「世界はどんどん閉じようとしている、果たしてそれでいいのか」というのがこの本の問いかけである。それは僕自身、現代に対して感じていた不安であり、マイケルムーアの「ボーリング・フォー・コロンバイン」を見たときの感想でもあった。我々は感情的に、あるいは対処療法的に反応してしまったが、他の選択肢もあるのではないかと。
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五十嵐太郎「過防備都市」
かなり前に、「週刊!木村剛」の中でセキュリティに対しての自己責任論]を書かれており、それに対しての反論と言うか、感想を述べた中でも漠然と感じていたことなのだが、この「過防備都市」では建築という視点から同じように現在の「セキュリティ社会」に対する警鐘がかかれている。
この本では、
1)「情報化社会の進展」によって、これまでの物理的な障壁としてのセキュリティから、それぞれの個人のセキュリティレベルに応じて(建築物といった物理的な存在においても)アクセス権限がその都度変化する「スキャナー化」が進みつつある都市
2)さりげないデザインやオブジェなどを利用して、浮浪者を排除する都市
3)自らのコミュニティ・街を自警するために監視カメラや自警団を利用する都市
4)他者を"危険な存在"として内部への侵入を排除し閉鎖する都市
というものを明らかにしていく。
もちろんそこにはそれなりの心理的な理由もあり、「安全」を確保するためには「自閉化」しなければならないということも十分にわかる。もし自分の子供が通学路で事件に巻き込まれでもしたら…それを考えれば、例えば「集団登校」「監視のために父兄が伴ったり」「監視カメラを設置したり」ということは説得力を伴うものである。
しかし「近代」という時代が目指してきたものはそういうものだったのか。
人は本来理性的であり何らかの理由がなければ「犯罪」がないものだとし、「教育」の実施と「貧困」の排除によって「犯罪」はなくなるはずだという「性善説」を信じていたのではないか。少なくとも少し前の日本は「監視」という強制力ではなく、緩やかな信頼に基づくコミュニティの作用によって「安全」な社会を実現していたのではないのか。それをただの幻想として、「不安だらけの社会」をいたずらに鼓舞し「安全」さえも資本主義の論理によって確保されるべきものとすることが正しかったのか、正直、僕には疑問に思う。
この本の中では、「自警団の設置」という他者に対する排除的な行為と「コミュニティの再生」が同一のレベルで語られていたが、本来はこれは違うものである。例えば泥棒が侵入しにくい状況とは、侵入前の調査をしている時に声をかけられる場合だという。これは何も「自警団の設置」とは違う。ちょっと近隣とのつながり、他者に対する興味を持っていれば可能となるレベルの話である。
また本題からそれるため述べられていなかったが、そもそも「土地所有制」というものも「近代」という幻想が生んだものであり、「浮浪者」を排除する理由そのものの妥当性(何故、公共の領域においてまで排除される存在なのか)は問われてはいない。
また池田小事件以来の「要塞化する学校」の動きはまさにそのとおりで、近隣に対して「開かれた学校」像では本当に安全を確保できないのかが問われないまま、「不安感」もしくは「責任放棄」のために「自閉化」の方向がとられただけではないか。「開かれた学校」方針を失ったことに対する影響を問い直す声は、マスメディアを通じても聞かれない。「安全」の確保のためには、人に対する信頼、性善説を失うことも問題ないというのだろうか。
これは日本社会の特性なのかもしれないが、1つの象徴的な出来事に対する反動として、適切な評価をできないまま全てを否定し正反対の方向へ行くということに対して、冷静な目で見る必要があるのではないだろうか。小泉改革にしろ、企業内の様々な方針変換にしろ、1つの出来事をスケープゴートにし全てを否定するのではなく、理想と現実のギャップを正しく認識し、その上で何が問題かを問い直す必要がある。
この「過防備都市」は、「セキュリティ」という切り口で現代社会がそのような過剰適応状態にあることを暴き出しているのだ。
【参考】
失われた"セキュリティ"を求めて―木村剛が述べないこと。
パーティカル・リミットなアメリカ~マイケルムーアに捧ぐ
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五十嵐太郎「過防備都市」
かなり前に、「週刊!木村剛」の中でセキュリティに対しての自己責任論]を書かれており、それに対しての反論と言うか、感想を述べた中でも漠然と感じていたことなのだが、この「過防備都市」では建築という視点から同じように現在の「セキュリティ社会」に対する警鐘がかかれている。
この本では、
1)「情報化社会の進展」によって、これまでの物理的な障壁としてのセキュリティから、それぞれの個人のセキュリティレベルに応じて(建築物といった物理的な存在においても)アクセス権限がその都度変化する「スキャナー化」が進みつつある都市
2)さりげないデザインやオブジェなどを利用して、浮浪者を排除する都市
3)自らのコミュニティ・街を自警するために監視カメラや自警団を利用する都市
4)他者を"危険な存在"として内部への侵入を排除し閉鎖する都市
というものを明らかにしていく。
もちろんそこにはそれなりの心理的な理由もあり、「安全」を確保するためには「自閉化」しなければならないということも十分にわかる。もし自分の子供が通学路で事件に巻き込まれでもしたら…それを考えれば、例えば「集団登校」「監視のために父兄が伴ったり」「監視カメラを設置したり」ということは説得力を伴うものである。
しかし「近代」という時代が目指してきたものはそういうものだったのか。
人は本来理性的であり何らかの理由がなければ「犯罪」がないものだとし、「教育」の実施と「貧困」の排除によって「犯罪」はなくなるはずだという「性善説」を信じていたのではないか。少なくとも少し前の日本は「監視」という強制力ではなく、緩やかな信頼に基づくコミュニティの作用によって「安全」な社会を実現していたのではないのか。それをただの幻想として、「不安だらけの社会」をいたずらに鼓舞し「安全」さえも資本主義の論理によって確保されるべきものとすることが正しかったのか、正直、僕には疑問に思う。
この本の中では、「自警団の設置」という他者に対する排除的な行為と「コミュニティの再生」が同一のレベルで語られていたが、本来はこれは違うものである。例えば泥棒が侵入しにくい状況とは、侵入前の調査をしている時に声をかけられる場合だという。これは何も「自警団の設置」とは違う。ちょっと近隣とのつながり、他者に対する興味を持っていれば可能となるレベルの話である。
また本題からそれるため述べられていなかったが、そもそも「土地所有制」というものも「近代」という幻想が生んだものであり、「浮浪者」を排除する理由そのものの妥当性(何故、公共の領域においてまで排除される存在なのか)は問われてはいない。
また池田小事件以来の「要塞化する学校」の動きはまさにそのとおりで、近隣に対して「開かれた学校」像では本当に安全を確保できないのかが問われないまま、「不安感」もしくは「責任放棄」のために「自閉化」の方向がとられただけではないか。「開かれた学校」方針を失ったことに対する影響を問い直す声は、マスメディアを通じても聞かれない。「安全」の確保のためには、人に対する信頼、性善説を失うことも問題ないというのだろうか。
これは日本社会の特性なのかもしれないが、1つの象徴的な出来事に対する反動として、適切な評価をできないまま全てを否定し正反対の方向へ行くということに対して、冷静な目で見る必要があるのではないだろうか。小泉改革にしろ、企業内の様々な方針変換にしろ、1つの出来事をスケープゴートにし全てを否定するのではなく、理想と現実のギャップを正しく認識し、その上で何が問題かを問い直す必要がある。
この「過防備都市」は、「セキュリティ」という切り口で現代社会がそのような過剰適応状態にあることを暴き出しているのだ。
【参考】
失われた"セキュリティ"を求めて―木村剛が述べないこと。
パーティカル・リミットなアメリカ~マイケルムーアに捧ぐ
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