ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

「救命病棟24時」に見る大切な人を失ったときの行動

2005年02月19日 | Weblog
今ひとつ詰め込み感があったり、シーン毎の脈絡に断絶を感じたりと決して前2作に比べていいできだとは思えない「救命病棟24パート3」だけれど、第6話は上手くまとまっていたと思う。何よりも「震災」という部分は背景にあるものの、それぞれの登場人物に焦点があてられたことがよかったのだろう。

進藤(江口洋介)らの治療で安定していた小島楓(松嶋菜々子)の婚約者加賀(石黒賢)の容態が急変、スタッフらの懸命の治療にも関わらず、治療に必要な医療器具PCPSが震災で故障したまま使かなかったこともあって命を落としてしまう。裕樹に遺体に付き添う楓だが、患者が来ると、何事もなかったかのように治療を続ける。自らの感情を押し殺して、医者としての役目を全うしようとする楓。だが、ある患者の初療中に作業の手順を忘れるというミスを犯してしまう…

家族や愛する人といった大事な人を失うことの大きさ。

ドラマの中で楓の友人・千秋が楓を評して「あそこまで強いとは思わなかった」という発言があるのだけれど、本当に何事もないようにできる人間などまずいないだろう。

誰かを亡くした時、ある人はその悲しみを前面に押し出し動揺し、泣き叫ぶかもしれない。またある人はそうした悲しみを心のうちに押さえ込み、涙も見せず、いつもの日常と変わらぬように行動しようとするかもしれない。しかしそれは悲しんでいないというのではない。自分の内に秘めることで、周囲の心配をさけようという心づもりであったり、悲しみを乗り越えるための手順だったりする。

ましてそれが患者を治療する「医者」としての立場であればなおさらだろう。

加賀の死に対して楓のショックは尋常ではない。医者という立場上、あるいは楓個人の心的な防衛行動として、その悲しみをいったん切り離し(考えないようとして)、あるべき行動をしようとしたのだろう。

しかしそうした行動は強い緊張感によって維持されうる。だからこそ電話越しのオルゴールの音や時間の経過に伴って、そのショックが支配的となる。初歩的な手順を忘れてしまうくらい、その衝撃は本当は大きいのだ。

普段の生活で起こる悲しみや怒り、辛さというものはある程度それを表現することで、あるいは紛らわすことで、感情の起伏を解消し、平素の感情に近づけていくことができる。しかし自分達でコントロールできないくらいのショックを受けた時、つまり今の自分ではそのショックに耐えられないとき、平素とは異なるの対処を示す。

自らの感情を切り離すというのもそうした1つの防衛本能だろう。例えば一時的な記憶喪失やヒステリー、解離性人格障害といわれるものもこうした行動と同じ働きではないだろうか。

次回予告の中で、楓が海にむかって泣くシーンがある。

何千年もの間、よせては返しつづけてきたであろう海。そこで我々いかに無力な存在であるかを知り、自分自身に正直になることができるのだろう。そして同時に知るのだ。我々の悲しみや怒りもこの海ほどに続くことはなく、やがてまた1人の人間として歩き出さねばならないことを。


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1 コメント

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コワいですよね (なっちゃん)
2005-03-01 10:56:27
前作を見てないので、

なんとも言えないのですが、

実際に大都市でこういう状況になったらコワいなーと思いながら見てます。

楓さんの強さは、

新潟の震災の方々を勇気づけられるではないかなーと

個人的に思っちゃいました。
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