大学の仲間がやっているということもあって、演劇ユニット「PASSIONE(パッショーネ)」の初東京公演「玉響(たまゆら)」を見にいってきた。 2004年11月2日/19:30・3日/14:00、18:00 WoodyTheatre 中目黒にて行われているので、興味がある&まだ間に合う人は行ってみてください。感想は…所謂小劇場って感じの芝居です。
「玉響(たまゆら)」のテーマは「まぼろし泥棒/まぼろし探偵」が人と人との「関係」を盗み、そのことによって生じる「新しい関係」を調べていくというもの。自閉症の秋生とその家庭教師を中心に、様々な利害関係を持った集団の間に生じた「新しい関係」が1つの結末を迎えるまでが描かれている。この物語ではいろいろな「新しい関係」が生じるけど、作者の蟻蛸蛆曰くそれでも「人生は意外と楽しい」のだ、と。
「関係」――この物語のテーマに関わらず、「演劇」とは1つの空間の中で様々な関係性を構築する作業である。1つのシーン、1つのストーリーが様々な関係性とその変化/普遍性を描くものであり、そのために多くの役者や音効・照明・舞台装置といったスタッフが存在しているといったもいい。たった数㎡のスペースに全く「異空間」・「ストーリー」が作り出されるのはこうした個々のパーツ(役者やスタッフ)の共同作業以外のなにものでもない。とはいえ、それが「映画」や「テレビドラマ」あるいは「小説」といったものと大きく違うところは、1つのシーン・空間・関係性を作り上げるにしても、圧倒的に「役者」間で作り上げるとこが大きいという点であろうか。
一度舞台に上がると、役者は観客の前で圧倒的に正直にならざろうえない。
それは力量が不足していればそれがそのまま現れるということであり、1つの「役柄」という人格を作り出すことができなければ、役者自身の「素」がそのまま現れると言うことでもある。また役者間の「間」・「空間」・「関係性」、それぞれの感情とコミュニケーション/ディスコミュニケーションを作り出せなければ、例え音効でごまかしたとしても二流の舞台にしかなりえない。ましてやデジタル処理による誤魔化しはきかず、「肉体」と「感情」、「人格」「情念」が直接ぶつかり合うしかないのだ。
「新宿梁山泊」や「MOP」の役者たちが、あるいは平田オリザや松田正隆が作り上げようとしている世界とはこうした「人間」でしか作り上げられない世界だ。だからこそ「演劇」は魅力的であり、この「デジタル化」と「商品経済化」という渦の中で「最後の可能性」が残されていると言ってもいい。
演劇ユニット「PASSIONE」HP
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初日終了後、昔のメンバーと久々に会ったこともあって軽く飲みに行く。
約10年という年月。変わらないものは変わることなく、変わってしまったものは変わってしまっている。10年、それが長いのか短いのか。変わってしまったものの多くは、決していい方には変わらない。昔、村上春樹の小説で、真中に線を1本引き、左の得たもの、右に失ったもののリストを作ったというのがあったが、僕等は右側にどれくらいのものを書かねばならないのだろう。
後輩から「変わってませんよね」と言われた。
おまえは変わったのか、と問いかけると「変わりましたよ」との返事。
「変わりましたよ。」
「どこが変わったの?」
「どうでしょう、ちょっとスレたかな」
その言葉はそのまま演技にも現れている。役者が1人の別の人格を作り上げられない限り、本人の持ってしまっている雰囲気や様子は演技でも伝わっていく。間の取り方、一つ一つの動作、そうした経験で養われていくものは確かにうまくなっているかもしれない。しかしあの頃、僕らが彼女に期待していたのはそんなものだったのか。劇団というのは良きにしろ悪しきにしろ、1つの閉鎖的なコミュニティとならざろうえない。「濃密さ」とそれゆえの「規律」が必要であり、例え無理強いでもコミュニティ外部との接点を持たなければ、演劇そのものの深みも出てこない。10年―何があったのかは問うまい。役者として大成しなかったであろうこの10年は、やはり彼女をつつむ様々な「関係」が変わるには十分な長さがあるのだ。
帰りの電車。ノスタルジーとも寂寥感ともつかぬ思いを抱いたまま、窓ガラス越しに映った自分の姿を見る。
「オマエハ本当二変ワッテイナイノカ…」
陰りを帯びたガラスの中の自分は、しかし何も答えようとはしない。窓のむこうには高速道路のオレンジの灯りと漆黒の闇が広がっていた。
「玉響(たまゆら)」のテーマは「まぼろし泥棒/まぼろし探偵」が人と人との「関係」を盗み、そのことによって生じる「新しい関係」を調べていくというもの。自閉症の秋生とその家庭教師を中心に、様々な利害関係を持った集団の間に生じた「新しい関係」が1つの結末を迎えるまでが描かれている。この物語ではいろいろな「新しい関係」が生じるけど、作者の蟻蛸蛆曰くそれでも「人生は意外と楽しい」のだ、と。
「関係」――この物語のテーマに関わらず、「演劇」とは1つの空間の中で様々な関係性を構築する作業である。1つのシーン、1つのストーリーが様々な関係性とその変化/普遍性を描くものであり、そのために多くの役者や音効・照明・舞台装置といったスタッフが存在しているといったもいい。たった数㎡のスペースに全く「異空間」・「ストーリー」が作り出されるのはこうした個々のパーツ(役者やスタッフ)の共同作業以外のなにものでもない。とはいえ、それが「映画」や「テレビドラマ」あるいは「小説」といったものと大きく違うところは、1つのシーン・空間・関係性を作り上げるにしても、圧倒的に「役者」間で作り上げるとこが大きいという点であろうか。
一度舞台に上がると、役者は観客の前で圧倒的に正直にならざろうえない。
それは力量が不足していればそれがそのまま現れるということであり、1つの「役柄」という人格を作り出すことができなければ、役者自身の「素」がそのまま現れると言うことでもある。また役者間の「間」・「空間」・「関係性」、それぞれの感情とコミュニケーション/ディスコミュニケーションを作り出せなければ、例え音効でごまかしたとしても二流の舞台にしかなりえない。ましてやデジタル処理による誤魔化しはきかず、「肉体」と「感情」、「人格」「情念」が直接ぶつかり合うしかないのだ。
「新宿梁山泊」や「MOP」の役者たちが、あるいは平田オリザや松田正隆が作り上げようとしている世界とはこうした「人間」でしか作り上げられない世界だ。だからこそ「演劇」は魅力的であり、この「デジタル化」と「商品経済化」という渦の中で「最後の可能性」が残されていると言ってもいい。
演劇ユニット「PASSIONE」HP
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初日終了後、昔のメンバーと久々に会ったこともあって軽く飲みに行く。
約10年という年月。変わらないものは変わることなく、変わってしまったものは変わってしまっている。10年、それが長いのか短いのか。変わってしまったものの多くは、決していい方には変わらない。昔、村上春樹の小説で、真中に線を1本引き、左の得たもの、右に失ったもののリストを作ったというのがあったが、僕等は右側にどれくらいのものを書かねばならないのだろう。
後輩から「変わってませんよね」と言われた。
おまえは変わったのか、と問いかけると「変わりましたよ」との返事。
「変わりましたよ。」
「どこが変わったの?」
「どうでしょう、ちょっとスレたかな」
その言葉はそのまま演技にも現れている。役者が1人の別の人格を作り上げられない限り、本人の持ってしまっている雰囲気や様子は演技でも伝わっていく。間の取り方、一つ一つの動作、そうした経験で養われていくものは確かにうまくなっているかもしれない。しかしあの頃、僕らが彼女に期待していたのはそんなものだったのか。劇団というのは良きにしろ悪しきにしろ、1つの閉鎖的なコミュニティとならざろうえない。「濃密さ」とそれゆえの「規律」が必要であり、例え無理強いでもコミュニティ外部との接点を持たなければ、演劇そのものの深みも出てこない。10年―何があったのかは問うまい。役者として大成しなかったであろうこの10年は、やはり彼女をつつむ様々な「関係」が変わるには十分な長さがあるのだ。
帰りの電車。ノスタルジーとも寂寥感ともつかぬ思いを抱いたまま、窓ガラス越しに映った自分の姿を見る。
「オマエハ本当二変ワッテイナイノカ…」
陰りを帯びたガラスの中の自分は、しかし何も答えようとはしない。窓のむこうには高速道路のオレンジの灯りと漆黒の闇が広がっていた。
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