ヤンキー先生こと義家弘介さんのコラムで、母校を離れる「告白」をしてから始めての更新があった。サーバがダウンするほどの反響があったらしく、相変わらず「コメント」と「トラックバック」は停止したままということもあって、ちょっと残念ではある。内容は今受け持っている生徒たちへの想い、学校を離れることへの寂しさといった感じが中心だが、その中で気になる記述が。、
別れ・・・
それは出会えた証。
以前,ある生徒が,別れを寂しがる私に贈ってくれた言葉。
その言葉だけが,今,壊れそうな私を支えてくれています。
その言葉が示すように、きっと「やっかみ」なども含めてかなりの批判的な意見があったのだろうと想像される。そんなこともあってそのコラムを読んだ感想を「ブログ検索」していたら、こんな感想が書かれていた。
「最後に、ずーーとずーーーと続く長いスクロール」「これは、最後にあらわれる、著書やDVDへの広告バナーを見せたくなかったのではないでしょうか。私はそう考えています。なんだかんだいったって、ブログを書いて、結局金儲け?のような目で見られることをさけるためではないかと。」
確かにコラムを読み返してみると必要以上に長い改行がなされている。ことサイト関係の仕事をしている立場からすると、ファンが来る確率が高いのだから関連する商品を配置したくなるのだが、なるほどそういう見方もあるのか。
例えば今やブログタレントとして最も有名な木村剛さんのブログ「週刊!木村剛」の場合、自らが社長を勤める「日本振興銀行」のバナーから、既に編集長を辞めたはずの「フィナンシャルジャパン」のバナーが2つ、ブログが産んだ新しい雑誌「月刊!木村剛」にメルマガのバナー、ココログの案内、木村さんの書籍が9冊とある意味、商品やサービスのリンクだらけだ。しかしそのことに対しての批判は聞いたことがない。
この両者の違いは求められているものの違いなのだろう。
木村氏は言わずもしれた金融コンサルタントであり、まぁ、広い意味でビジネスの世界の成功者であり、最先端を行く人だ。「月刊!木村剛」のようにブログという新しいメディアを利用した新しい商品やプロモーション手法を開発することはむしろ期待されており、「木村剛モノログ横丁」や「本のソムリエ」といった形の販売手法がどれくらい効果的かが問われているといえる。
これに対してヤンキー先生・義家弘介さんはやはり「聖職」「教育者」というイメージで見られるということなのだろう。1日で7万人がブログに訪れたという退職報道の際にも、圧倒的に激励のコメントが多かったとはいえ、トラックバック先などを見ていると、「現場にいてこその教師」「金儲けに走っている」といった真偽の定かでない批判がなされていたし、報道後、ファンから急先鋒の批判者に変わった人もいた。
これらは義家氏に「理想の教師」としてのイメージを押し付けていたからであろう。受け持たれている生徒の側から、執筆活動や講演会で授業にさしさわりがあるという批判がなされているのであれば問題なのであろうが、その活動に問題がなければ、そうした批判は適切ではない。しかし同時にそうした批判にも共感できてしまうのは、日々「教師失格」のニュースが溢れ、様々な教育問題、学校の管理問題が問われている中で、まさに義家氏の姿勢に牧歌的な「理想の教師」像をみ、あるいは託していたからだろう。
以前、社会人を経て教師になる人間が多いという話を聞いて、ある先生にそうした教師の感想を聞いたことがある。「大学卒業後すぐに教師になる人間は情熱があり、理想を追い求める傾向があるが、どうしても社会経験の乏しさがある。それに対して社会人を経て教師になった人間はそうした社会経験を活かすことができるがどうしても現実的になってしまう。どっちもどっちかな。」という感想だったと思う。
理想は必ずしも現実ではない。それは理想の実現が難しいというだけなく、現実の世界には唯一絶対の理想は存在しないということでもある。その人の置かれている立場やスタンスによって理想は違うのだ。
例えばリクルート出身の民間校長・藤原和博さんの取組の1つに、子供達にバーチャルな商売をさせるというものがあったと思う。そこではグループで一定の資金をもとにどこに出店すれば儲かるのかを競わせるという、日教組が聞けばそれだけで怒り出しそうなテーマだ。
しかし子供達は一生懸命自分達でどうしたら他のグループより儲かるか「考える」という。「金儲け」を子供のうちから教えることに批判的な意見はあるだろう。しかし「ゆとり教育」がスタートした背景、詰込式の教育や受験教育によって自ら「考える」ことが低下したという問題に対しては、藤原さんの活動は成功しているといえる。それもビジネスという唯一の解答がない世界が舞台である以上、様々な考え方を受け入れる、自らの考えを相対化させることができるといった、ある意味社会で生きていくために必要な基本的な能力を身に付けながら。
特に最近では「ゆとり教育」によって学力が低下したとして、その反動が急速に進んでいる。「3.14」を「3」と教えることにどれだけの意味があったのかは確かに疑問だけれど、単純に正反対にすればいいというものでもない。「学ぶ」の語源が「真似る」にあったとしても、「真似」て終わりではこれからの世界で求められている人材とはいえないだろう。
ましてこの「反・ゆとり教育」でフォローされない層というのは必ず出てくる。それは単純な「落ちこぼれ」かもしれないし、家庭や周囲との関係に問題がある場合だってある。そうした子供達をフォローできるのは、「子どもたちに与えた『ゆとり』に,愛情を持った大人がしっかりと寄り添うという状況」かもしれないし、あるいは別の形かも知れない。先も言ったように、立場やスタンスによって理想は違うのだ。
ヤンキー先生・義家弘介さんにはこれからも教師を続けて欲しいと思う。
我々はまた、彼に我々それぞれが内面に描いている「理想像」を押し付けたり、スケープゴートにしたりすることなく、彼がやっていることを見守っていくことが必要なのだろう。
ヤンキー先生 義家弘介の教育コラム:残り少ない日々
「ヤンキー先生 放熱のとびら」-義家弘介と著名人が語る 教育と子供たち、そして未来-
またまた、ヤンキー先生のブログに行って来ました。
週刊!木村剛
藤原和博「和田中と地域を結ぶホームページ」
別れ・・・
それは出会えた証。
以前,ある生徒が,別れを寂しがる私に贈ってくれた言葉。
その言葉だけが,今,壊れそうな私を支えてくれています。
その言葉が示すように、きっと「やっかみ」なども含めてかなりの批判的な意見があったのだろうと想像される。そんなこともあってそのコラムを読んだ感想を「ブログ検索」していたら、こんな感想が書かれていた。
「最後に、ずーーとずーーーと続く長いスクロール」「これは、最後にあらわれる、著書やDVDへの広告バナーを見せたくなかったのではないでしょうか。私はそう考えています。なんだかんだいったって、ブログを書いて、結局金儲け?のような目で見られることをさけるためではないかと。」
確かにコラムを読み返してみると必要以上に長い改行がなされている。ことサイト関係の仕事をしている立場からすると、ファンが来る確率が高いのだから関連する商品を配置したくなるのだが、なるほどそういう見方もあるのか。
例えば今やブログタレントとして最も有名な木村剛さんのブログ「週刊!木村剛」の場合、自らが社長を勤める「日本振興銀行」のバナーから、既に編集長を辞めたはずの「フィナンシャルジャパン」のバナーが2つ、ブログが産んだ新しい雑誌「月刊!木村剛」にメルマガのバナー、ココログの案内、木村さんの書籍が9冊とある意味、商品やサービスのリンクだらけだ。しかしそのことに対しての批判は聞いたことがない。
この両者の違いは求められているものの違いなのだろう。
木村氏は言わずもしれた金融コンサルタントであり、まぁ、広い意味でビジネスの世界の成功者であり、最先端を行く人だ。「月刊!木村剛」のようにブログという新しいメディアを利用した新しい商品やプロモーション手法を開発することはむしろ期待されており、「木村剛モノログ横丁」や「本のソムリエ」といった形の販売手法がどれくらい効果的かが問われているといえる。
これに対してヤンキー先生・義家弘介さんはやはり「聖職」「教育者」というイメージで見られるということなのだろう。1日で7万人がブログに訪れたという退職報道の際にも、圧倒的に激励のコメントが多かったとはいえ、トラックバック先などを見ていると、「現場にいてこその教師」「金儲けに走っている」といった真偽の定かでない批判がなされていたし、報道後、ファンから急先鋒の批判者に変わった人もいた。
これらは義家氏に「理想の教師」としてのイメージを押し付けていたからであろう。受け持たれている生徒の側から、執筆活動や講演会で授業にさしさわりがあるという批判がなされているのであれば問題なのであろうが、その活動に問題がなければ、そうした批判は適切ではない。しかし同時にそうした批判にも共感できてしまうのは、日々「教師失格」のニュースが溢れ、様々な教育問題、学校の管理問題が問われている中で、まさに義家氏の姿勢に牧歌的な「理想の教師」像をみ、あるいは託していたからだろう。
以前、社会人を経て教師になる人間が多いという話を聞いて、ある先生にそうした教師の感想を聞いたことがある。「大学卒業後すぐに教師になる人間は情熱があり、理想を追い求める傾向があるが、どうしても社会経験の乏しさがある。それに対して社会人を経て教師になった人間はそうした社会経験を活かすことができるがどうしても現実的になってしまう。どっちもどっちかな。」という感想だったと思う。
理想は必ずしも現実ではない。それは理想の実現が難しいというだけなく、現実の世界には唯一絶対の理想は存在しないということでもある。その人の置かれている立場やスタンスによって理想は違うのだ。
例えばリクルート出身の民間校長・藤原和博さんの取組の1つに、子供達にバーチャルな商売をさせるというものがあったと思う。そこではグループで一定の資金をもとにどこに出店すれば儲かるのかを競わせるという、日教組が聞けばそれだけで怒り出しそうなテーマだ。
しかし子供達は一生懸命自分達でどうしたら他のグループより儲かるか「考える」という。「金儲け」を子供のうちから教えることに批判的な意見はあるだろう。しかし「ゆとり教育」がスタートした背景、詰込式の教育や受験教育によって自ら「考える」ことが低下したという問題に対しては、藤原さんの活動は成功しているといえる。それもビジネスという唯一の解答がない世界が舞台である以上、様々な考え方を受け入れる、自らの考えを相対化させることができるといった、ある意味社会で生きていくために必要な基本的な能力を身に付けながら。
特に最近では「ゆとり教育」によって学力が低下したとして、その反動が急速に進んでいる。「3.14」を「3」と教えることにどれだけの意味があったのかは確かに疑問だけれど、単純に正反対にすればいいというものでもない。「学ぶ」の語源が「真似る」にあったとしても、「真似」て終わりではこれからの世界で求められている人材とはいえないだろう。
ましてこの「反・ゆとり教育」でフォローされない層というのは必ず出てくる。それは単純な「落ちこぼれ」かもしれないし、家庭や周囲との関係に問題がある場合だってある。そうした子供達をフォローできるのは、「子どもたちに与えた『ゆとり』に,愛情を持った大人がしっかりと寄り添うという状況」かもしれないし、あるいは別の形かも知れない。先も言ったように、立場やスタンスによって理想は違うのだ。
ヤンキー先生・義家弘介さんにはこれからも教師を続けて欲しいと思う。
我々はまた、彼に我々それぞれが内面に描いている「理想像」を押し付けたり、スケープゴートにしたりすることなく、彼がやっていることを見守っていくことが必要なのだろう。
ヤンキー先生 義家弘介の教育コラム:残り少ない日々
「ヤンキー先生 放熱のとびら」-義家弘介と著名人が語る 教育と子供たち、そして未来-
またまた、ヤンキー先生のブログに行って来ました。
週刊!木村剛
藤原和博「和田中と地域を結ぶホームページ」
スクロールの意図が別のところにある可能性もあるのですが、やはり、義家先生の傷心されていることの象徴のような気がしたもので、書かせていただきました。
わたしも、「義家弘介さんにはこれからも教師を続けて欲しいと思う」ひとりです。