ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

呉服店とファストファッション

2012年01月09日 | Weblog
帰省中、地元の商店街を歩いていると古くからの呉服店があった。成人式も終わった後だということもあって、さすがにお客さんの姿はない。立派な入り口に整然と並べられた内ばき用のスリッパ。飾られている写真など、ちょっと覗いただけでもその店内で扱われているものが決してその辺りのファストファションとは違うことがわかる。

着物を仕立てるというのは、あるいはそこで仕立てた着物を着るというのは、一種の「ハレ」の行為だったのだろう。そして「ハレ」の場だからこそ普段とは違う装いとそのための高価な投資を行ったのだろう。

呉服屋というのは、そうした「ハレ」の場のための「憧れ」や「夢」や「見栄」や「虚栄心」を満たすために、必ずしも多くのお客さんが頻繁には買い物をしなくとも成り立つ経済システムの上でなりたっていた。一般の人々にとっても日常と非日常の線引きは明確であったし、だからこそ年に何回か、一生に何回かの「ハレ」の場にはそれだけの投資はしても、それ以外では慎ましやかにしていたのだろう。

それに比べると今の世界というのはなんだろう。僕らのあまりにも旺盛なファションへの欲求、購買欲はなんなのだ。 

もちろん今でも明確な「ハレ」の場というのは存在する。ウェディングドレスや成人式の着物姿、親友の結婚パーティー…その一方で日常の世界を彩るために購入される洋服も数多い。しかもその多くが「着れなくなったから」ではなく、「何となく」「飽きたから」「型が古いから」といった理由で買い換えられているだろう。

あるいはこれまでだと「日常」として扱われていたものが「プチ非日常」化しているのかもしれない。クリスマスや誕生日がプチ非日常化するのはともかくも、日曜日が「休」日ではなく家族や恋人と出かける日となり、子供たちのちょっとした出来事が大イベントとして周囲への御披露目会となる。合コンは週に何度も行われ、そのうちの何度かは勝負服が必要となる。

気がつけば僕らの毎日は「プチ非日常」でいっぱいとなり、それらを楽しみ盛り上げるためにも僕らのファションはかさばり続ける。

それを経済システムとして支えるのがユニクロ、ZARA、H&Mなどのファストファションだ。彼らは世界規模での調達力と製造コストの効率化、規模のメリットを活かして、最新のファションを安価に供給する。しかも売れ筋の同じ型を提供し続けるというよりも、売り切れる量を製造しそれ以上の需要に対してもその型ではなく、新しい商品を販売する。常に新しい商品を流通させようとする。

本来、祝祭性を帯びた「ハレ」の場・非日常の世界とは、「ケ」つまり日常生活・既存の秩序の下で溜まりつつある不満や抑圧のガス抜きの側面があった。「無礼講」なんて言葉が意味を持つのはそのためだ。

これだけ「プチ非日常」が常態化しているというのは、単に日々の生活が忙しいというだけではないだろう。僕らの無制限に開放された欲望が「プチ非日常」という回路に流れ込む、そしてその回路を商品経済という形で再生産させるという仕掛けができあがっていることに他ならない。ファストファションというのはこうした再生産を加速させるための装置なのだろう。

かっての「非日常」は平穏な日常を維持するためにあった。祝祭を通り抜けることでいつもどおりの日常があった。しかし今の「(プチ)非日常」はそうした平穏をもたらしてくれるのだろうか。より僕ら生活を忙しくさせ、新しい祝祭を求めさせているだけではないか――そう思いながらも、東京にもどればそんな日常を生きていくのだ。

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