「だから、ああ、すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。
あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている。
さばくあなたも、同じことを行っているからである。」
ローマ 2章 1節
ローマ 1:29~31
「彼らは、あらゆる不義、悪、貪欲、悪意に満ち、ねたみ、殺意、争い、欺き、悪巧みにまみれています。
また彼らは陰口を言い、人を中傷し、神を憎み、人を侮り、高ぶり、大言壮語し、悪事を企み、
親に逆らい、浅はかで、不誠実で、情け知らずで、無慈悲です。」
このように語ると、「これは、私には当てはまらない」とみなし、
そして、「ああ、あのような人たちのことね」と他人行儀にする姿に対して、パウロは福音の真理に基づく光を当てます。
確かに、そのような人たちは、人間的には、他の人々より道徳的な生活をしているのかもしれません。
そして、このような自分自身に対する、「自分は、神の怒りを受けるような人間ではない。」とする自己評価が、
イエス・キリストが自分の罪のために十字架にかかって死なれた、そして三日目によみがえられたとする良き知らせに、耳を閉ざす理由になっています。
伝道者ビリー・グラハムは、「十字架を語ると、人々をつまずかせる。なぜなら、十字架は、あなたは罪人だ、と教えているからだ。」と言いました。
とかく人は自分に甘く、他人に厳しくなります。自分と他者とに二つの物差しを使い分けること、
これが「偽善」と呼ばれるものです。自分も同じことをしている、あるいはするだろうと自覚すれば、
心がずいぶん軽くなります。また相手を思いやる心が芽生えてきます。
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