まぁ、あまりこの件については触れるつもりもなかったのだけど、日テレ「きょうの出来事」を見ていて、さすがに堀江社長が可愛そうになった。先にこういうストーリーで話を進めたいとするテレビ局側と自分の立場を説明しようという堀江さんとの立場の違いが明らかで、予定調和的に進めようという、あるいは隙あらば揚げ足を取ろうとするテレビ局側のスタンスはあまりにも滑稽であり、馬鹿馬鹿しくもある。
基本的には、ライブドアはコアとなる事業を持っているわけでもないし、明確なビジョンもないし、何より放送とインターネットの融合という期待をあおりつつも実体のないビジョンに、現状以上の期待はもっていない。にしてもだ、この既存メディアや社会の枠組みが大きく変化しようという時に、これまでと同様の枠組みの中に抑え込もうとする姿、明らかにゲームのルールが違うにも関わらず既存のルールに当てはめて理解しようとする姿勢に、20代や30代は違和感を感じ堀江さんを応援することになるのだろう。別に堀江さんを応援する気はないのだ。ただ比較対象として、既存の枠組がひどすぎるのだ。
しかしいざ既存メディアの枠組が崩されるかもしれないといった瞬間に、ここまで日本のメディアやジャーナリズムの愚かさが露呈されるとは思わなかった。NHKと朝日新聞の戦いもそうだし、かっては木村剛が東洋経済なんかとやりあっていたりしたけれど、よくもまぁ、ここまで自分達の書いた絵どおりに、取材対象の話を押し込めようとするなぁ、と思う。普通の企業だったら、間違いなくコミュニケーション能力のない社員と呼ばれることだろう。
これはある意味、世代間闘争なのだろう。
ある意味、「村社会」・「談合社会」・既存のプレイヤーによる固定化されたフレームワークの中で、堀江さんが挑戦していることはその古きルールそのものを破壊することなのだろう。それが成功するかどうかはわからない。仮にプロ野球騒動がそうであったように、横からまた古いプレイヤーとも嫌われないプレイヤーに美味しいところをかっさらわれるかもしれない。
あるいは、そうした日本的体質を崩そうと虎視眈々と狙っていた外資によって踊らされているのかもしれない。
とはいえ、この一連の騒動が明らかにしたことは、メディアを含めていかに断絶が生じていることか、ということなのだろう。
基本的には、ライブドアはコアとなる事業を持っているわけでもないし、明確なビジョンもないし、何より放送とインターネットの融合という期待をあおりつつも実体のないビジョンに、現状以上の期待はもっていない。にしてもだ、この既存メディアや社会の枠組みが大きく変化しようという時に、これまでと同様の枠組みの中に抑え込もうとする姿、明らかにゲームのルールが違うにも関わらず既存のルールに当てはめて理解しようとする姿勢に、20代や30代は違和感を感じ堀江さんを応援することになるのだろう。別に堀江さんを応援する気はないのだ。ただ比較対象として、既存の枠組がひどすぎるのだ。
しかしいざ既存メディアの枠組が崩されるかもしれないといった瞬間に、ここまで日本のメディアやジャーナリズムの愚かさが露呈されるとは思わなかった。NHKと朝日新聞の戦いもそうだし、かっては木村剛が東洋経済なんかとやりあっていたりしたけれど、よくもまぁ、ここまで自分達の書いた絵どおりに、取材対象の話を押し込めようとするなぁ、と思う。普通の企業だったら、間違いなくコミュニケーション能力のない社員と呼ばれることだろう。
これはある意味、世代間闘争なのだろう。
ある意味、「村社会」・「談合社会」・既存のプレイヤーによる固定化されたフレームワークの中で、堀江さんが挑戦していることはその古きルールそのものを破壊することなのだろう。それが成功するかどうかはわからない。仮にプロ野球騒動がそうであったように、横からまた古いプレイヤーとも嫌われないプレイヤーに美味しいところをかっさらわれるかもしれない。
あるいは、そうした日本的体質を崩そうと虎視眈々と狙っていた外資によって踊らされているのかもしれない。
とはいえ、この一連の騒動が明らかにしたことは、メディアを含めていかに断絶が生じていることか、ということなのだろう。
むしろ、私はそういうことがブログでは起こり得るのではないのかと心配しています。RSSやアンテナなどにより、情報の発信側が受信者へ一方的に情報の存在を送りつけることが可能になってしまいました。憎いことに、これらの手段においては送りつける情報の制御はほとんど発信者に握られてしまいます。実際、更新情報として送られるのはたいてい記事タイトルだけ、さらにはブログそのものの名前だけなどということもあります。受信者は記事を本当に読む価値があるか否かを確かめるために、実際に記事を読むハメになります。結果として、送信者が意図的かつ秘密裏に受信者の行動を操ってしまう恐れがあります。よく「反論がいっせいにブログで湧きおこった」なんて報道がありますが、その裏にはこのようなカラクリがあるのかも知れません。多くの人がRSSやアンテナの魔力により知らず識らずのうちに同じ記事を読まされていたのなら、議論が盛り上がるのも当たり前です。厄介なことに、ブログは記事が自分で書けてしまうため、あたかも自分でテーマを選択したように容易に思い込めてしまいます。テーマの源となる、自分で記事を書く前に読んだ記事について自分で制御することが難しいことにはなかなか気づけません。
実は、私はブログを辞めた身です。上に上げたのはその理由の一つです。完全に自分のためだけにテーマを決めようとすると(当初は毎日の乗車列車の記録にしようとしていた、どう考えても他人の役に立つものではない)、やれアンテナだトラックバックだと不必要に他人を巻き込む技術があふれ出してきました。しかもそれらを使わないとブログじゃないとまでいわれました(少なくとも現状のブログではそうなっている)。赤の他人と24時間顔を突き合わせなければならないようなもので、辛い日々でした。実際、辞めて清々しています。最近じゃテレビも見なくなりましたが、それでも生活に支障はありません(むしろ童話や絵本を読む時間が増えて、舞浜へ行きやすくなった)。ブログでも同じことが起こったことを鑑みると、業種や体系を問わずメディアなどなくても人間はそれなりに生活できるのかも知れません。
で、ブログについてですが、もともとマーケティングに利用できるかということでやりだしたブログなので、耳が痛いです(^^;
確かにここ最近のブログの使われ方はちょっと考える必要はありますね。トラックバックにしろ、RSSにしろ発信者側が中心となっていて、確かに他人の面白い記事に出会うチャンスが増えたり、新しい情報が確実に手に入ったりとメリットも多いんですが、スパムかと思うTBが多いのも事実。「欲望メディア」インターネットではどうしてもモラルや常識が制御するということが難しい以上、このことを制御できる技術の登場を待つしかないのかもしれません。