうがわかりやすいのではないか。
つまり活字では、当然、その文章で伝えたいことが載せられているわけだし、ラジオは語り手の話ている内容だけが伝わるものだ。映画は当然、監督やディレクターが編集したものだし、講義は講師が伝えるものが主だ。これに対して、会話にしろ電話にしろゼミナールにしろ「場」によって生成されるものであり、特定のメッセージを伝えるためのものではない。またテレビについていえば、ニュースにしろバラエティにしろ、特定のメッセージのために編集された映像で完結するわけではない。ニュースキャスターの服装、しゃべり方、うしろで映っている歩行者の姿など特定のメッセージのために完結できない映像となってしまうのだ。そういった感覚くらいで捉えたほうが「HOT」と「COOL」の差はわかりやすい気がする。
また上記とも関係することだが、受けて側の意識として活字やラジオなど「HOT」なメディアでは「参加」の余地がないというのもちょっと違う気がする。
活字にしろラジオにしろ、それらの情報を理解しようとすれば当然集中して読んだり聴いたりすることになるが、受けて側に全くその気がないなら、そのメッセージは全く届かないだろう。つまり受けて側にとっては内的に「参加する」ことが前提の受容モードなのだろう。
それに対して、テレビのバラエティなどは外的には参加モードに近いかもしれないが、その内容を真剣に見ている人もいないだろう。つまり内的には(メッセージに対しては)「流し」モードとなる。
また現在ではメディア単位での「HOT」「COOL」の分類はそんなに単純ではないのだろう。
ラジオの実況に真剣に耳を傾ける人もいるだろうが、FM放送の発達以降はラジオは「ながら」で楽しむものとなっている。「ながら」で楽しむものである以上、聞き手もそんなに集中していないし、またそういった特性のメディアとしてコンテンツを取捨選択しているだろう。マクルーハンが想定していた頃のラジオは「HOT」だったかもしれないが、今では必ずしもそうではないだろう。
活字にしても「小説」や「ビジネス書」「新書」など作者のメッセージ性が強いものであれば「HOT」なメディアだと思うけれど、「ファッション誌」や「R25」などメッセージ色の薄い・あるいはビジュアル性の高い雑誌などは果たして「HOT」なメディアになるだろうか。
で、肝心な「インターネット」はどうかというと、この区分でいくと「COOL」なメディアとなる。
確かにインターネットの特徴として「時間感覚があいまい」なことを考えると、「メール」にしろ「BBS」にしろ「BLOG」にしろ情報の発信者と受信者が時間を共有しているとは限らず、基本的には「COOL」なメディアなのだろう。ブログに着けられるTBやコメントは一体いつの記事だ?というものにつけられることがあるし、「ニコニコ動画」にいたっては本来時間を共有する必要のないVOD動画に対してわざわざ「コメント」を共有させるという「COOL」過ぎるメディアになっている。
しかし同時に、ユーザー個人が情報を発信でき(それだけ思い入れが強くなる)、かつ相手が直接見えないために、過剰な攻撃性が露呈したり、「炎上」「祭り」といった行為が頻発したりと、内的な想像力を引きづられるように個人の感情がむき出しのメディアとなる。これはこれまでのCOOLやHOTの区分では割り切れないのではないだろうか。情報発信者側がHOTな状態となり、攻撃の対象となった受けてもそれにひきづられ「HOT」となり、それを冷めた目で見る観客がいる…
IMやTwitterのような比較的リアルタイムに近いものもあれば、マルチキャストのようにまさに「放送」の代替となるような技術もある。
インターネットが「ネットワーク性」「リアルタイム性」「つながり感」といった独自の特性をいかしたメディアに成長しつつある一方で、あくまで「代替メディア」「代替インフラ」としても機能している。また匿名性という特徴はインターネットを「欲望メディア」として個人の攻撃性や人間の「暗部」を引き出そうとする。
おそらくマクルーハンが想定していた以上に事態は複雑になっているのではないか。
このあたりの「インターネット」の特性を踏まえた上で、マクルーハンの見出した「銀河系」を覗いてみたいと思う。
ブログ・ラジオ・ヒーローの消失
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