土曜日(29日)、まいまい京都さんの「たんねる、京都の名店主!御用達つらなる本願寺門前へ~数珠屋町、仏具屋町、近代建築の傑作から戦国時代の和菓子まで~」に参加しました。京都の店主、主婦、学生、占い師、職人さん・・・などバラエティに富んだガイドさんといっしょに、京都をまいまい(京都弁:うろうろ)する「京都のまち歩き」ツアーです。こちらは、京都府の地域再生プロジェクトの主催です。ガイドは、宇佐美直秀さん、創業200有余年、表具の宇佐美松鶴堂の社長さんです。
出発までの時間を利用して、私は本願寺へ参拝。実は富山の私の実家のお寺の御本山は本願寺(お西)です。富山は浄土真宗王国で、門徒がとても多いです。亡くなったら京都の御本山へ喉仏を納めるという慣習があるので、うちのご先祖様は、みーんなココにいらっしゃるってわけです。【前ぶろぐ】実家は江戸末期ぐらいからの家系ですが、いつから納めているのかなぁ???とりあえず曾祖父ぐらいからは確実。
まいまいツアー参加、3度目のまじくん、事務局さんにかわいがってもらい、今回は旗持ちのお手伝い?も、させていただきました。(^^;)ちなみにこの日は国民文化祭京都2011が開催された日で、きもの着用はバスも市バスも無料の日、母子で、きもので出かけました~。さぁ、みなさん行きますよ~。(^m^;)
まずは、和菓子屋の亀屋陸奥(かめやむつ)さんです。山科に本願寺が建立された頃(1483年)に本願寺に仕え供物や諸事にかかわってきた歴史あるお店で、松風(まつかぜ)というお菓子が代表菓です。元亀元年(1570)に始まり11年間続いた、織田信長の石山本願寺攻め(現在の大阪城の場所)の際、兵糧としたお菓子です。おもな原料は、小麦粉、砂糖、麦芽飴、白味噌、ケシの実です。写真右下:店主さんが持っておられる見本紙サイズの大きな円形を焼いたのを長方形に切り分けるそうです。
写真左下:お土産に徳用袋(700円)を買って、自宅で食べました。温めると、よりおいしいとのことで、最近はまっている火鉢で焼いたら、とってもおいしかったです。昔の人もこんな風に火鉢で焼いて食べてたのかもしれませんね~。もちもちとした歯ごたえと自然な甘さ、ケシの実の香ばしさがクセになります。ただ、さすがに兵糧ということもありお腹いっぱいに・・・。
続いて、仏具、お数珠の山本亀太郎商店さんです。↑(写真はガイドの宇佐美さんです)山本亀太郎商店さんは元禄時代(1710年)、悉皆(しっかい)業からはじまります。悉皆とは、きもののお手入れすべての事だそうです。八代目より数珠と打敷(店内写真に写っている三角形の敷物)の専門店となります。お数珠のつくり方を目の前で見せていただきました。なお、悉皆という言葉、初めて知りました。φ(..)メモメモメモ
続いて、薫玉堂(くんぎょくどう)さんです。文禄3年(1594年)、薬種商として開業、創業者の負野(おうの)理右衛門氏が、香道に強い関心をいだき志野流香道に入門し、その後、志野流香道を代々引継ぎ、薫物商としての薫玉堂の基礎を築かれたそうです。負野(おうの)という姓は、前述の織田信長の石山本願寺攻めの際に、親鸞聖人の御影を背負って戦火を逃れたということから賜ったものだそうです。写真右下は香室です。聞香体験が行われています。私は、香道は全く経験がないですが、今週末、国民文化祭の「はじめてのお茶とお香」の親子イベントに参加予定です。【参加ご報告ぶろぐ】
続いて本願寺伝道院です。前ぶろぐの玉ねぎのような屋根の建物です。もともとは、明治45年(1912)に、真宗信徒生命保険会社の社屋として建築されたもので、設計者は、当時東京帝国大学教授であった伊東忠太氏です。「日本建築も建材に石材や鉄材を使用し、その建築様式は欧化でも和洋折衷でもなく、木造の伝統を進化させることにより生み出さなければいけない」という「建築進化論」を提唱し、この伝道院にそのすべてを体現したと言われています。参考サイト
現在、750回遠忌の特別内部拝観(1階のみ)が行われています。私たちは、1階だけでなく特別に、ガイドの宇佐美さんも、いえ、本願寺の担当の方さえ初めての、非公開の場所へ・・・撮影NG、詳細は多く語れませんが、拝観を終えて、まじくんがつぶやいた一言「あの場所、大きくなって総理大臣になったらもう一度入れるかもしれへん・・・」これで、お察しください。(^m^)
つづく・・・次のぶろぐにて
まいまい京都 http://www.maimai-kyoto.jp/
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