10年。母親を癌で亡くしてから10年の時間が経つ。そして今、同じ病院に親父が癌で入院している。
さすがに2度目となると慣れたもので、診断で語られる言葉の意味をある程度実感をもって理解することもできるし、気持ちの整理の仕方なども以前とは比べものにならないくらい冷静に対応できていると思う。
10年前、それは「ブラックジャックによろしく」の【がん医療編】とリアルタイムに進行していた時だった。その漫画の中で描かれる葛藤はまさしく僕の葛藤でもあったし、家族の側にとっての「死」の準備を進める上での一助となっていた。事実、母親への告知の是非について、父親と口論となったりもした。そうだ、まだ「告知」をすることに対し抵抗感をもつ人が多く、医者の側からも本人に伝えるということを推奨していなかった頃であり、その一方で「インフォームドコンセント」「ターミナルケア」「QOL(quality of life)」「セカンドオピニオン」などという言葉が現場でも広がりつつあった頃だ。実際、僕自身、キューブラー・ロスらが示した癌告知後の末期がんの患者の心理変化などを読み、果たして本人に告知することが適切なのかの確信をもてないまま手探りでいた。
キューブラー・ロスの示した心理変化とは、
第1段階 否認と孤立:死が不可避であるという現実を否認し、孤立感にさいなまれる
第2段階 怒り:自分が死なねばならないということの怒りを周囲にむける
第3段階 取引:何とか死なずに済むようにと、何かにすがろうとする
第4段階 抑うつ:絶望。無気力。何も出来ない
第5段階 死の受容:自分の死を受け入れる。死ぬまでの時間を前向きに生きる。
というものだ。
仮に余命を3ヶ月から半年と言われた時に、そのことを本人に告げ、上述の変化を経た上で「死」を受容し、前向きに生きられるだけの時間や精神的な強さがあるだろうか。そのことが僕の中での葛藤だった。理屈はわかる。それだけの心理過程を潜り抜けることで、単純に諦念というものではない、積極的な死への準備が行われることになる。そうすることで初めて、残りの人生を考え、自らの納得した人生の終焉を迎えるために、選択が可能となるのだから。
しかし仮に告知したことによって絶望感から急激に体力を落とし、残された時間がさらに短くなるのではないか。あるいは「第5段階」にたどり着けぬまま、絶望や不条理感を残したまま命を落とすのではないか…そうした不安が常につきまとう。それでも、母親の芯の強さを信じ、何よりも残された時間を満足して過ごしてほしい、そういう思いから僕は「告知すること」を主張した。しかしそれに耐えれなかったのは親父の方だった。
「(母親の)落ち込むところを見たくない。」
でも、それは母親のためだったのか、自分のためだったのか。僕は今でもこのことを納得できずにいる。
結局、母親は自らの「余命」を聞かされることなく亡くなった。体力をつけて早く元気にならないと、僕らはそう言い続けた。ただ本人わかっていたのだと思う。戻らない体調や僕らの過剰な言葉、そして痛み…。親父や僕にそんなこと何も問いただすこともなかったけれど、きちんと「死」への心積もりを整えていった人だった。それを隠し続ける僕らのことを責めるでもなく、嘘を知ったうえで知らないふりをし続けてくれた人だった。今もそのことを思うと胸が痛む。
もう歩くことも困難になりかけてきた頃、「また歩けるようにならないと」と杖を渡したことがある。そのとき初めて「やりきれない」表情を浮かべたのを憶えている。僕ら以上に無理をしていたのは母だったのだ、そしてそのことにさえ気づかずに僕と親父は我慢をさせてきたのだ。
最期の時。東京から急いで駆け付けた僕を待っていたかのように、弱々しくも母は意識を残していた。話しかければ、「ありがとう、ありがとう」と息を吐くような声で返事をした。親父は一生懸命母の体をさすっていた。耳の遠い親父の代わりに、僕が母に話しかけ声を聞き取ろうとしていた。僕は母の手を握り続けていた。まだ手には母の重みがかろうじて残っていた。
親父には母の最後の言葉は「お父さん、ありがとう」だと伝えてある。今だから正直に言おう。母の最後の言葉はそうではない。
「もういいよ。」
母は最期にそう漏らした。それは必死に声をかけ続け、看護する僕らを「気遣う」言葉だった。何故、死にゆく者がわがままも言わず、生き残るもののことを気遣う必要があるのか。痛いとか、死にたくないとか、そんな言葉ではなく、「もういいよ」なのか。結局、母は最期まで僕らのために生きたのだ。その時のことを思い出すたびに僕の胸は痛む。
声にならぬ声でそう話し、僕が「わかったから、もうわかったから」と返した時、母の手を握る僕の左手からふっと何かが消えていった。ほんのわずかな何か。しかしそれは確かにその瞬間まで存在したもの。それは「命」の重さであり、母という存在、魂が遠くへ去って行ったのだ。
どうしますか、僕らは医者からの呼びかけに応じて、呼吸器を外したのだった――。
あれから10年。病院側の「告知」に対するスタンスも大きく変わっていることに驚く。
本人への意思確認があったのかもしれないが、僕らとほぼ同世代の執刀医の先生は、現在の状態について、単に事実を話しているだけだという感じで話してくれる。ここに何cmの原発巣ができていて、おそらくこれが隣の臓器に浸潤したと思われます。またそれがリンパ節などを通ってこちらの臓器に転移したのではないかと想定されます。よく癌の進行度を「ステージ」という言葉で表しますが、これには「深さ」や「数」、それに他の臓器への転移の有無から判断しますが、あなたの場合はここに転移をしているので「Stage4」となります…。
あまりにも淡々と事実を告げていくため、聞いている人にとってもそれがどれくらいの深刻度を示しているのかピンと来ていないのかもしれない。本人が希望している限り、本人に事実を伝える。そこには以前のような告知に対して逡巡するような態度はない。ただ時折、親父の状態を楽観的にとらえたような質問に対して、僕の方を見やる目には「考えているより大変なことですよ」という表情が表れる。わかっている。彼は「絶望」を伝えないまま、絶望的な状況を伝えているのだから。
こういった告知のあり方が、患者にとっての「死の受容」への近道となりえるのかどうかはわからない。ただ「インフォームドコンセント」が当たり前のように広がり、ターミナルケアも一般化した時代において、患者や家族の側の過剰反応を防ぐ効果的な「告知」のあり方としての生み出された知恵なのだろう。
ただそれをそのまま受け入れるわけにもいかない。残りの時間を含め、どのような対処が可能なのか、どのような選択肢があるのかを整理し冷静な判断ができるのは本人ではなく家族なのだから。
がんとこころのケア (NHKブックス) / 明智龍男
![](https://www.nhk-book.co.jp/image/book/153/0001975.jpg)
ブラックジャックによろしく 5 / 佐藤秀峰
![](http://mangaonweb.com/upload/book_group/cn_1/zOkPFZ/bj5abc.jpeg)
さすがに2度目となると慣れたもので、診断で語られる言葉の意味をある程度実感をもって理解することもできるし、気持ちの整理の仕方なども以前とは比べものにならないくらい冷静に対応できていると思う。
10年前、それは「ブラックジャックによろしく」の【がん医療編】とリアルタイムに進行していた時だった。その漫画の中で描かれる葛藤はまさしく僕の葛藤でもあったし、家族の側にとっての「死」の準備を進める上での一助となっていた。事実、母親への告知の是非について、父親と口論となったりもした。そうだ、まだ「告知」をすることに対し抵抗感をもつ人が多く、医者の側からも本人に伝えるということを推奨していなかった頃であり、その一方で「インフォームドコンセント」「ターミナルケア」「QOL(quality of life)」「セカンドオピニオン」などという言葉が現場でも広がりつつあった頃だ。実際、僕自身、キューブラー・ロスらが示した癌告知後の末期がんの患者の心理変化などを読み、果たして本人に告知することが適切なのかの確信をもてないまま手探りでいた。
キューブラー・ロスの示した心理変化とは、
第1段階 否認と孤立:死が不可避であるという現実を否認し、孤立感にさいなまれる
第2段階 怒り:自分が死なねばならないということの怒りを周囲にむける
第3段階 取引:何とか死なずに済むようにと、何かにすがろうとする
第4段階 抑うつ:絶望。無気力。何も出来ない
第5段階 死の受容:自分の死を受け入れる。死ぬまでの時間を前向きに生きる。
というものだ。
仮に余命を3ヶ月から半年と言われた時に、そのことを本人に告げ、上述の変化を経た上で「死」を受容し、前向きに生きられるだけの時間や精神的な強さがあるだろうか。そのことが僕の中での葛藤だった。理屈はわかる。それだけの心理過程を潜り抜けることで、単純に諦念というものではない、積極的な死への準備が行われることになる。そうすることで初めて、残りの人生を考え、自らの納得した人生の終焉を迎えるために、選択が可能となるのだから。
しかし仮に告知したことによって絶望感から急激に体力を落とし、残された時間がさらに短くなるのではないか。あるいは「第5段階」にたどり着けぬまま、絶望や不条理感を残したまま命を落とすのではないか…そうした不安が常につきまとう。それでも、母親の芯の強さを信じ、何よりも残された時間を満足して過ごしてほしい、そういう思いから僕は「告知すること」を主張した。しかしそれに耐えれなかったのは親父の方だった。
「(母親の)落ち込むところを見たくない。」
でも、それは母親のためだったのか、自分のためだったのか。僕は今でもこのことを納得できずにいる。
結局、母親は自らの「余命」を聞かされることなく亡くなった。体力をつけて早く元気にならないと、僕らはそう言い続けた。ただ本人わかっていたのだと思う。戻らない体調や僕らの過剰な言葉、そして痛み…。親父や僕にそんなこと何も問いただすこともなかったけれど、きちんと「死」への心積もりを整えていった人だった。それを隠し続ける僕らのことを責めるでもなく、嘘を知ったうえで知らないふりをし続けてくれた人だった。今もそのことを思うと胸が痛む。
もう歩くことも困難になりかけてきた頃、「また歩けるようにならないと」と杖を渡したことがある。そのとき初めて「やりきれない」表情を浮かべたのを憶えている。僕ら以上に無理をしていたのは母だったのだ、そしてそのことにさえ気づかずに僕と親父は我慢をさせてきたのだ。
最期の時。東京から急いで駆け付けた僕を待っていたかのように、弱々しくも母は意識を残していた。話しかければ、「ありがとう、ありがとう」と息を吐くような声で返事をした。親父は一生懸命母の体をさすっていた。耳の遠い親父の代わりに、僕が母に話しかけ声を聞き取ろうとしていた。僕は母の手を握り続けていた。まだ手には母の重みがかろうじて残っていた。
親父には母の最後の言葉は「お父さん、ありがとう」だと伝えてある。今だから正直に言おう。母の最後の言葉はそうではない。
「もういいよ。」
母は最期にそう漏らした。それは必死に声をかけ続け、看護する僕らを「気遣う」言葉だった。何故、死にゆく者がわがままも言わず、生き残るもののことを気遣う必要があるのか。痛いとか、死にたくないとか、そんな言葉ではなく、「もういいよ」なのか。結局、母は最期まで僕らのために生きたのだ。その時のことを思い出すたびに僕の胸は痛む。
声にならぬ声でそう話し、僕が「わかったから、もうわかったから」と返した時、母の手を握る僕の左手からふっと何かが消えていった。ほんのわずかな何か。しかしそれは確かにその瞬間まで存在したもの。それは「命」の重さであり、母という存在、魂が遠くへ去って行ったのだ。
どうしますか、僕らは医者からの呼びかけに応じて、呼吸器を外したのだった――。
あれから10年。病院側の「告知」に対するスタンスも大きく変わっていることに驚く。
本人への意思確認があったのかもしれないが、僕らとほぼ同世代の執刀医の先生は、現在の状態について、単に事実を話しているだけだという感じで話してくれる。ここに何cmの原発巣ができていて、おそらくこれが隣の臓器に浸潤したと思われます。またそれがリンパ節などを通ってこちらの臓器に転移したのではないかと想定されます。よく癌の進行度を「ステージ」という言葉で表しますが、これには「深さ」や「数」、それに他の臓器への転移の有無から判断しますが、あなたの場合はここに転移をしているので「Stage4」となります…。
あまりにも淡々と事実を告げていくため、聞いている人にとってもそれがどれくらいの深刻度を示しているのかピンと来ていないのかもしれない。本人が希望している限り、本人に事実を伝える。そこには以前のような告知に対して逡巡するような態度はない。ただ時折、親父の状態を楽観的にとらえたような質問に対して、僕の方を見やる目には「考えているより大変なことですよ」という表情が表れる。わかっている。彼は「絶望」を伝えないまま、絶望的な状況を伝えているのだから。
こういった告知のあり方が、患者にとっての「死の受容」への近道となりえるのかどうかはわからない。ただ「インフォームドコンセント」が当たり前のように広がり、ターミナルケアも一般化した時代において、患者や家族の側の過剰反応を防ぐ効果的な「告知」のあり方としての生み出された知恵なのだろう。
ただそれをそのまま受け入れるわけにもいかない。残りの時間を含め、どのような対処が可能なのか、どのような選択肢があるのかを整理し冷静な判断ができるのは本人ではなく家族なのだから。
がんとこころのケア (NHKブックス) / 明智龍男
![](https://www.nhk-book.co.jp/image/book/153/0001975.jpg)
ブラックジャックによろしく 5 / 佐藤秀峰
![](http://mangaonweb.com/upload/book_group/cn_1/zOkPFZ/bj5abc.jpeg)
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