まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

生存権と Right to Life

2009-08-16 17:44:29 | 生老病死の倫理学
先日、「生存権」 概念がいい加減に使われているという話をしました。
そのさい、生存権の原語は何なんだろうという疑問を呈しましたが、
その後、それに関する情報はまだ届いておりません。
引き続き情報提供をお願い申し上げます。

ただし、おそらくあのウィキペディアの誤解の元はここだろうという推測はつきました。
いくつかの和英辞典を引いてみると、
生存権の英訳として Right to Life とか Right to live がヒットする場合があります。
たぶんそこに誤解の元があるのでしょう。
ウィキペディアの英語バージョンで Right to Life の項目を見てみると、
日本語バージョンに載っていた内容 (生存権の説明としては間違っている内容) が、
ほとんどそのまま書かれているのがわかります。
その内容は Right to Life の説明としては正しい説明ですので、
要するに問題は Right to Life と生存権がイコールなのかどうかということでしょう。
結論としてはその両者はまったく別物なわけで、
私の推測では、社会科学や法学に関してまったくド素人の英語学者が、
和英辞典や英和辞典に、「生存権」 の英訳として"Right to Life"を、
"Right to Life" の和訳として「生存権」を載せてしまったために、
このアホな誤解が広まってしまったのではないかと思っています。

ちなみに Right to live はまた別の意味ももっているようで、
正しくは Right to live or die で 「生殺与奪の権」 という意味があるようです。
つまり、生かすも殺すもオレ次第だ、という恐ろしい意味の言葉で、
これはむしろ 「権利」 というよりも 「権力」であり、
英語には Power to live or die という同義語(?)もあるようです。
たぶんこのほうが 「生殺与奪の権」 という意味を正しく表していると思われます。
日本語の 「権」 は 「権利」 を表す場合と 「権力」 を表す場合がありますが、
これはけっこう倫理学的にも法学的にも重要な問題ですので、
また別の機会に論ずることにしましょう。

それにしてもあいかわらずわからないのは、
社会福祉権を意味する 「生存権」 という日本語は、
いつなぜ使われ始めるようになったのかということです。
それに対応する原語はあったのかなかったのか、
なんで社会福祉権のことを生存権なんて名づけてしまったのか、
誰がその言葉を使い始めたのか、
謎は深まるばかりです。

平和の定言命法と平和実現のための仮言命法

2009-08-15 12:00:00 | グローバル・エシックス
今日は終戦記念日だったので、
故・加藤国彦先生の論集から勉強会の報告文を引用させていただきます。
私が以前に書いた論文「平和の定言命法と平和実現のための仮言命法」を
勉強会(公民科学習の研究会)で発表したあと、
その報告文を加藤先生がまとめてくださいました。
今日の日にふさわしい素晴らしい文章だと思います。
加藤先生、本当にありがとうございました。


第20回勉強会の若干の報告
レポーター 小野原 雅夫 氏(福島大学人間発達文化学類)
テーマ   「平和の定言命法と平和実現のための仮言命法」

 福島大学の小野原雅夫氏がカント倫理学を専門としているのは周知の通りだが、今回の問題提起は、氏も所属するカント学会で一度発表されたものに基づいている。
 「いかなる戦争もあるべからず」というこの無条件的な禁止命令を、十年以上も前に、小野原氏は「平和の定言命法」と名づけた。この名づけは、カント倫理学の世界のなかでは初めてのことらしい。むろん、定言命法というタームはカント特有のもので、「…すべし」と命ずる無条件の絶対的命令をいい、普遍妥当性をもつ道徳法則の形式である。これを法哲学のレベルで用いることは、学問の世界では当初認めがたかったようである。
 高校の現場では、たとえば《「正直であるべし」が定言命法で、「もし信用を失いたくなければ正直であるべし」が仮言命法である》などと教えることが多い。それゆえ次のような問題が派生する。《カントは「嘘も方便」などと結果に左右されるような半端なことは許さない。いついかなるときでもだれに対しても「嘘をついてはならない」のである。相手が末期ガンで死ぬとわかっていても、きみはガンだと正直に答えなければならない。義務への尊敬の念にもとづいて、なすべきがゆえになす。それがカントの道徳法則である。ゆえに、動機説に立つカントの倫理学は厳粛主義といわれる。》だいたいこのように説明すると、生徒はついていけなくなる(ついてこなくなる)。そもそもそんなカントに対し、当時からも、詩人シラーは「残念ながらぼくは好きで友人に尽くす、だからぼくは有徳ではないと思い悩む」と嘲笑的に揶揄している。カントの道徳論は同時代人からも変だと思われていたのである。それゆえ私は、そんなリゴリズムのカントを教えてどうするのかという疑問をいつの頃からか抱えていた。カントの真意を、そんな卑近な通俗モラルで捉えることはどこか間違っているのではないか、もっと違う方法でカント倫理学をつかまえるべきではないか、少なくとも生徒に伝えるカント像はもっとヴィヴィドであるべきで、それには別のアプローチがあるのではないかと模索していた。以前、そんな趣旨でトンチンカンな論文も書いたことがある。(小野原さんと連名だったためで、小野原さんは迷惑だったことと思う。)
 しかし、今回の勉強会で学んだことは、ここにこそ迫りやすい方法があったのではないかということである。「いかなる戦争もあるべからず」=「平和の定言命法」である。カントの道徳法則は、「汝の意志の格率が、つねに同時に普遍的な法則として妥当しうるように行為せよ」という定式で示されるが、これを個人間のみならず、国家間にも適用できるというのがカントの永遠平和論である。相手国が気に入らないから戦争する、ダメである。相手国が従わないから戦争する、ダメである。相手国が攻めてくるだろうから戦争する、ダメである。(もしそれを認めたら、攻めてくるという理由で先制攻撃も可能であるし、また実際そうしてきたからである。)では、相手国が現実に攻めてきたらどうする?――さすがに戦争するしかないじゃないか。抵抗もせずやられっぱなしというわけにはいかない。応戦する以外にないだろう。よって自衛戦争までは否定できない。――だとしたら「いかなる戦争もあるべからず」は普遍法則として妥当しないのではないか?
 カントの主張は間違っているのではないか? 私は、それは論点をはずした議論と考える。カントが言うのは、いかなる戦争も「仕掛ける」ことを禁ずるのであって、仕掛けられた戦争にどう対応するかという話ではない。戦争は確かに相互行為であるが、問題なのはそういう結果に至るような原因の種(侵略、暴力的干渉、脅迫など)を主体的に蒔いたりすることを禁じているということである。「いかなる戦争もあるべからず」とは、そういう意味で定言命法化しているのではないだろうか。国家意志としていかなる戦争もしないというのは、国家意志として戦争を仕掛けるような行為を一切しないということで、これが全ての国家間に妥当する普遍的な道徳法則であるということである。ここに例外を認めないということである。(違うでしょうか、小野原さん。)それゆえに、カントの平和論は定言命法として成立するのである。これだと、嘘をついてはならないなどというケーススタディよりも、力強く明快に理解できるような気がする。
 そういう意味で、日本国憲法第九条の位置づけは、小野原さんの指摘の通り、カントの「平和の定言命法」を国家意志としてまさに成文化し、体現したものにほかならない。しかし今回のテーマは、それとリンクして「平和実現のための仮言命法」を考察するところに力点がある。なぜなら、《お題目のように、「いかなる戦争もあるべからず」といつまでも唱え続けていても消極的平和(たんに戦争がない状態)すら実現できないだろうし、ここは一歩足を踏み出して、積極的平和を構築するための具体的手段=「平和実現のための仮言命法」を提示していく必要がある》からである。むろん、平和実現のために武力行使や戦争をしたのではカント倫理学に反する。平和は平和的な手段で達成する以外にない。目的は手段を正当化しないのである。では、具体的にどうしたら目的実現に資する許容可能な手段があるかということである。
 これはなかなか難しい問題であるが、私の考えではそのことは第二項で明記されていると思っている。すなわち、日本国憲法第九条は、第一項で「定言命法」(戦争放棄)を述べ、第二項で、「平和実現のための仮言命法」(それを実現するべく戦力不保持と交戦権の否認)を規定していると考えられる。ここには、非暴力不服従の必要条件が整っているだけでなく、いかなる戦争も仕掛けることを不可能にしている十分条件が備わっているように思える。国家意志として崇高な目的を達成するのに、崇高な手段で実行すると発信している点で、日本国憲法はまさにカントの永遠平和論を文字通り血肉化している。これを一国平和主義と騙るのは早計であって、国際平和を醸成するモデルを示していると理解すべきである。それゆえ、昨今論じられている九条改正の与党案では、第一項をそのままにして、第二項で国際貢献上、「戦力」の存在を明記するとなっているが、それはカントの定言的禁止を逸脱するものではないだろうか。改正論者は、軍隊も持たずして、ならず者国家や国際テロリストとどう応戦するのだ、丸裸で国民を守れると思うのか、世界の現実は常にパワー・ポリティクスだ、主権国家として自衛軍を保持するのは当然の権利ではないか……などと主張する。それに対しては、むしろそう主張すればするほど、永遠平和=カントから遠のいていくと答えたい。日本という国家が、一世紀以上戦争しない歴史をもったなら、一世紀以上、他国の人々を一人として殺さないでいたとしたなら、どれほど国家としての価値を高め、信頼を厚くすることか、はかりしれない。いや、ぼやぼやしていたら、その前に我が国民が攻め殺されてしまうという想像力は、半世紀以上生きても私には湧いてこない。貧困なる精神と言われればそれまでである。そんなことを思いめぐらした二時間半だった。


文中で「違うでしょうか、小野原さん。」と問いかけられていましたね。
その問いに直接お答えしていなかったかもしれません。
私自身は加藤さんが解するようにカントの「平和の定言命法」を解していませんでしたが、
加藤さんのような解釈は十分に成り立ちうると思いますし、
むしろ多くのカント研究者は、私の解釈よりも加藤解釈を選ぶでしょうね。
「読者は著者以上に理解する」というのはこういうことかもしれません。
良い読者を失ったことを今さらながらに思い知らされます。
最後の一段落は私の論文を離れて、加藤さんの平和論を語ってくださいましたが、
私も加藤さんの平和論に全面的に同意しております。
今後、日本がどういう選択をしていくのか、いつまでも見守っていてください。

ブランドへの敬意

2009-08-14 12:21:25 | お仕事のオキテ
ブランドは一朝一夕にできあがるものではありません。
だからこそブランドは大事にしなければいけません。
自分たちでブランドを守っていく努力が必要なのはもちろんですが、
社会の側にもブランドに対する敬意と、ブランドを保護していくシステムがなくてはなりません。

その意味で、中国の経済成長は著しいものがありますが、
中国経済には今ひとつ信用しきれないものが残ります。
それは独自のブランドを生みだそうとしていないのではないか、ということです。
すでに開発されているブランド品とほとんど違わないものを、
安い人件費にまかせて安価に作って大量に販売して儲けるというやり方では、
真の意味での経済成長は望めません。
他国のキャラクターを無断で使用している遊園地のことが取り上げられたりしていますが、
この記事にもあるように、コピーライト(著作権)概念が
きちんと定着していないというところに最大の問題があると思います。
著作権や登録商標が尊重されないところでは、
独自の商品を開発する気になるわけがありません。
そして独自のブランドが築き上げられないかぎり、
国内市場のみか、せいぜいブラックマーケット相手にしか仕事をすることができず、
グローバルな市場で成功を収めることは不可能でしょう。

日本経済だって当初は、違法コピー商品ではないものの、
欧米諸国が開発したものを少し改良して安く販売して儲けているといって批判されたものでした。
これから経済成長していこうという場合それはしかたのないことだと思いますが、
それでも、やはり自分たちで何らかの改良を加えていこうとした努力は、
いずれ独自ブランドを作り出していく土壌を準備していたのだと思います。
私も中国関連の投資信託を買って、
中国経済には期待しているし応援もしているところなので、
ぜひ中国発の世界的ブランドがたくさん出てきてほしいと思います。


小確幸、再び

2009-08-13 22:30:28 | 幸せの倫理学
食器洗いのスポンジをまた新しいのに替えました。
またまた幸せになれました。

前の記事を探してみたら、前回新しいのに替えたのはほんの1ヶ月半前のようです。
今回のスポンジは妙に短命で、すぐにダメになってしまったなという感じです。
やはり夏場だからでしょうか。
よく飲むから洗い物も多くて使用頻度が高く、
気温と湿度のせいで雑菌も繁殖しやすいんでしょう。
すでに数週間前から、穴が開くわ、ヘニャッとなるわ、
「精神衛生上悪いわ、とっとと替えてやる」と思っていたのですが、
たまたま買い置きがなく、
電車通勤していると、通勤途上に台所用品を売っているような店もなく、
そしてその手の店が開いているような時間に帰ってくることもできず、
という毎日を送っていたので、
不幸な気分を引きずったまま、ずっと過ごしていたのです。
昨日やっとクルマでスーパーまで買い物に行き、
喜々としてスポンジを4つも買い漁りました(これで半年くらいは幸せに過ごせる)。

どうです、この元気さかげん!
そして色つや!
同じコープマートで買った、まったく同じスポンジとはとても思えないでしょう
ふふふ、これからまたしばらく毎日食器を洗うたんびに幸せになれるな。

教訓 「転ばぬ先のスポンジ」
小さいけど確かな幸せをもたらしてくれる物があるなら、
なくなったりダメになったりしてしまう前にバーンとたくさん買い置きしておきましょう


悪法も法なのか?

2009-08-12 17:47:03 | 教育のエチカ
本日は教員免許更新講習をやってまいりました。
私は今日1日だけの担当ですが、初めてのことなのでたいへん疲れました。
教員免許更新制度というのはひどい制度で、
やらされる先生方も、担当する大学も困り切っているわけですが、
私自身も聞きに来られる方々も「やりたくないなあ」と思っているものをやるというのは、
本当に難しくて、何をやろうかギリギリまで悩んでいました。

そこで考えたのが表題のテーマです。
ソクラテスの言葉(?)として有名な「悪法も法なり」をめぐって、
悪い法にも黙って従わなければならないのか、、
それとも私たちには抵抗権があるのか、といったことを、
免許更新制という制度を具体例として挙げながら考えてもらうことにしました。
これは大成功で、皆さんまさに「我が事」として真剣に考えてくださいました。

私のプロットとしては、
ソクラテスが死刑判決を受け、逃げようと思えば逃げられたにもかかわらず、
死刑を甘んじて受けた話を導入としつつ、
しかし「悪法も法なり」はそれでも、ある法を悪い法である、
と判断していることに注目してもらい、
ある法を悪い法である、と判断できるのは誰なのか、
何を基準に法の善し悪しを判断できるのか、
といったことに考えを進めてもらいました。
その上で、悪い法にも従わなければならないのか、
というクローズド・クエスチョン(Yes・Noでしか答えられない問い)ではなく、
悪い法に対してはどのような対処法があるだろうか、
というオープン・クエスチョンに問いを転換することによって、
革命を起こしたりテロリズムに訴えるという究極の違法行為から、
熱烈な支持者となって法を遵守する究極の遵法行為までの幅広いレンジの中で、
私たちには様々な選択肢(オプション)があることを、
グループ・ディスカッションでアイディアを出し合ってもらいました。

最終的に免許更新制という悪法に
私たちはどう立ち向かったらいいかを考えてもらうわけですが、
免許更新制そのものをネタにすることによって免許更新講習を行う、
という私の試みはなかなか好評のうちに受け容れてもらえたようでした。
来年度以降もこの調子で免許更新講習を乗り切れそうだなと若干の自信がつきましたが、
選挙の行方次第では、この免許更新制度そのものがなくなるかもしれません。
悪法が正されるというのはそれ自体喜ばしいことですが、
一所懸命授業案をつくった私と、
それを高いお金を払って受けさせられた一期生は「やり損」というか、
何だか割り切れない思いが残ります。
時の政権が人気取りのために思いつきであれやこれや新制度をつくり、
それに現場が振り回された挙げ句、政権交代に伴ってそれが廃止されるなんていう、
そんな二大政党制はそれこそが悪法だなあと感じた今日一日でした。

言われると意識しちゃう

2009-08-11 12:16:49 | ドライブ人生論
東北はもう梅雨は明けないままなのでしょうか。
昨日も大雨で、ワイパーを最強にしても前がよく見えないくらいでした。
それで思い出してしまったのですが、
その昔、学生たちといっしょに安比までスキーに行ったことがあります。
何台かのクルマに分乗し、私も運転手となり数名の学生を乗せていくことになりました。
あいにくの天気で行きは猛吹雪となり、
やはりワイパー最強にして、高速道路を徐行運転していました。
すると、同乗者のうちのひとりは運転免許をもっていない女の子だったのですが、
彼女がこんなことを聞いてきました。

「先生、ワイパー見てたら目が回ったり、眠くなっちゃったりしませんか?
 私はなんだか気持悪くなってきちゃいました。」

これにはやられました。
本人が意識していないことを言語化することによって気づかせてあげるというのは、
コーチングの高等テクニックなのですが、
これはまったく同じ手法をネガティブに使った例ですね。
意識しなくていいことを、わざわざ指摘することによって意識させてしまい、
調子を狂わせるという恐ろしいワザです。
それまでワイパーの動きなんてまったく見ていないし、意識もしていなくて、
窓の向こう側の路面状況に集中できていたのに、
そんなふうに言われると、ワイパーが気になって気になってしかたありません。
雪道から注意がそれ、しだいに気持も悪くなってきてしまいました。

ゴルフでは、一緒にラウンドしている調子いい選手をつぶすために、
こんなことを言ったりするそうです。
「今日はすごくいいスイングだね。
 グリップの強さだけど、右手と左手、何対何の割合で握ってるの?」
こんなことを聞かれると、そのことを意識してしまい、
それまで自然とできていたことがぎこちなくなってしまった挙げ句に、
調子を崩してしまったりするんだそうです。

身の回りにもこういうよけいな一言を言ってくる人っていませんか?
ゴルフの例みたいに悪意をもってわざと言うのではないんでしょうが、
なんでそんなことをと思うようなことをわざわざ言って、
人の意識を攪乱してしまうような人です。
先ほどのワイパーの例のように、初心者とか素人の発言ってけっこう恐ろしいです。
的を外しているんだけど、言われるとなぜか気になっちゃうようなことを、
さらっと言ってきたりします。
そういう人にペースを掻き乱されないようにしたいものです。

『加藤国彦集成』

2009-08-10 17:24:15 | 教育のエチカ
先日、加藤国彦先生のことを書きました。
その中で、彼の論集を作成中と書きましたが、みごと完成いたしました。
全367ページ。
ものすごいぶ厚さです。
ハードカバーでもないのにこうしてテーブルに立てることが可能です。
中は二段組みにして、活字をびっしり詰め込んだんですが、
それでもこれだけのページ数になってしまいました。
卒論以外はすべて彼が教員になってから書いたものです。
大学院で研修していたときの修論も含まれていますが、
それにしても作っている私たちもこれだけの大部になるとは思っていませんでした。
これでも、泣く泣く収録をあきらめた原稿がまだけっこう残されているのです。
彼も本当に書くことが好きだったんですね。

収められているのは以下のような論考です。
・公民科の授業開発のための研究ノート。
・上記のなかでも特に新しいカント学習に関する論文。
・脳死臓器移植に関する論考。
・バタイユなど現代思想に関わる論考。
・文芸部の機関誌に寄せた原稿。
・公民学習研究会の報告文。
・卒論以来のテーマである寺山修司論、などなど。

学校教員、特に高校公民科の先生方や、
それを目指している人たちにはぜひご覧いただきたいです。
学校の先生というのは常に常に研究を怠ってはならないのだということを、
実感することができるでしょう。
私のところに残部が10冊程度あります。
実費(1500円~2000円)でお分けすることも可能ですので、
必要な方はご連絡ください。

Games of Perceptions

2009-08-09 12:10:12 | グローバル・エシックス
今日は長崎原爆の日ですね。
先日、別のカテゴリーで「受け止め方のゲーム」という話を書いたんですが、
広島原爆の日の8月6日にこんなこと↓があったそうです。

田母神氏が「核武装」主張=原爆の日、ドーム近くで-広島(時事通信) - goo ニュース

思想の自由が認められているのですから、
どんな政治的意見をもっていてもいいと思うし、
ましてや国防に関して唯一の正解がどこかにあるわけではないので、
日本の核武装だって考慮すべき選択肢のうちのひとつであることは認めますが、
実際に国防の中枢にいた人が、
本気でこんなことを言っているということに空恐ろしさを感じます。

この人にはぜひとも若かりし頃の中嶋嶺雄先生の講義を聞かせてあげたいものです。
(最近の中嶋先生はひょっとすると意気投合しちゃうのではないかと心配ですが)
国際関係は Games of Perceptions なのですから、
日本が核武装すれば、近隣諸国はそれに対して当然、
それを彼らなりに重大事として受け止め、
なんらかの対抗手段を取ろうとするはずです。
そもそも日本がなんらかの根拠に基づいて核武装が必要であると主張するならば、
その根拠は日本の近隣諸国にも妥当するわけですから、
彼らは日本からのお墨付きを得て、核武装が可能となるわけです。
北朝鮮が現在、核兵器を保有しているかどうかよくわかりませんが、
日本が核武装するということは北朝鮮が核武装することを許可したも同然です。
日本だけ核武装して、他の国には核武装させないという理屈は通らないでしょう。

実は現在の核不拡散条約というのは、それと同じ構造的矛盾を抱えているわけですが、
オバマ大統領はまさにそこを何とか改善していこうと宣言したわけです。
せっかくそういう国際的な流れができつつあるというときに、
日本が核武装することによって日本は自らを護ることができるのでしょうか。
国防のプロだった人が、
国を護ることのリアリティをまったく感じさせない発言をしてしまえるというところに、
日本の危うさを感じます。
政治とか国防って何手先までも読み合って、
Games of Perceptions を制していく営みでなくてはならないと思います。
失言を繰り返す政治家や、信念に凝り固まったミリタリアンに、
はたしてこの国を護ることができるのかとても心配です。

教育におけるパターナリズム

2009-08-08 12:11:04 | 教育のエチカ
教師という仕事につきものの危険性(その3)は、
過剰なパターナリズム、歪んだパターナリズムです。
しかしその話をする前にパターナリズムとは何かを説明しておかなければなりません。
パターナリズムとは、
「専門家が素人の利益を考慮して、素人が何をするべきかを決めてあげること」です。
「父権主義」とか「温情主義」と訳されたりしますが、
ラテン語の父親 pater という言葉が語源で、親が子どものためを思って
子どもの行動に口出しすることをイメージしてもらえればいいと思います。
したがって親子関係はまさにパターナリズムの関係になるわけですが、
それ以外でも、経験や知識の差があるところ(つまり専門家と素人との関係)では、
パターナリズムが生じやすくなります。
医療者と患者、政治家(国家)と国民など。
そして、教師と生徒の間でももちろんパターナリズムの関係ができあがります。

パターナリズムのすべてが悪いというわけではありません。
強いパターナリズムと弱いパターナリズムという分け方があるようで、
ウィキペディアから引用すると、
「強い(硬い hard )パターナリズムは、個人に十分な判断能力、
 自己決定能力があっても介入・干渉がおこなわれる場合をいう。
 他方、弱い(柔らかい soft )パターナリズムは、個人に十分な判断能力、
 自己決定能力がなくて介入・干渉がおこなわれる場合をいう。」
ということだそうです。
一般的に言って、大人への干渉を行う強いパターナリズムは問題視されることが多く、
逆に十分に成長していない子どもへの干渉を行う弱いパターナリズムは
必要不可欠なものとみなされることが多いようです。
とはいえ、強いパターナリズムも場合によっては必要とされることがあり、
シートベルト着用義務や麻薬・覚醒剤使用禁止義務などは強いパターナリズムですが、
一般に支持されています。
教師と生徒の間のパターナリズムは弱いパターナリズムですので、
そこで干渉や介入が行われることは当然のことと受け止められています。
というよりも教育というのがそもそもパターナリスティックな営みであると言えるでしょう。

しかし、ではだからといって教育におけるパターナリズムがすべて許されるのでしょうか。
子どもにだって自由や権利はあります。
朝から晩まですべての行動に規制をかけられ、自由を抑圧されたら、
健全に育っていくことができないでしょう。
教育の目的は、自分で判断し自己決定できるような大人へと育成していくことです。
ですから、自分で判断したり決定することを許さずにパターナリズムで押し通していたら、
教育目的はいつまでも果たされないわけです。
したがって、子どもの成長に合わせて、
少しずつパターナリズムの度合いを下げていく必要があります。
大学生になってもまだ学生の私生活を校則で縛ったり、
進路を教授が決めてあげたりしているようでは、
教育は失敗だったと言わざるをえないでしょう。

弱いパターナリズムはたしかに必要とされる場合もあるのですが、
しかしそれは基本的に自由の抑圧なわけですから、
パターナリズムを行使する場合には常に細心の注意を払い、
パターナリズムが過剰になってしまわないよう気をつけなくてはなりません。
ましてや、パターナリズムは歪んでしまう場合が往々にしてありますので、
教師の側はそのことを自覚した上で、自らを律していく必要があります。
その点に関しては「教職につきものの危険性(その3)」として論じることにしましょう。

ブランドの失墜

2009-08-07 19:34:40 | お仕事のオキテ
一昨日ブランドの話をしたばかりですが、
今日になってとんでもないニュースが飛び込んできましたね。
「酒井法子容疑者に逮捕状」
まだ本人は失踪(逃走?)中ですし、
なにも事実は明らかになっていないので即断は禁物ですが、
もしも容疑が事実であるとするならば、
「酒井法子」ブランドが失墜することは確実でしょう。

同様の事件で押尾学容疑者も逮捕されています。
こちらも本人は部分否認していて、真相はまだ何もわからないのですが、
もしも報道されているような疑惑が事実だとするならば、
人ひとりが亡くなっているわけですし、
彼がやったかもしれないことのほうがはるかに悪質だと言えるでしょう。
だとしても、今回「押尾学」ブランドが蒙るであろうダメージよりも、
「酒井法子」ブランドが蒙るダメージのほうがはるかに甚大となるはずです。
それは、ブランド=信頼の大きさがまったく異なるからであり、
しかも、清純派という方向で(「マンモスうれピー」)ブランドが築かれてきたからです。

今回の事件で、私たちが彼ら2人から学ぶべきことは何でしょうか。
それは、仕事以外のプライベートな時間においてもブランドづくりは継続しているのであり、
したがってその覚悟で自分の生活を律していかなくてはならない、ということ、
そして、どんな理由があろうとも薬物に手を出してはならない、ということでしょう。
時には憂さを晴らしたくなることもあるかもしれませんが、そういうときは、
酒を飲んで裸になって大声を張り上げる、といった程度にとどめておきましょう。
それくらいならブランド=信頼の回復は比較的容易ですが、
薬物に手を出した場合、ブランド=信頼の回復はきわめて困難になりますし、
しかも、薬物から完全に脱却することはとても難しいので、
信頼が回復された頃に、また同じ過ちを繰り返してしまうということになってしまうのです。

近ごろは大学生の間でも薬物使用が広がっているようです。
友だちとかから「このクスリは合法だから」って勧められたとしても、
けっして手を出してはいけません(「ダメ。ゼッタイ。」)。
もしもそんな話を耳にしたら、その友だち本人のためにも、
必ず大学か、私か、しかるべきところに情報を教えてください。
繰り返しますが、薬物にほんの一度手を出しただけで、
あなたが長年築き上げてきた信頼はいっぺんに崩壊してしまうのです。
そんなバカなことはけっしてしないようにしましょう
最後に、のりピーの無事と、1日も早いブランドの回復をお祈り申し上げます。

MFT(その3)・和なし

2009-08-06 16:07:40 | 飲んで幸せ・食べて幸せ
久しぶりの My Favorite Things です。
今日、今シーズン初めて、なし(梨)を食べてしまいました。
私、なし が大好きなんです。
あの味、あの歯ざわり、あのみずみずしさ。
果物の王者です。
他の追随を許さないと言っていいでしょう。
イチゴもけっこう頑張ってるとは思うけど、
なしには遠く及びません。

西洋梨なんて論外です。
和なしでなくてはなりません。
フルーツ王国福島はラ・フランスも売りにしているようだけど、
西洋梨は味が和なしに似てる分、
あの歯ごたえが気色悪いです(ゴメンよ、ラ・フランス)。

和なしにも様々な品種がありますが、
そこにはあまりこだわりはありません。
子どもの頃は二十世紀(色の薄いやつ)しかなかったように覚えていますが、
今の主流は幸水(茶色がけっこう濃いやつ)みたいですね。

それにしてもまだ梅雨も明けていないというのに、
そして桃もこれからだというのに、
もうなしが売ってるなんて、なんて幸せなんでしょう
昨シーズンは年が明けてからもけっこう長い間まだ新高(デカイやつ)とか売ってたから、
これから半年間くらいはなしを食べ続けられるのかもしれません。
夢のような日々です。
しばらくは朝食にカップラーメンを食べるのはやめて、
なしでさわやかに目覚めることにしよう!
出勤前になしを食べてから出かけられるなんて、ゴッツ幸せだあ
お仕事がんばるぞぉ

ブランドづくり

2009-08-05 12:02:25 | お仕事のオキテ
仕事をしていくうえで大事なのは、ブランドを作り上げることである。
ブランドとは何か?
ブランドとは信頼のことである。

信頼を築くにはものすごく長い時間がかかる。
日々のたゆまぬ努力とこだわり。
それを見る眼のある人に見出してもらう幸運。
それが口コミでだんだんと広がっていき一般に定着するまでの時間。
そうやってやっと信頼されるブランドが確立する。

しかし、信頼は一瞬にして失われる。
ほんのちょっとの慢心。
目先の利益。
不誠実な対応。
ここ数年、巨大ブランドがあっという間に凋落していく様を、
私たちは何度も目にしてきた。
失われて初めてわかる。
ブランドを築き上げるのがどれほど大変で時間がかかるかということを。

バブル以来、日本ではブランドが叩き売りされている。
子どもでもブランド品をもつことができる。
金さえ払えば子どもでももつことができてしまうブランドに、
ブランドの価値はあるだろうか。
そうやってブランドが軽く扱われれば、
それを作っている側も自社のブランドを軽く扱うようになってしまう。
こうしてブランド=信頼は崩壊していく。

経済の再生のためには、ブランド=信頼を再生する以外にないだろう。
実はこれは経済だけでなく、政治にも、教育にも、
そしてすべての人間関係にも当てはまることである。
丁寧な仕事をひとつひとつ積み上げていくことによって、
長く愛され尊敬されるブランドを築き上げていかなくてはならない。

Q.哲学をやろうと思ったきっきけは何ですか?(その3)

2009-08-04 15:33:37 | 哲学・倫理学ファック
「イマジン」で思考に目覚め、「倫・社」の教科書で哲学に目覚めた私ですが、
それでもまだ哲学を自分でやっていこうと思うには、もうワンステップが必要です。
それは何かというと、書くことに目覚める必要があったのです。

私の大好きな座右の銘があります。
「書き留めなければ、何も起こらなかったも同じこと」
これはトム・クランシーの『日米開戦』の中に出てくるセリフなんですが、
私が前々から思っていたことを端的に表した表現として、
最近よく学生たちにもこのことばを紹介するようにしています。
人間は時々刻々いろんなことを考えているわけですが、
例えば夜中とかに布団の中でものすごくいいことを考えついたとしても、
そのまま寝てしまったときに、
朝になったらもう何も思い出せなかったということはありませんか?
私はそういうことがしょっちゅうあるのです。
電車の中でボーッといろいろ考えていて、
中にはけっこうナイスなアイディアがあったりしても、
目的駅に到着したときには忘れてしまっているとか。
そういうことを避けるためにも、いつでも書き留められるようにしておく必要があるのです。

私は書き留めることを高校生の頃から始めました。
「イマジン」で思考に目覚めて以来、いろいろなことを考えるようになったのですが、
頭の中で考えていることってどんどん消え去っていってしまうので、
これは何とかしなければと思ったのです。
そこで書き留める用のノートを作り、日々そこに書き付けていくようにしました。
これを始めてみると、実は「考える」→「考えたことを書き留める」で終わりではなくて、
→「書きながら考えがまとまってくる」→「書くことによって考えが発展していく」
→「書いたことをもう一度読み直してまた考える」→「深まった考えを書き留める」→…
というように無限にループしていくことがわかりました。
つまり 「書くこと=考えること」 なわけです。

そんなふうに書きながら考えることが習慣化した頃に、
『ロッキング・オン』 という雑誌に出会いました。
渋谷陽一というロック評論家が始めた、読者投稿を主体とした伝説の雑誌です。
当初は毎号熱心に読みふける一読者でしたが、
渋谷氏や、当時の代表的なライターの一人であった岩谷宏氏の文章などに触発されて、
自分でも見よう見まねでロック評論を書いてみるようになりました。
ちょうど高3の頃だったでしょうか。
受験勉強してるフリをしながら、深夜になんか一生懸命書いていた覚えがあります。
そして、どこにそんな勇気があったのか、それを投稿してみたんですね。
そうしたらその処女作がなぜか採用されて『ロッキング・オン』に掲載されてしまいました。
その後も2本くらい投稿して掲載してもらいました。
渋谷陽一氏から連絡をもらって六本木の事務所に会いに行ったこともありました。

とにかくこの頃には書くことが好きになっていたのは間違いありません。
高1の頃から軽音楽部に入って、ドラムをやったりボーカルをやったりしていましたが、
すでにロックンローラーとしての自分の才能には限界を感じていましたので、
別の表現手段を求めていたときに、『ロッキング・オン』という媒体で、
「書く」 ことに目覚めることができたのはラッキーだったと思います。
その後けっきょく、ロック評論という世界にも限界を感じて、
『ロッキング・オン』からは離れてしまうことになりましたが、
「考えて書く」 ことが自分の自己表現手段として最適であるという発見は、
その後の私の一生の宝物となりました。
というわけで、(その3)の答えはこうなります。

A.『ロッキング・オン』という雑誌に投稿して、書くという表現手段に目覚めたからです。

私が初めて哲学関係で書いたのは、
大学の卒業論文 『カント研究 ―「学」と「信仰」―』 です。
友だちはみんな卒論書くのに苦しんでいましたが、私は書くのが楽しくて、
夏休み明けにはほぼ完成させていました。
今は卒論指導とかしていても、手取り足取り指導して、
誤字脱字のチェックも全部してあげなければなりませんが、
私はゼミで2回発表しただけで(卒論生が20人いたので発表は1人1~2回のみ)、
特に先生から指導をしてもらうこともなく、
途中段階の草稿を先生に提出して赤を入れてもらうなんていうことも一切なく、
自分で勝手に書き上げていました。
これはやはり、今どきの大学生が書けなくなってしまっているということではなく、
すでに書くことに目覚めていた当時の私が普通とは違っていたということなのでしょう。
とにかく哲学を自分でやっていくためには、
書くことに目覚めているというのは必須だったと思います。
書くことが好きでないとこの商売はやっていけないのです。

第2の自然を求めて

2009-08-03 17:39:40 | ダンス・ダンス・ダンス
文化とは、自然本能が壊れてしまった人間が、
環境の中で生き残っていくために自ら作り上げた本能の代替物です。
文化は人間にとって、生得的に生まれもっているものではなく、
ひとつひとつ学び取っていくべきものです。
その学習の過程ではひじょうに不自然な感じがするものですが、
習得して慣れてくると、あたかも生まれつき持っていたかのように、
自分にとって自然なものになってきます。
ルソーはそれを「第2の自然」と呼びました。

先日、兼島ダンシングの話をしましたが、
(その後調べてみたらやはり兼島さんはプロの現役ダンサーだったようです)
社交ダンスというのも人間の特異な文化のひとつですね。
以前に、全東北学生競技ダンス連盟会長として、
ダンスの難しさを新入部員のために説明した文章がありましたので、
転載しておきます。
ここに書いたことは社交ダンスばかりでなく、
人間の文化のほとんどに当てはまることだろうと思います。


         不自然な美を求めて  
                          全東北学生競技ダンス連盟会長
                           小野原雅夫(福島大学准教授)

 新入生の皆さん、社交ダンス部に入部していただきありがとうございました。そして早くも公式戦デビューですね。おめでとうございます。おそらく皆さんは社交ダンス初心者だろうと思います。高校までにこのスポーツをやったことのある人はほとんどいないと思いますので、社交ダンスの難しさを少しだけ説明しておきましょう。
 何と言ってもこのスポーツの難しさは、自然に反した姿勢や動きをしなければならないというところにあります。普通、人間は両腕を横に上げようとすると、それに伴って肩も上がってしまうようにできています。しかしそれでは美しいホールドラインは作れません。外から美しく見えるためには、首の根元からヒジまでが一直線になるように肩をグッと落とし込んで、首が長くみえるようにしなければなりません。このラインは人間にとって決して自然なものではありません。
 また人間は動くときには前屈みになり、前進するときは頭が前になり、後退するときはお尻から下がろうとしてしまうものです。人間と言ったって元はと言えば動物ですから、四足だった頃の名残があるのでしょう。たいていのスポーツはこの自然な姿勢を活かしながら運動するようにできています。しかし社交ダンスはまったく異なります。真っ直ぐ立った美しい姿勢のまま前進後退しなければなりません。感覚的には前進のときは頭を残して胸から、逆に後退のときは後頭部から下がるという感じです。これは口で言うほど簡単なことではありません。しかし、これができるようにならないといつまでたってもダンスにはならず、腰の引けた柔道の組み手のようになってしまうのです。
 先輩たちはいとも簡単に、美しい姿勢やスムーズな動きを自然に作り出しているように見えるかもしれませんが、それはものすごい時間をかけて訓練してやっと手に入れたものなのです。しかし、初めて自転車に乗る練習をしたとき、バランスを取りながら右左とペダルをこぐ運動がとても不自然に感じて何度も転んだことと思いますが、一度できるようになってしまうと、特に意識しなくとも自然と自転車を運転できてしまうのと同じように、社交ダンスのポイズやムーブメントも一度手に入れてしまえば、あとは生まれたときからやれていたかのように、自分にとって自然なものとなり、それにさらに磨きをかけていけるようになるのです。そうなった頃にはもうあなたはどっぷり社交ダンスにハマっていることでしょう。そのためには練習あるのみです。人一倍練習して、いちはやく不自然な姿勢や動きをマスターしてください。皆さんのダンサーとしてのご活躍を心から期待しています。

なんでそこに入ってくるかなあ?

2009-08-02 12:38:00 | ドライブ人生論
私は高速道路では時速100㎞&車間距離100mを保つのが好みです。
100mというのはけっこうな長い距離です。
高速道路ではそれくらい車間距離を取ることが奨励されていますが、
実際にこれを守っている人はそれほど多くはありません。
私の場合は、別に教習所でそう教わったからとか、
警察がそれを推奨しているからといった理由ではなく、
それくらい車間距離を取ったほうが安全だし、
しかもロングドライブの場合に疲れずにすむということを自分なりに考え自分で納得し、
自分でそうしたいからそうしているわけです。
ペースカーの話ときにも書きましたが、
私好みのスピードを一定に保って走ってくれるクルマを見つけて、
そのあとを適度な間隔を空けてついていくようにすると、
快適なドライブを楽しむことができるのです。

しかし車間距離を100mも取っていると、
それが車間距離だと認識されないのがタマに瑕です。
せっかくペースカーを見つけて気分よく走っているのに、
その間にどんどん他のクルマが割り込んできてしまうのです。
まあ、そうやって入ってきたクルマはほんのちょっとそこにいたあと、
すぐにまた出ていってくれますので大して実害はありません。
私を追い抜くということは100kmより速く走りたいんでしょうが、
私の前のクルマも時速100kmで走っているので、
私たちの間にわざわざ割り込んでもそこは彼の安住の地ではないのです。

ところが時々頭にくるドライバーがいます。
しばらく私のクルマの後ろをついてきていて、
私のペースに痺れを切らしたのか追い越していくのはいいのですが、
なぜか私のクルマを追い抜いただけで、
すぐに私たちの間に割り込んできて、そこに居ついてしまうのです。
彼は何がしたかったのでしょうか?
私のペースよりも速く走りたかったのではないのでしょうか?
私の走りを観察していたくせに、
私が100km&100mで走行していたということに気づかなかったのでしょうか?
私も前のクルマも同じ時速100kmで走っているのがわからなかったのでしょうか?
あるいは、わかっていた上でただ1台前に出たかったのでしょうか?

こういうドライバーは本当に頭に来ます。
こんな子どもにクルマの運転はしてほしくないですし、
少なくとも高速道路になんて乗ってほしくないです。
おそらく、ふだんの生活でもまわりをぜんぜん見ていないのでしょう。
人の言動をきちんと観察して、
その意味を汲み取るなんていうことをしたことはないのでしょう。
何も考えずに自分のやりたいことをやりたいようにやって、
そのたびにまわりがあたふたしたり、フォローしてくれたりしているのでしょう。
そして本人はそのことにまったく気づいていないのでしょう。
大事故を起こさないうちに、ちょっとは大人になってくれるといいのですが…。