ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

「ミスティックリバー」が描く「アメリカ」の抱えた病巣

2004年11月06日 | 映画♪
ショーン・ペンの熱演は言うに及ばず、抑えた演技のティム・ロビンスやケビン・ベーコンら名優が織り成す人間ドラマ。クリント・イーストウッドが監督をしていることもあって、映像的にはそんなにこった作りではないし、サスペンスといったも凝ったと仕掛けがあるわけではないが、とにかく「人間」というものを、その「愚かさ」と「悲しみ」をうまく引き出している作品。結局、人は過去に戻ることはできず、それが悪夢であったとしてもそれを抱えつつ生きていかねばならないのだ…

25年前。ボストンの貧困地区でジミー、デイブ、ショーンの3人がボール遊びをしていると、「警察だ」と名乗る2人組の男が現れる。彼らは3人のいたずらを注意すると、親元まで連れて行くとしてデイブを車に乗せ静かに走り去った。しかし彼らは警察などではなかった。数日後、デイブは暴行を受け必死に逃げてきたのだった…。
それから25年後、ボストンで女性の惨殺事件が発生。被害者はジミー(ショーン・ペン)の娘ケイティだった。大学を卒業し今では刑事となったショーン(ケビン・ベーコン)は犯罪にも手を染め街ではそれなりに知られているジミーと再会する。やがて捜査線上には、ケイティが最後に立ち寄ったバーに同時刻にいたデイブ(ティム・ロビンス)が浮かび上がる。25年前の事件、もしあの車に乗っていたのがデイブでなかったら――それぞれがそれぞれの思いと疑惑を抱え、そして誰もデイブの抱えたこんだ深い「闇」にたどり着けないまま事件は1つの結末を迎えることとなる。





おそらく原作はもっと深くそれぞれの人間関係や「闇」が描かれているのであろう。それをこの2時間という枠に収めるために、ある程度ジミーを中心に絞らなければならなかったのだろう。そのために若干未消化な部分は残ったとはいえ、絞った部分は非常に丁寧に描かれている。

それにしても何と救いようのない物語なのだろう。
それぞれが必死に暮らしている。なのにそこには悲劇しか訪れない。

デイブの人生を崩してしまったのが25年前の事件にあるとして、彼はその事件の被害者でしかなく、その後、そのトラウマを乗り越えられなかったとしても、少なくとあの3人の中では一番真っ当に生きていたのではないか。仕事をこなし、子供を送り迎えをする。閉ざされた心は確かに幸運を招くようなものではなかったのかもしれないが、ごくごく普通に暮らすには十分なもののはず。しかしこの「低収入・30代半ば・幼児期の性的暴行」というレッテルが貼られたとたん犯罪者予備軍として扱われ、そしてただ「普通に暮らそうとしている人」が最も悲劇的な存在とならざろうえないところに競争社会アメリカの現状が垣間見れる。

ジミーの怒りはその通りだろう。その復讐したいという気持ちもわかる。娘への愛情―「家族愛」のためであれば犯罪さえいとわない、あるいは仲間=familyへの裏切りは許さない、自分で受けた仕打ちは自分で片をつけるといった「倫理観」は映画にすれば美しい物語として描かれるかも知れないが、少なくとも「社会」を成立させる上では最適なものではない。「社会」とは全体調和のために「個人」の感情や利害関係、欲望を調整するものに他ならないのだから。

しかしこうした西部開拓以来のアメリカンスピリットは現代でも消えたわけではない。9.11以降のアメリカの行動はまさにこの精神の表れではないか。「フセインは核兵器を保有している(はずだ!)」から始まった軍事行動は明らかに「アメリカ国民」という「家族愛」中心であり、国連などの調停機関を無視した「自ら片をつける」という復讐心以外のなにものでもない。そこにはデイブの言い分同様イスラムという他者の言い分に耳を貸すことはなく、デイブの抱えた「闇」同様イスラム側の受けている宗教的・文化的迫害を理解することもない。


それぞれの疑惑と思いが交錯し、物語は1つの結末を迎える。そしてデイブの迎えた悲劇とは裏腹に、ジミーとショーンはそれぞれの心の内に「事件」を終結させることにする。

何も全てを白日の下に晒すこととが正しいとは思わない。年を経れば誰もが心のうちに秘密の1つや2つ、「闇」や「孤独」といったものを抱えて生きていかねばならなのだから。しかしジミーとショーンが抱えた「秘密」はデイブが抱えつづけた「闇」に比べてあまりにも軽く、利己的ではないか。ジミーの妻アナベスは彼に「パパは王様なの、愛すもののためならなんでもする」「だってみんな弱いけど私達は違う。私達は弱くない。」と語り、ジミーはその言葉で何事もなかったかのようにパレードを見学する…この態度にこそがアメリカの抱えている病の原因があるのではないか。

全くタイプも違うのだけれど、この映画を見終わって、ふと宮本輝の「幻の光」を思い出した。あの物語では自殺とも事故とも分からぬ形で死んだ夫の抱えていた「闇」に思いをはせる妻の姿が描かれている。日本人の場合、他者の心に触れようとするというか、解けぬ「闇」と繋がろうとすることそのものに何らかの「救い」と「許し」、再生への道を見出そうとするのではないか。他者との関係性の中で、あるいは他者との「許し」の中で生きていくのだ。

それに対して、この映画が象徴するように、アメリカとはやはり他者とは相容れぬものなのだろう。抱え込んでしまった「闇」は個人の中で昇華していくしかなく、だからこそ、デイブの妻セレステは耐え切れずジミーに吐露してしまい、あるいはアナベスやジミーが何事もなかったかのように暮らしていけるのだろう。


【評価】
総合:★★★★☆
役者:★★★★★
深み:★★★☆☆
(小説はもっと深いのでしょう)

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原作「ミスティック・リバー」/デニス ルヘイン
ミスティック・リバー

「幻の光」/宮本輝
幻の光



3 コメント

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トラックバックありがとうございました。 (ぷれこ)
2004-11-07 04:32:39
アメリカの病に次々と日本も感染しているのではないでしょうか。
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はじめまして。 (グース)
2004-11-07 15:02:31
トラックバックありがとうございます。

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深いですね。 (ヨウヨウ)
2004-11-07 20:13:49
トラックバックありがとうございます。

『幻の光』につなげたくだりを読んで、うんうんナルホド~と思いました。『ミスティック・リバー』のパレードの場面はホントに象徴的でしたね。イーストウッドにはこの調子で映画を作ってもらいたいです~。

☆TBさせてくださいね。
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