いやはや押井守節炸裂の作品。新しく近所に開店したTSUTAYAに置いてあったので手に取ったが期待以上でき。混沌とした「戦後」から高度経済成長、政治の季節を経て現代に至る中で、時代を漂いあるいは抗ってきた「立喰師」たちの生き方を追ったドキュメンタリー。押井守が真剣にふざけている以上、こちらも真剣につきあわないと。
【予告編】
立喰師列伝 予告編
【あらすじ】
これは、“立喰師”と飲食店主たちの大真面目な、しかしだからこそ可笑しい対決の記録である。伝説は60年前、廃墟からの復興を期する東京の片隅に始まった。闇市の脆弱なたたずまいの立喰い蕎麦屋。まもなく店を閉めようという微妙な時間に、その男は現れた。「つきみ。…そばで。」この男こそ、後に“月見の銀二”と呼ばれる伝説の立喰師であった。銀二は、先に卵を割り入れさせると、上から出汁を注がせた。黄色い月の周りに薄い雲がかかる。「いい景色だ…」その呟きは、店主を危険な対決の荒野に呼び入れる、誘いの魔手なのであった…。(「goo 映画」より)
【レビュー】
あの決定的な敗戦とその後の混沌とした時代に登場した「立喰師」。「戦後」から高度経済成長を経て、安保闘争といった政治の季節を過ぎ、高度消費社会の現代へと至る中で、立喰師たちはどのような時代背景の中で生まれ、どのような思想をもち、どのように時代の流れと戦ってきたかを、犬飼喜一の文献を中心に追ったドキュメンタリー作品。あるいはただの「悪ふさげ」。
ここで紹介された「立喰師」は8人。
1 戦後の闇市の蕎麦屋を相手にした「月見の銀二」
2 昭和30年代に活躍した妖艶の美女「ケツネコロッケのお銀」
3 「業」を成し得ないことで存在を確立させた「哭きの犬丸」
4 政治の季節の中でそば屋「マッハ軒」において撲殺された「冷やしタヌキの政」
5 牛丼チェーン店「予知野家」を相手に戦いを挑んだ「牛丼の牛五郎」
6 ハンバーガーチェーン「ロッテリア」を相手にゲリラ戦を繰り広げる「ハンバーガーの哲」
7 ディズニーランドに固執し、自らの存在を問い続けた「フランクフルトの辰」
8 カレースタンドに現われる似非インド人「中辛のサブ」
彼らはただの「食い逃げ」ではない。その時代の象徴として、あるいはその時代に抗う存在して「立喰師」たりえたのだ。
月見の銀二は、戦後間もない闇市の蕎麦屋に現われては、蕎麦のもつ伝統的文化の本質を問いただす稀有の存在だ。そもそも蕎麦とは風景を興じながら食するものだったという。銀二は箱の中に押し込まれたような空間で、混ぜモノだらけのただのお腹に詰め込むためだけの存在としての「蕎麦」を前に、その中に「卵」を投じることで、代用の「満月の夜の風景」を作り出す。伝統的な文化の復活させる。
それは実利の追求にいそしむ店主に対し、うまい/まずい、あるいは蕎麦の商品性といった「実利」とは別の価値観、かって蕎麦を食する時にもっていた「文化性」を提示することで、その蕎麦屋の思想性に挑戦するのだ。あるいはそうした実利の世界に向かっていこうとする「戦後」という時代に抗おうとしたといってもいい。犬飼はそれを「啓蒙」と呼んだ。
ケツネコロッケのお銀は、戦後の貧しい時代を脱した日本、掛けそばではなく「キツネ」入りを頼むことができるほどに復興した日本において、追加でコロッケを頼むという行為を通じて、時代を代表する「立喰師」となった。
彼女の存在は、「キツネそば」という伝統的メンタリティと「コロッケ」という新たな時代への指向性の2つを飲み込まねばならない「戦後」の人々の、未来に対しての「不安」や内実がともなわない経済復興への「喪失感」を象徴していたのだ。
しかしそうした「戦後」なるものもやがて変容し、立喰師たちもそのあり方が変わる。
例えば「予知野家」を倒産にまで追い込んだ「牛丼の牛五郎」。それは「月見の銀二」のような思想性を感じさせる存在ではない。ただし銀二やお銀が一軒屋の店主との己の存在をかけた勝負だったことに対して、牛五郎軍団の戦った相手は予知野家○○店という「お店」でも「店長」でもない。チェーン店という「システム」そのものであり、彼らの戦いというのは、個人を消失させ統計的手法によって最適化された管理「システム」に対して、胃袋という人間の「肉体」もって挑むという戦いだ。
それは「ハンバーガーの哲」も同様であり、ベトナム戦争におけるベトコン、9.11以降のアル・カーイダのように、現在にも引き継がれるテロリズムの系譜でもある。
あるいは「フランクフルトの辰」。彼は「内向性の時代」を生き、その著作を通じて自らの実存を問いかける。世界と個人の関係について、あるいは「そこには何でもあるが、何にもない」ディズニーランドとの関係について。それはあらゆるものが商品化され、消費行動かされた時代の中で、生きるということの意味を問う作業でもあった。
しかし辰とおぼしき人物が実際にとった行動とは、立喰師としての「業」というよりは、自ら著作を売るためのただの示威行為でしかない。「文化」や「生きる」という行為そのものが、「商品化」され「消費行動化」された時代。それはすでに銀二やお銀が生きたような「戦後」が終焉したということであり、立喰師たちが抗うためのよるべとなった「ルサンチマン」そのものがスポイルされてしまったことを示している。
押井守は彼ら8人の「立喰師」たちが「戦後」から現代への変遷の中でどのように立ち振る舞ったかを、難解な言葉と知識とを饒舌に繰り出しながら語ろうとする。それは生きるための行為としては不必要でありながら、そこにあえて価値を見出し、そのこと存立基盤を確かなものにしようとする「批評」活動そのもののようでもある。つまり実に「どうだっていい」ことなのだ。
個人的には、押井守らしさが満載だし、表現方法としても面白かったし、1度は見てほしい作品。なによりもこういったエンターテイメントがあったっていいじゃないか!と思うのだ。
【レビュー】
総合:★★★☆☆
トグサと検視官ハラウェイの会話が…:★★★★★
川井憲次の音楽が笑わせます!:★★★★★
---
立喰師列伝 通常版 [DVD]
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「GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊」―押井守が問いかける「私」であることの意味 - ビールを飲みながら考えてみた…
「イノセンス」~押井守の描いた「攻殻機動隊」以降の身体のあり方 - ビールを飲みながら考えてみた…
真・女立喰師列伝 コレクターズ・BOX (初回限定生産) [DVD]
【予告編】
立喰師列伝 予告編
【あらすじ】
これは、“立喰師”と飲食店主たちの大真面目な、しかしだからこそ可笑しい対決の記録である。伝説は60年前、廃墟からの復興を期する東京の片隅に始まった。闇市の脆弱なたたずまいの立喰い蕎麦屋。まもなく店を閉めようという微妙な時間に、その男は現れた。「つきみ。…そばで。」この男こそ、後に“月見の銀二”と呼ばれる伝説の立喰師であった。銀二は、先に卵を割り入れさせると、上から出汁を注がせた。黄色い月の周りに薄い雲がかかる。「いい景色だ…」その呟きは、店主を危険な対決の荒野に呼び入れる、誘いの魔手なのであった…。(「goo 映画」より)
【レビュー】
あの決定的な敗戦とその後の混沌とした時代に登場した「立喰師」。「戦後」から高度経済成長を経て、安保闘争といった政治の季節を過ぎ、高度消費社会の現代へと至る中で、立喰師たちはどのような時代背景の中で生まれ、どのような思想をもち、どのように時代の流れと戦ってきたかを、犬飼喜一の文献を中心に追ったドキュメンタリー作品。あるいはただの「悪ふさげ」。
ここで紹介された「立喰師」は8人。
1 戦後の闇市の蕎麦屋を相手にした「月見の銀二」
2 昭和30年代に活躍した妖艶の美女「ケツネコロッケのお銀」
3 「業」を成し得ないことで存在を確立させた「哭きの犬丸」
4 政治の季節の中でそば屋「マッハ軒」において撲殺された「冷やしタヌキの政」
5 牛丼チェーン店「予知野家」を相手に戦いを挑んだ「牛丼の牛五郎」
6 ハンバーガーチェーン「ロッテリア」を相手にゲリラ戦を繰り広げる「ハンバーガーの哲」
7 ディズニーランドに固執し、自らの存在を問い続けた「フランクフルトの辰」
8 カレースタンドに現われる似非インド人「中辛のサブ」
彼らはただの「食い逃げ」ではない。その時代の象徴として、あるいはその時代に抗う存在して「立喰師」たりえたのだ。
月見の銀二は、戦後間もない闇市の蕎麦屋に現われては、蕎麦のもつ伝統的文化の本質を問いただす稀有の存在だ。そもそも蕎麦とは風景を興じながら食するものだったという。銀二は箱の中に押し込まれたような空間で、混ぜモノだらけのただのお腹に詰め込むためだけの存在としての「蕎麦」を前に、その中に「卵」を投じることで、代用の「満月の夜の風景」を作り出す。伝統的な文化の復活させる。
それは実利の追求にいそしむ店主に対し、うまい/まずい、あるいは蕎麦の商品性といった「実利」とは別の価値観、かって蕎麦を食する時にもっていた「文化性」を提示することで、その蕎麦屋の思想性に挑戦するのだ。あるいはそうした実利の世界に向かっていこうとする「戦後」という時代に抗おうとしたといってもいい。犬飼はそれを「啓蒙」と呼んだ。
ケツネコロッケのお銀は、戦後の貧しい時代を脱した日本、掛けそばではなく「キツネ」入りを頼むことができるほどに復興した日本において、追加でコロッケを頼むという行為を通じて、時代を代表する「立喰師」となった。
彼女の存在は、「キツネそば」という伝統的メンタリティと「コロッケ」という新たな時代への指向性の2つを飲み込まねばならない「戦後」の人々の、未来に対しての「不安」や内実がともなわない経済復興への「喪失感」を象徴していたのだ。
しかしそうした「戦後」なるものもやがて変容し、立喰師たちもそのあり方が変わる。
例えば「予知野家」を倒産にまで追い込んだ「牛丼の牛五郎」。それは「月見の銀二」のような思想性を感じさせる存在ではない。ただし銀二やお銀が一軒屋の店主との己の存在をかけた勝負だったことに対して、牛五郎軍団の戦った相手は予知野家○○店という「お店」でも「店長」でもない。チェーン店という「システム」そのものであり、彼らの戦いというのは、個人を消失させ統計的手法によって最適化された管理「システム」に対して、胃袋という人間の「肉体」もって挑むという戦いだ。
それは「ハンバーガーの哲」も同様であり、ベトナム戦争におけるベトコン、9.11以降のアル・カーイダのように、現在にも引き継がれるテロリズムの系譜でもある。
あるいは「フランクフルトの辰」。彼は「内向性の時代」を生き、その著作を通じて自らの実存を問いかける。世界と個人の関係について、あるいは「そこには何でもあるが、何にもない」ディズニーランドとの関係について。それはあらゆるものが商品化され、消費行動かされた時代の中で、生きるということの意味を問う作業でもあった。
しかし辰とおぼしき人物が実際にとった行動とは、立喰師としての「業」というよりは、自ら著作を売るためのただの示威行為でしかない。「文化」や「生きる」という行為そのものが、「商品化」され「消費行動化」された時代。それはすでに銀二やお銀が生きたような「戦後」が終焉したということであり、立喰師たちが抗うためのよるべとなった「ルサンチマン」そのものがスポイルされてしまったことを示している。
押井守は彼ら8人の「立喰師」たちが「戦後」から現代への変遷の中でどのように立ち振る舞ったかを、難解な言葉と知識とを饒舌に繰り出しながら語ろうとする。それは生きるための行為としては不必要でありながら、そこにあえて価値を見出し、そのこと存立基盤を確かなものにしようとする「批評」活動そのもののようでもある。つまり実に「どうだっていい」ことなのだ。
個人的には、押井守らしさが満載だし、表現方法としても面白かったし、1度は見てほしい作品。なによりもこういったエンターテイメントがあったっていいじゃないか!と思うのだ。
【レビュー】
総合:★★★☆☆
トグサと検視官ハラウェイの会話が…:★★★★★
川井憲次の音楽が笑わせます!:★★★★★
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立喰師列伝 通常版 [DVD]
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「GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊」―押井守が問いかける「私」であることの意味 - ビールを飲みながら考えてみた…
「イノセンス」~押井守の描いた「攻殻機動隊」以降の身体のあり方 - ビールを飲みながら考えてみた…
真・女立喰師列伝 コレクターズ・BOX (初回限定生産) [DVD]
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