マリアヨハンナさんのブログ

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6月はイエスのみ心の月

2013年06月09日 | 信仰と祈り

? 6月はイエスのみ心の月

 イエスのみ心は全人類に対する神の愛の象徴としてイエスの心臓を表し、その信心はイエスのみ心に表される神の愛を思い起こし、その無限の愛のしるしであるみ心をたたえるものとして中世に始りました。

特に聖マルガリタ・マリア・アラコック(1647-90)がみ心の信心についての啓示を受けて17世紀にフランスで広まりました。1675年6月16日、この聖女はご聖体を前にして、イエスの愛にこたえたいという思いに駆られました。そのときイエスは、愛情に燃えているみ心を示して、人々の間に欠けている冷淡な心を嘆かれ、イエス自身の愛に倣ってその心を尊ぶことを勧められました。

またこのようなイエスの出現が数回にも及び、ご聖体の祝日(キリストの聖体)後の金曜日をみ心を礼拝する特別な祝日として定めるようにとのお告げにより、み心の信心の内容と形式が明確にされるようになりました。

そして1856年に教皇ピオ9世によってイエスのみ心の祭日がご聖体の祝日後の金曜日に全世界で祝うことが定められました。ご聖体み心の主日がおおよそ6月に祝われるというこのような歴史からして、次第に6月が「イエスのみ心の月」と自然に浸透し、制定されてきたことは十分に考えられます。

? み心の信心

 教皇ベネディクト十六世は、イエズス会のコルヴェンバッハ総長宛に、み心の信心を勧めたピオ十二世回勅『ハウリエティス・アクアス』(1956年5月15日)発布50周年を記念する書簡(2006年5月15日付。発表は5月23日)を送り、こう述べています。

「槍で刺し貫かれたイエスの脇腹(ヨハネ19・34参照)を礼拝しながら観想することにより、わたしたちは、人びとを救おうとする神のみ旨を感じることができるようになります。・・・・『槍で刺し貫かれた脇腹』の内に神の限りない救いのみ旨が輝いています。ですから、この脇腹を仰ぎ見ること(み心の信心)を、過去の礼拝ないし信心の形と考えてはなりません。刺し貫かれた心という象徴に歴史的な信心の表現を見いだした神の愛の礼拝は、神との生きた関係にとって不可欠なものであり続けます」。

 み心の信心は、教会において基礎となるものであり、キリスト教の中心といえるものでありますから、イエスのみ心の限りない愛に対して、できる限りの愛をもってこたえるというみ心の信心の目的をしっかりともちながら特にこの月を過ごしていきたいものです。

[カトリック中央協議会ホームページ:ひとくちメモ]

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 6月7日(金)は、6月の初金曜日で≪イエスのみ心≫祭日でした。

 生け花のお当番で、今年も我が家の庭の白いカシワバアジサイとピンクのアジサイを活けました。

たまたま、教会事務室がお休みなので、9日の主日もまとめて活ける事なりました。しかし、気温が高かったため、8日に活け直しにいくと、すっかり花がだめになっていました。

活け直し用にお花屋さん(所属信徒)に頼んでおいたお花が、見事な白百合とトルコキキョウ八重、白いアルストロメリア、そして、葉物等。

前日までに何とか持ったアジサイと、ホトトギスの葉、白百合、ホウチャクソウ、ワンダリング、前週のピンクのアンスリウムとトルコキキョウを合わせて、ちょっとシンプルな色ですが、み心に相応しく、清楚でありながら立派な花が活けられました。(祈り)

 6月8日(土)≪聖母のみ心≫記念日でもありました。『毎日のミサ』(カトリック中央協議会発行)を見ていて初めて気がつきました。

「この記念日は1944年にピオ十二世教皇によって定められた。神に心を開いて自らをささげた聖母マリアは、全てのキリスト信者の模範である。マリアの心が聖霊のふさわしい住まいとされたように、私達の心も聖霊の神殿となることを祈る(ミサの集会祈願)祝日である。(「毎日の読書」より)

 朝7時のミサのオルガン当番で、神父様から「み心の聖歌」が選曲されていないので変更しましょうという提案がありました。 カトリック聖歌集の♪しらべもたえに♪はいかがでしょう・・・と。 結局7時ミサで264番、9時半ミサで265番を歌いました。 どちらも小中高校でよく歌っていた曲なのでとても懐かしく嬉しかったです。

 「毎日のミサ」を見ていて、8日の最後に”『信仰年』を深めるために⑯” という記述を見つけました。というか今まで気づかなかった。(毎日読んでないと反省)

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『信仰年』を深めるために⑯

 黙想とはいかなることでしょうか。それは、主がなさったことをすべて「思い起こす」こと。主のすべての恵みを忘れないことです(詩編103・2b参照)。・・・黙想は、言葉を伴わず、自分の精神を神のみ心に触れさせます。ここでもマリアは真の意味で模範です。 ・・・かのじょは、主がいわれたこと、なさったことのすべてに心を留め、それを思い巡らしました。すなわち、さまざまなことに触れて、それを心の中で深く考えたのです。

 それゆえ、マリアは天使が告げたことを「信じ」、いと高きかたの永遠のみことばが受肉できるための道具をなったかたです。・・・こうしてマリアは、日々、日常生活の沈黙のうちに、その後も自分が目の当たりにしたさまざまな出来事を心の中に収めました。この出来事には、?という最大の試練と復活の栄光も含みます。マリアは自分の生涯、日々の務め、母としての使命を完全に全うしました。しかし、彼女はまた、神のことばとみ心、自分の身に起きたすべての出来事、音この生涯の神秘を考察するための内的な空間を自分のうちに持ち続けることもできたのです。(教皇ベネディクト十六世『イエスの祈り』より)

 


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