ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

「リクルート」|アルパチーノの「罠」にはまってみる楽しさ

2004年11月14日 | 映画♪
想定される結論は2つしかない。しかしそれがどっちに転ぶのか――「CIA」という日本人なら映画か小説、中東での戦争報道くらいでしかなじみのない、しかし現実に存在する組織を舞台に、最初から最後まで徹底した「騙しあい」と「駆け引き」の中で、観ているこっちまでどんどん深読みし過ぎで疑心暗鬼に。アルパチーノと、コリンファレルの熱演がさえるサスペンスの秀作。

父親の死に疑問を感じていたMIT首席のジェイムズ・クレイトン(コリン・ファレル)は、CIAのベテラン教官であり、採用担当者であるウォルター・バーク(アル・パチーノ)に声をかけられる。はじめはその気がなかったクレイトンだが、父の死の謎に迫るためにCIAの工作員養成施設に参加、同じく訓練生として参加しているレイラ・ムーア(ブリジット・モイナハン)らと厳しいトレーニングと諜報術、マインドコントロールを叩き込まれていく。クレイトンとムーアとともに尾行の訓練中、突然、謎の集団に襲われ拉致されるのだが…




この映画の肝は「騙しあい」と「駆け引き」にあるわけだけれど、とにかく何が正しいのか分からなくなる。物語の展開を読もうと思えば読めるのだが、「きっとこれはこうだ」という思いと「いや、それさえも『罠』なのでは?」という思いが交錯する。全ての「物語」が予定調和となり、あらゆる展開・結末がコピーと化してしまった以上、こうした観客を「疑心暗鬼」にさせることこそ、この映画が仕掛けた「罠」であり、楽しみ方なのだろう。

その意味では、まさにハラハラドキドキできる作品だ。

日本にも「公安」という組織がありに現実に「左翼」や「オウム」などに対する諜報活動・内偵というものを行っているのだろうが、どちらかというと地味なイメージしかないのに対し、このCIAという組織はいったい何なのだろう。映画や小説といったフィクションの世界と戦争・暗殺などを含むアメリカの外交政策という「リアル」な世界との境界線が見えないだけに、この映画のようなトレーニングがどこまでフィクションなのかと考えると空恐ろしくなる。「こんなトレーニングはフィクションだろう」「いや、本当にしてるかも…」日本ではあまりにもリアリティがないだけに、かえって疑心暗鬼になってしまう。

こんなトレーニングを積んでいけば、普通なら「人間不信」「精神破綻」になるのだろうが、CIAで活躍できる連中は当たり前のようにそれを克服する。愛する人間にさえも常に疑いの目をむけ、盗聴器を仕掛ける。それがどんなに個人のプライバシーや人間性を踏みにじるようなものでも、完成された「工作員」として育て上げるためには、「暴行」を行い「愛情」を秤にかけ国家への忠誠心を選ぶようになる。

これだけのトレーニングを肯定する気はないが、バークが言っていたように「他人を信じるな」「五感を信じるな」というのは全てを否定する気にもなれない。

人は無意識に「嘘」をつくし、あるいは「悪意」ではなく「善意」ゆえに人は嘘もつく。人の認識能力というものがそもそも特定の関心のある事柄にフォーカスして認識し、そこに特定の主観が反映されることで意識の俎上に上がるのだとしたら、そもそも人がその五感を通じて世界を正しく認識することなどはじめから不可能なのだ。見たいものだけを見て、分かるようにしか分からない。同じ窓から眺めていても彼と彼女の見ている景色も違えばそこで感じていることも違うように。

結局、クレイトンはバークではなくムーアの言葉を信じるわけだが、それも単純にムーアの言葉を信じたわけではない。バークの教えどおり、ムーアを疑い、自らの五感を疑い、その上で自分自身の感じたこと、判断したことのみを信じた結果である。

「囁くのよ、私のゴーストが…」というわけではないないけれど、膨大な情報の渦の中で、結局何が正しいと感じるか、判断するかといった「センス」の妥当性こそ育てていねばならないということか。


【評価】
総合:★★★★☆
罠にはまり度:★★★★☆
役者:★★★★☆



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