ヴィム・ヴェンダースの作品に「パリ、テキサス」というものがある。映画史上最も退屈なロードムービーにして、最高の「映画的」な美しさをもった作品。そして何よりも切なく心震わされる作品だ。
この作品の中で主人公のトラヴィスは愛する妻と子供の前から失踪している。しかし彼は記憶を失っており、どうしてそうなったのかを覚えていない。いや、そもそも失踪したことさえも覚えていない。彼は記憶を失ったまま自分が誕生した場所―父と母の愛情が満ち彼を産み落としたであろう荒野の一画、テキサス州パリを彷徨っているところを保護される。
この物語は主人公 トラヴィスが、あるいはその妻 ジェーンが何故、互いに愛しあいながら離れなければならなかったかを見出すまでの「自分探し」の旅だ。こう書いてしまうとどこにでもあるような作品のようにも聞こえるかもしれないが、この作品の凄さは、そこに「エゴ」という個人に根差した欲望を追求するあまり、(それが大切な人であっても)相手を見る/想うことなく、自らの「エゴ」を投影した虚像しか見ることができなくなった現代人の様を描き出したところだ。つまりアメリカ人や3.11以前の(あるいは今でも)日本人の病理を描いたからだ。
僕らがとりつかれている「欲望」の姿とはなんなのだろうか。
遠い「かって」の世界では、僕らの欲望は必ずしも自分のものだけではなっただろう。
共同体の中の一員としての「個人」はよくも悪くも共同体の規範や倫理、共同体を維持するための善、仲間意識、友愛といったモノとともに存在していた。欲望の在り方も間主観性によって創られたそれらのものよって制約を受けていた。個人は過剰なまでに個人の欲望を求めることなく、そうした思いが立ち現れたとしてもそれは忌むべきものと考えられた。
しかし現在は違う。
個人主義の発達はそうした共同体としての生き方を否定し、資本主義の発達は個人の欲望の成就を果てしなく認めるための回路を用意した。一言で言えば、どこまでもワガママになったのだ。
その結果、僕らは無意識的にもあらゆる対象を欲望のための道具とみなすことになる。あらゆるものを欲しがり、あらゆるものを消費しようとする。それは「モノ」ばかりではない。
…トラヴィスはガラス越しにジェーンに語る。自分がどれほどジェーンのことを愛していたか。どれほど自分のものにしたかったか。不安になり、嫉妬し、気が狂いそうであったか、と。
しかしトラヴィスが見ていたのは、ありのままのジェーンではなかった。彼は、その愛情故にあるいはその欲望故に、自分が想像したジェーンのイメージをジェーンに投影していたのだ。嫉妬に狂うトラヴィス。それは歪んだ形の愛情となって現れる。その一方でジェーンはジェーンで自分自身の生き方や欲望を追いかけるだけで、トラヴィスと向かい合うことはなかった。
それぞれがそれぞれの虚像を追いかけ、そして思い通りにならないがゆえに、心を痛め、離れていくことになる。際限のない欲望の果てには「安住の地」などはないのだ。
3.11以降、こうした欲望の在り方は変わったのだろうか。
そうした希望がないわけではない。多くの人が東北の、被災地の人のことを想い、少しづつでも協力できること/我慢できることを我慢しようとした。そうした在り方は欲望の在り方に一定の歯止めをかけるだろう。
あるいは「Share」という世界観がある。そこには20世紀型の大量生産大量消費的な文化とは異なる、再生可能な/共生的な世界を創りだしてくれるかもしれない。そこではこれまでのような「私的利益の追求」とは異なるしなやかな「欲望」の姿がある。
そうしたものは僕らが抱く虚像を払拭してくれるだろうか。道具としてではなく、あるがままの姿を見ることができるのだろうか。ふと、そんなことが気になった。
パリ、テキサス:ヴィム・ヴェンダースの最高傑作! - ビールを飲みながら考えてみた…
「パリ、テキサス」Paris,Texas(1984西独・仏)
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この作品の中で主人公のトラヴィスは愛する妻と子供の前から失踪している。しかし彼は記憶を失っており、どうしてそうなったのかを覚えていない。いや、そもそも失踪したことさえも覚えていない。彼は記憶を失ったまま自分が誕生した場所―父と母の愛情が満ち彼を産み落としたであろう荒野の一画、テキサス州パリを彷徨っているところを保護される。
この物語は主人公 トラヴィスが、あるいはその妻 ジェーンが何故、互いに愛しあいながら離れなければならなかったかを見出すまでの「自分探し」の旅だ。こう書いてしまうとどこにでもあるような作品のようにも聞こえるかもしれないが、この作品の凄さは、そこに「エゴ」という個人に根差した欲望を追求するあまり、(それが大切な人であっても)相手を見る/想うことなく、自らの「エゴ」を投影した虚像しか見ることができなくなった現代人の様を描き出したところだ。つまりアメリカ人や3.11以前の(あるいは今でも)日本人の病理を描いたからだ。
僕らがとりつかれている「欲望」の姿とはなんなのだろうか。
遠い「かって」の世界では、僕らの欲望は必ずしも自分のものだけではなっただろう。
共同体の中の一員としての「個人」はよくも悪くも共同体の規範や倫理、共同体を維持するための善、仲間意識、友愛といったモノとともに存在していた。欲望の在り方も間主観性によって創られたそれらのものよって制約を受けていた。個人は過剰なまでに個人の欲望を求めることなく、そうした思いが立ち現れたとしてもそれは忌むべきものと考えられた。
しかし現在は違う。
個人主義の発達はそうした共同体としての生き方を否定し、資本主義の発達は個人の欲望の成就を果てしなく認めるための回路を用意した。一言で言えば、どこまでもワガママになったのだ。
その結果、僕らは無意識的にもあらゆる対象を欲望のための道具とみなすことになる。あらゆるものを欲しがり、あらゆるものを消費しようとする。それは「モノ」ばかりではない。
…トラヴィスはガラス越しにジェーンに語る。自分がどれほどジェーンのことを愛していたか。どれほど自分のものにしたかったか。不安になり、嫉妬し、気が狂いそうであったか、と。
しかしトラヴィスが見ていたのは、ありのままのジェーンではなかった。彼は、その愛情故にあるいはその欲望故に、自分が想像したジェーンのイメージをジェーンに投影していたのだ。嫉妬に狂うトラヴィス。それは歪んだ形の愛情となって現れる。その一方でジェーンはジェーンで自分自身の生き方や欲望を追いかけるだけで、トラヴィスと向かい合うことはなかった。
それぞれがそれぞれの虚像を追いかけ、そして思い通りにならないがゆえに、心を痛め、離れていくことになる。際限のない欲望の果てには「安住の地」などはないのだ。
3.11以降、こうした欲望の在り方は変わったのだろうか。
そうした希望がないわけではない。多くの人が東北の、被災地の人のことを想い、少しづつでも協力できること/我慢できることを我慢しようとした。そうした在り方は欲望の在り方に一定の歯止めをかけるだろう。
あるいは「Share」という世界観がある。そこには20世紀型の大量生産大量消費的な文化とは異なる、再生可能な/共生的な世界を創りだしてくれるかもしれない。そこではこれまでのような「私的利益の追求」とは異なるしなやかな「欲望」の姿がある。
そうしたものは僕らが抱く虚像を払拭してくれるだろうか。道具としてではなく、あるがままの姿を見ることができるのだろうか。ふと、そんなことが気になった。
パリ、テキサス:ヴィム・ヴェンダースの最高傑作! - ビールを飲みながら考えてみた…
「パリ、テキサス」Paris,Texas(1984西独・仏)
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