ここ数日、実質的自由に関する質問にお答えしていますが、
「倫理学概説」 の授業では自由の話はとっくに終え、幸福の話に移り、
功利主義などについてもお話ししたところでした。
とりわけベンサムの功利主義では、幸福や快楽を客観主義的に捉えているわけですが、
それに対する質問をいくつか頂戴しています。
Q-1.幸福と快楽についての違いを澁澤龍彦さんの本で読んだのですが、客観的共通性は幸福ではなく快楽であると思うのですが、それは間違っていますか?
Q-2.「幸福=快楽の総量-苦痛の総量」 としているが、一部には苦痛も快楽と捉えてしまう人がいると思う。その人達は普通の人よりも幸せなのだろうか。
ベンサムの場合は 「幸福=快楽の総和-苦痛の総和」 と定義し (「-」 はマイナス)、
快楽や苦痛に関しても、またそれぞれの総和とその差によって計算できる幸福に関しても、
客観的に計測可能と捉えているわけです。
それに対してQ-1の質問は、澁澤龍彦氏の所説に依拠しつつ、
快楽に関しては客観性を認め、人々が共通に感じるものとみなす一方で、
幸福はそれとは別で、質問のなかに直接は書かれていませんが、
どのような快楽に幸福を認めるかは人それぞれで、主観的相違があると考えているのでしょう。
この議論、私としてもある程度理解できないわけではありません。
快楽や苦痛が生理的なものであるとするならば、
人間が人間である以上、同じものに快を覚え、同じものに不快 (苦痛) を感じるというのは、
大いにありえそうな気がします。
美味しいものやいい香り、その他肉体的な気持ちよさは誰にとっても快楽であり、
食に適さないものは誰にとっても不味くて臭いものだし、ケガをすれば誰でも苦痛を感じるでしょう。
そう思う一方で、そうした生理的な感覚ですらすでに文化の影響を受けており、
味噌や出汁の香りは日本人がそれに慣れ親しんでいるから美味しそうに感じるのであって、
海外の人が初めて体験した場合には奇異な (不快な) 匂いと感じるのかもしれません。
同じ日本人どうしであったとしても、納豆の味や香りについては受け止め方が分かれるでしょう。
同じ酒好きであっても、ビールを美味しいと感じる人とそうではない人がいます。
このように生理的・感覚的な快・苦 (快・不快) ですら個人差があるのだとするならば、
快楽に質の差を認めたJ・S・ミルのように、精神的な快楽と肉体的な快楽とを区別する場合には、
もはや快苦は万人にとって客観的共通性をもつものとは言えなくなるでしょう。
本を読むことに無上の喜びを感じる人がいる一方で、
活字を見ても苦痛しか感じないという人がいてもいっこうにおかしくないのです。
さらに最近では、疾患のために大多数の人々とは異なる感じ方をする人が存在することも、
いろいろとわかってきました。
何らかの形での読字障害 (ディスレクシア) をもつ人はアメリカ人の2割もいるという報告もあって、
本を読んで得られる精神的快楽と、お酒を飲んで得られる感覚的快楽の両方を知っている人は必ず、
本を読んで得られる精神的快楽のほうを選ぶだろうなどと単純に決めつけることはできなさそうです。
というわけで、Q-1には次のようにお答えしておきます。
A-1.快・不快 (快楽・苦痛) には客観的共通性があるが、
幸・不幸はその受け止め方次第なので主観的個別性・多様性が認められるという説は、
快・不快と幸・不幸を区別して議論しようとするところに魅力を感じますが、
本当に快・不快が客観的に共通なのかということには疑義があり、
そう簡単に採用することは難しそうです。
続いてのQ-2の質問は1人だけじゃなくて複数の方からいただいていました。
たぶんマゾヒストの方たちのことを考えているんでしょうね。
ベンサムの言うとおり、「幸福=快楽の総和-苦痛の総和」 だとするならば、
苦痛を快楽と捉える人がいた場合、引かれるものが何もなくなってしまうのですから、
その人たちはどれほど幸せなんだろう、という疑問ですね。
そのことを考える前に、Q-2の仮定部分が本当にそうなのか確かめておく必要があるでしょう。
つまり、苦痛も快楽と捉える人がいるのかどうか、
マゾヒストと呼ばれる人たちは、苦痛を快楽と感じているのかどうか、という点です。
もしもそうだとしたら、Q-1で論じていたことにも関わってきて、
快楽や苦痛には客観的共通性はない、ということになってしまいます。
さて、どうなんでしょうか?
私はその気 (け) がないのでよくわからないのですが、
想像してみるに、鞭で打たれるなどの肉体的痛み自体は苦痛として感じているのだと思うのです。
鞭で打たれてもまったく痛くなくて、それによって直接気持ちよさを感じているのではなく、
痛みは痛みとして感じた上で、その痛みを与えられているという状況に性的快感を覚えるというか、
痛い目に会わされている自分に性的興奮を感じているのではないでしょうか。
だから、あくまでもある程度コントロールされた苦痛であるからこそそれに耐えられたり、
興奮したりできるのであって、緊急治療を要する程の裂傷を受けたり骨折にまで至ったりしたら、
それはやはり本当に痛くて苦痛なだけなんじゃないかと思うのです。
で、そこまでいかないコントロールされた苦痛に関して、
それを二次的に気持ちよく感じたり、その状況に性的興奮を覚えることができるのだと思うのです。
(実際のところいかがなんでしょうか? 知ってる方は教えていただけるとありがたいです。)
つまり、私の予想では、こうなります。
(1) マゾヒストの人たちはすべての苦痛を直接的にイコール快楽と感じているわけではない。
(2) マゾヒストの人たちはコントロールされた苦痛を二次的に快楽と捉え返しているだけである。
(3) したがってマゾヒストの人たちもただの苦痛を感じることはいくらでもある。
だとすると、Q-2に対する回答は次のようになります。
A-2.苦痛も快楽と捉えてしまう人たちというのは、
あるコントロールされた苦痛を二次的に快楽と捉え返すことができるだけで、
そう捉え返すことのできない苦痛はいろいろと感じているはずで、
したがって普通の人よりも幸せということはないのではないでしょうか。
授業のときにも取り上げた、「直接的/間接的」 とか 「一次的/二次的」 という区別を使って、
苦痛や快楽について考えてみましたが、はたしてこれで上手く行っているのかどうか。
Q-1のお答えのときは快楽に客観的共通性はないという方向で話を進めていましたが、
Q-2では直接的・一次的苦痛に関しては客観的共通性があって、
それを二次的・間接的に快楽と捉え返しているだけなのだ、という話の流れになりました。
なんだか自分でも首尾一貫していない気もしますね。
ただ、どちらも真面目に考えた上での結論で、どちらも間違っていないような気もしています。
もうちょっと時間をかけてじっくり考えてみたいと思います。
皆さんの意見もどしどしお寄せください。
「倫理学概説」 の授業では自由の話はとっくに終え、幸福の話に移り、
功利主義などについてもお話ししたところでした。
とりわけベンサムの功利主義では、幸福や快楽を客観主義的に捉えているわけですが、
それに対する質問をいくつか頂戴しています。
Q-1.幸福と快楽についての違いを澁澤龍彦さんの本で読んだのですが、客観的共通性は幸福ではなく快楽であると思うのですが、それは間違っていますか?
Q-2.「幸福=快楽の総量-苦痛の総量」 としているが、一部には苦痛も快楽と捉えてしまう人がいると思う。その人達は普通の人よりも幸せなのだろうか。
ベンサムの場合は 「幸福=快楽の総和-苦痛の総和」 と定義し (「-」 はマイナス)、
快楽や苦痛に関しても、またそれぞれの総和とその差によって計算できる幸福に関しても、
客観的に計測可能と捉えているわけです。
それに対してQ-1の質問は、澁澤龍彦氏の所説に依拠しつつ、
快楽に関しては客観性を認め、人々が共通に感じるものとみなす一方で、
幸福はそれとは別で、質問のなかに直接は書かれていませんが、
どのような快楽に幸福を認めるかは人それぞれで、主観的相違があると考えているのでしょう。
この議論、私としてもある程度理解できないわけではありません。
快楽や苦痛が生理的なものであるとするならば、
人間が人間である以上、同じものに快を覚え、同じものに不快 (苦痛) を感じるというのは、
大いにありえそうな気がします。
美味しいものやいい香り、その他肉体的な気持ちよさは誰にとっても快楽であり、
食に適さないものは誰にとっても不味くて臭いものだし、ケガをすれば誰でも苦痛を感じるでしょう。
そう思う一方で、そうした生理的な感覚ですらすでに文化の影響を受けており、
味噌や出汁の香りは日本人がそれに慣れ親しんでいるから美味しそうに感じるのであって、
海外の人が初めて体験した場合には奇異な (不快な) 匂いと感じるのかもしれません。
同じ日本人どうしであったとしても、納豆の味や香りについては受け止め方が分かれるでしょう。
同じ酒好きであっても、ビールを美味しいと感じる人とそうではない人がいます。
このように生理的・感覚的な快・苦 (快・不快) ですら個人差があるのだとするならば、
快楽に質の差を認めたJ・S・ミルのように、精神的な快楽と肉体的な快楽とを区別する場合には、
もはや快苦は万人にとって客観的共通性をもつものとは言えなくなるでしょう。
本を読むことに無上の喜びを感じる人がいる一方で、
活字を見ても苦痛しか感じないという人がいてもいっこうにおかしくないのです。
さらに最近では、疾患のために大多数の人々とは異なる感じ方をする人が存在することも、
いろいろとわかってきました。
何らかの形での読字障害 (ディスレクシア) をもつ人はアメリカ人の2割もいるという報告もあって、
本を読んで得られる精神的快楽と、お酒を飲んで得られる感覚的快楽の両方を知っている人は必ず、
本を読んで得られる精神的快楽のほうを選ぶだろうなどと単純に決めつけることはできなさそうです。
というわけで、Q-1には次のようにお答えしておきます。
A-1.快・不快 (快楽・苦痛) には客観的共通性があるが、
幸・不幸はその受け止め方次第なので主観的個別性・多様性が認められるという説は、
快・不快と幸・不幸を区別して議論しようとするところに魅力を感じますが、
本当に快・不快が客観的に共通なのかということには疑義があり、
そう簡単に採用することは難しそうです。
続いてのQ-2の質問は1人だけじゃなくて複数の方からいただいていました。
たぶんマゾヒストの方たちのことを考えているんでしょうね。
ベンサムの言うとおり、「幸福=快楽の総和-苦痛の総和」 だとするならば、
苦痛を快楽と捉える人がいた場合、引かれるものが何もなくなってしまうのですから、
その人たちはどれほど幸せなんだろう、という疑問ですね。
そのことを考える前に、Q-2の仮定部分が本当にそうなのか確かめておく必要があるでしょう。
つまり、苦痛も快楽と捉える人がいるのかどうか、
マゾヒストと呼ばれる人たちは、苦痛を快楽と感じているのかどうか、という点です。
もしもそうだとしたら、Q-1で論じていたことにも関わってきて、
快楽や苦痛には客観的共通性はない、ということになってしまいます。
さて、どうなんでしょうか?
私はその気 (け) がないのでよくわからないのですが、
想像してみるに、鞭で打たれるなどの肉体的痛み自体は苦痛として感じているのだと思うのです。
鞭で打たれてもまったく痛くなくて、それによって直接気持ちよさを感じているのではなく、
痛みは痛みとして感じた上で、その痛みを与えられているという状況に性的快感を覚えるというか、
痛い目に会わされている自分に性的興奮を感じているのではないでしょうか。
だから、あくまでもある程度コントロールされた苦痛であるからこそそれに耐えられたり、
興奮したりできるのであって、緊急治療を要する程の裂傷を受けたり骨折にまで至ったりしたら、
それはやはり本当に痛くて苦痛なだけなんじゃないかと思うのです。
で、そこまでいかないコントロールされた苦痛に関して、
それを二次的に気持ちよく感じたり、その状況に性的興奮を覚えることができるのだと思うのです。
(実際のところいかがなんでしょうか? 知ってる方は教えていただけるとありがたいです。)
つまり、私の予想では、こうなります。
(1) マゾヒストの人たちはすべての苦痛を直接的にイコール快楽と感じているわけではない。
(2) マゾヒストの人たちはコントロールされた苦痛を二次的に快楽と捉え返しているだけである。
(3) したがってマゾヒストの人たちもただの苦痛を感じることはいくらでもある。
だとすると、Q-2に対する回答は次のようになります。
A-2.苦痛も快楽と捉えてしまう人たちというのは、
あるコントロールされた苦痛を二次的に快楽と捉え返すことができるだけで、
そう捉え返すことのできない苦痛はいろいろと感じているはずで、
したがって普通の人よりも幸せということはないのではないでしょうか。
授業のときにも取り上げた、「直接的/間接的」 とか 「一次的/二次的」 という区別を使って、
苦痛や快楽について考えてみましたが、はたしてこれで上手く行っているのかどうか。
Q-1のお答えのときは快楽に客観的共通性はないという方向で話を進めていましたが、
Q-2では直接的・一次的苦痛に関しては客観的共通性があって、
それを二次的・間接的に快楽と捉え返しているだけなのだ、という話の流れになりました。
なんだか自分でも首尾一貫していない気もしますね。
ただ、どちらも真面目に考えた上での結論で、どちらも間違っていないような気もしています。
もうちょっと時間をかけてじっくり考えてみたいと思います。
皆さんの意見もどしどしお寄せください。