「番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。」
ルカ 13章 8節
番人は肥やしをやってみるから、もう1年待ってくださいと言いました。さて、いちじくの木はイスラエルの民を表しています。
主人は父なる神、番人はキリストです。神はキリストを遣わされて、さまざまなしるしを彼らの前に示されました。
ここに、『見なさい。三年もの間、やって来ては、・・・・。』 とあります。
神は実がなることを期待てその木を植えられました。が。その木には葉ばかりで実がありませんでした。
この三年という数字、実はイエスの公生涯はこの時点でおおよそ三年が経過していました。
神はその一人子を通して実がなることを期待しておられました。
ここにさばきの遅延と神のあわれみと忍耐とを見ることができます。それはただ主イエスの御業の故なのですが、
それは 「 ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。
そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。 」 Ⅱペテロ 3:9 とあるとおりです。
さて、信仰生活は悔い改めから始まり、悔い改めの連続です。( ここで悔い改めと反省の違いをしっかりと確認しておく必要があります。)
しかし多くの場合、葉ばかり ( 反省 ) 茂って悔い改めの実がならないとうことです。しっかりと覚えておきたいことは、
神の審判はこの世でもあり、また永遠の裁きとしてあります。
この審判にパスするものは悔い改めて信仰の実を結ぶ者です。イエス・キリストは、私たちがこの実を結ぶことができるよう、
この世に来てくださいました。実を結ばない木について、「 その木を切り倒してしまえ 」 と命じられていますが。
主イエスは 「 今年も、そのままにしておいてください 」 と私たちのために執り成しをしてくださいました。
この 「 もう一年待ってください 」 というイエスの愛を受け入れて悔い改めるのは今です。
しかし、神の忍耐にも限度があります。「 もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」ですからこのときこそ、
私たちにとっての最後のチャンスかもしれません。しかしよく覚えていただきたいことは、神が私たちを締め出したのではなく、
私たちが自分自身を徹底的に神から締め出してしまうときが来ることを。
「 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。 」 ヨハ ネ 3:19
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