ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

癌告知後の心構えを整理する

2013年08月04日 | 医療
個人的な問題の考え方を整理するために書いてみる。

親父がStage4の癌だと宣告された。

緊急入院はしたものの、顔色も元気だし、本人的にも全く自覚はなかったらしい。

しかし事実は冷徹だ。5年生存率は10%以下。これがStage4の現実だ。

歳も歳だし、今回の癌でなくても数年内に亡くなる可能性はある。でも改めて「生」というものの残期間を意識せざろうえない。

果たして「生きる」とは何なのだろうか。

僕らが子供の頃、「死」なんてものを意識することは殆どなく、ただ毎日を精一杯生きていたのだと思う。日常の些細なことも、それが楽しいとかどうかという意味ではなく、それ行為の一つ一つが「充実」していたし、真剣だったのだと思う。

それが10代になり、部活に夢中になり、友達と馬鹿な遊びをし、恋をしたり、本を読み漁ったり、音楽に夢中になったり、答えの無い問題に悩み苦しんだり…子供の時とは違う広がりを見せつつも、やはり毎日を精一杯生き、充実した毎日だった。

「DON'T TRUST OVER THIRTY(30歳以上は信じるな!)」

その言葉は、毎日をただ繰り返しているようにしか見えない大人たちに対する批判として、10代の僕らにはごく自然に共感されるものだったし、「夢中」になれるもの、「夢」のない人生に価値があるとは思えなかった。

やがて20代となり、社会人として働き、ある程度、大きな仕事を任させるようになると、かっては「つまらない」としか見えなかった日常の中にも「夢中」になれるものや「夢」が存在することがわかってくる。それは中学や高校あるいは大学の頃では想像できなかった種類のものかもしれないが、そうやって僕らは大人となり、その都度、人生の中で目標や夢や充実できる瞬間を見出してきたのだろう。

そして今、親父がそうであるように、70歳、80歳となり、仕事をリタイアした人生であっても、そこに何らかの「夢中」になれるもの、成し遂げたい何かが存在しているのかもしれない。それは今の僕にはまだまだ理解できないような形で。

きっと、人間とはそうやってそのステージ毎に「求めるもの」「夢中になれるも」「欲望」を創り出し、人生の価値や意味を見つけ、生きていこうとするものなんだろう。

しかし事実は冷徹だ。

例え本人が「もっと生きたい」「完治/根治したい」と考えたとしても、そこには限界がある。「生」を延ばすことではなく、「限られた時間をどう生きるか」として考えなければならない。

詳細は検査結果次第の所があるとはいえ、治療方法/方針についてもいくつか考えられる。うまくいけば「切除」で根治できるかもしれないが、転移の可能性を考えれば「抗がん剤」治療の可能性が高くなるだろう。

当然、抗がん剤による治療では副作用がある。抗がん剤は結局のところ、癌細胞だけを攻撃するわけではなく、細胞自体あるいは細胞の中にあるDNAに障害を与えるものであり、細胞分裂が活発な癌細胞に結果的に効きやすいというものだからだ。吐き気や倦怠感といったものから、脱毛、白血球の減少、下痢などの症状があらわれることもある。本人の「健全」な「生」が維持できない可能性が高い。

そうした「健全性」「QOL(quality of life)」に制限を設けつつも、延命できる「生」の期間がどれだけになるのか。あるいは「QOL」を維持しつつ「生」を全うさせるために「緩和ケア」を中心とした治療を選択するのか。

そう考えると、結局の所、問われてくるのは、残りの人生を「どのように生きるのか」「生きたいのか」ということなのだろう。

80歳になった親父が何をやり残しているのか、そういった想いが残っているのかは、正直、僕にはわからない。あるいはただ「死」への漠然とした不安や恐怖から逃れたいだけなのかもしれない。

いずれにしろ残りの時間、それが1年以内なのか、3年なのか、5年なのかはわからないけれど、自ら向き合って答えを出さねばならないのだろう。

うん、そういうことなんだろう。

1 コメント

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Unknown (Tomoko.N)
2013-08-05 00:55:12
なんか、いろんな感情がグルグルしていて涙が止まらない…
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