先日、ミルクソープという気色悪い話のついでに紹介することになってしまいましたが、
渡部純先生が新しくブログを始められたことをお伝えしました。
渡部先生のブログのタイトルは 「VITA ACTIVA」 で、
これは彼が好きなハンナ・アーレントの言葉から取られたものです。
それがどういう意味かは、彼のブログの最初の記事をご覧ください。
ブログ全体が 「VITA ACTIVA」 にちなんで、
「活動」、「仕事」、「労働」 の3つのカテゴリーから構成されており、
行き当たりばったりにカテゴリーを増やしていっている私のブログとは異なり、
むちゃくちゃオシャレです。
しかしながら彼は私のことを 「ブログの師匠」 と呼んでくれており、
師匠としては少しは師匠らしいこともせねばと、
ちょっとした技術的なアドバイスなどをしてあげましたが、
彼は文章の途中に画像をはさみこむなど私が使ったことのない手段も駆使しているので、
もはや勝敗は明白です。
こちらの読者を全部取られてしまうのではないかと今から戦々恐々としています。
それはさておき、私もアーレントには少なからぬ因縁があって、
前々からどう扱ったらいいか悩んでいる相手です。
ものすごーく惹かれる部分と、ものすごーく反発を感じる部分が同居している思想家で、
捉えどころがないなあというのが正直な感想です。
その昔、「社会思想入門Ⅱ」 という授業のなかで、
アーレントについて1回だけ語ったことがあります。
そのときのレジュメを今日は掲載してしまいます。
実はこの内容は、公民学習研究会で発表して渡部先生にも聞いてもらったことがあるのですが、
専門家の前で拙い発表などしてしまい忸怩たる思いが残っています。
いろんな意味で弟子に遅れを取ってしまっておりますが、
そういう師匠もいていいのではないかなあと思います。
(私の師匠も以前そんなようなことを書いておられました。)
というわけで、恥も外聞もなく拙論を引用させていただくことにいたします。
アーレント「政治という公的活動の場の再構築」
小野原雅夫
Ⅰ.「国家なき人間」―全体主義の時代のユダヤ人女性
ハンナ・アーレント(Hannah Arendt 1906-75)は、20世紀初頭のドイツにおいてユダヤ人女性として生を受けました。幼い頃のアーレントはユダヤ人であることをほとんど意識せずに成長することができましたが、20世紀の歴史は彼女を否応なく波乱の人生へと呑みこんでいくことになります。1933年、反ナチ活動に従事して逮捕拘留されたアーレントは、その直後、フランスへと亡命しました。このときからほぼ20年近くのあいだ、アーレントは「国家なき人間」として生きていくことになります。こうした経験は彼女に「政治的思考」を深めさせていくことになります。
アーレントの出世作でありかつ代表作でもある『全体主義の起源』は、彼女がアメリカの市民権をやっと獲得した1951年に出版されました(そして、この書以降、アーレントは自著をすべて母語であるドイツ語ではなく、英語で執筆しています)。『全体主義の起源』は、反ユダヤ主義の起源とその20世紀的展開について詳しく分析しており、とりわけ20世紀という時代が、亡命者や難民といった、国民国家から締め出され、まったく法的庇護を与えられない「見捨てられた人々」を大量に生み出していく悲劇を描き出しました。アーレントは、人権という理念が彼らを護るのに何の役にも立たないということを鋭く批判します。彼らは人権よりも根本的な権利、「諸権利を持つ権利」を奪われてしまっているのです。アーレントの人権批判は、「法の保証を失って生国から放り出され、国籍喪失という非人間的状態に委ねられた場合の、われわれの基本的恐怖を、いやというほど知り尽くした」(ヤスパース『哲学的自伝』)当事者本人から発せられているからこそ、現代においても耳を傾ける必要があると言えるでしょう。そして、アーレントにとって、国家に属すること、政治に参加することは人間の根本的条件に関わる重要な要件となるのです。
Ⅱ.アーレントの政治観―複数性、共和主義、「社会問題」批判
アーレントは人間の条件として生命、世界性、複数性(=多元性)の3つを挙げています。そしてそれぞれに対応して、労働 labor、仕事 work、活動 action という3つの営みがある、と論じています。このうち最初の2つは人と物との関係であり、特に労働は人間のみならず、生命を持つものすべてが生命維持のために携わる低次の営みです。これに対して、活動だけが純粋に人と人との関係であり、したがって最も重要な営みであるとされています。活動とは、相互に異なりそれぞれ唯一の存在であるような複数の人間たちが、語り speech を通して互いの唯一性 uniqueness を示し合うような共同的相互行為です。アーレントにとって、政治とはまさにこのような意味での活動にほかなりません。
このアーレントの政治観には、大きく言って2つの含意があります。まず、政治とは人間にとってたんなる手段としての価値しか持たないようなものではない、ということです。アーレントが考える政治は、近代社会契約説が言うような諸個人の利害を調整する手段でもなければ、ウェーバーの言うような支配のための道具でもありません。政治(ポリティクス)とは人間が人間であるための条件であって、それ自体が目的そのものであるような公共的な活動です。そして国家(ポリス)とはそのような活動の場にほかならないのです。したがって政治参加を奪われた者、国家を奪われた者は、まさに人間の基本的条件を奪われたことになるのです。アーレントによれば、公的領域は人間にとって必要不可欠な場です。アーレントは「政治の存在理由は自由であり、自由が経験される場は活動である」(『過去と未来の間』)と述べていますが、彼女の言う自由は、私的領域さえ侵犯されなければ自由でありうるといった近代自由主義の言う自由とは根本的に異なります。自ら公的世界に積極的に関与していくことこそが、アーレントの言う自由なのです。市民にそのような公共性、共同性を要求する彼女の政治思想は「共和主義 republicanism」、ないしは現代の言葉で言うなら「ラディカル・デモクラシー」と呼ぶことができるでしょう。
第2に、アーレントは政治という活動の場に労働の問題を持ち込むことに反対します。アーレントによれば、近代とはまさに労働(すなわち生存維持のための行為)が公共性のあり方を規定するようになってしまった不幸な時代です。これを言い換えて、「社会問題」が政治を規定するようになってしまった時代、とも言っています。これは、政治が本来関わるべきではない私的領域の問題への対処に追われるようになってしまったということであり、それによって政治は自由な意見の交換の場としての本来的機能を失い、生命の必然(必要)によって一義的に決定が下されるような場へと貶められてしまっている、というのです。その最たる形がマルクシズム、社会主義にほかなりません。アーレントはソ連型の社会主義(スターリニズム)を、ナチズムと同様「全体主義」―イデオロギー支配と組織的テロルの統合―であるとして断罪しましたが、それと同時に、そもそも労働に定位したマルクスの思想は(ロックやスミスの思想も然り)、政治の本来のあり方を誤らせてしまうものなのです。
Ⅲ.ユダヤ人女性であることを超えて
アーレントの思想が、彼女がユダヤ人であることによって蒙った政治的経験に基づいて形成されてきたことは確かですが、彼女の思考はユダヤ人であることによって規定されてしまっていたわけではありません。むしろ彼女の思想はユダヤ人の中できわめてユニークであったと言うことができます。1961年、アーレントは、ユダヤ人絶滅計画の実行に重要な役割を果たした元ナチ親衛隊アドルフ・アイヒマンの裁判をイスラエルで傍聴しました。その記事は雑誌に連載され、それを書物にまとめたものが『イェルサレムのアイヒマン』です。この書には「悪の陳腐さについての報告」という副題がつけられています。あらゆる罪状を否認して無罪を主張する被告に対して、法廷中が、イスラエル中が、そして世界中のユダヤ人が怒りを募らせている中、アーレントはただ1人この裁判を冷静に見守っていました。そして、彼はけっして残虐かつ狂信的な人種差別主義者であったわけではなく、ただ法や命令に忠実なだけの平凡な一官吏にすぎなかったこと、彼がもたらした甚大な悪の原因は、自分で何も考えていないということ、ただそれだけであるという事実を見抜きました。さらにこの書の中で、ナチの絶滅計画に協力したユダヤ人が存在していたことをも取り上げたアーレントは、これ以後ユダヤ人社会から激しい非難を受けることになりますが、彼女は自らの立場から一歩たりとも撤退することはありませんでした。
アーレントはそもそもイスラエル建国以前から、「アラブ人とユダヤ人の協力という思想は、これまで一度も、全くといってよいほど実現されなかったし、今日ではかつてないほど実現困難に見えるが、理想主義的な夢物語ではなく、穏当な言明である。つまりそれは、それなしではユダヤ人のパレスチナでの試みがすべて灰燼に帰すという事実を述べたものである」と語り、パレスチナにおけるユダヤ人とアラブ人の共存を唱えていました。アーレントはユダヤ人であるからといってユダヤ人問題に対する目を曇らせてしまうことなく、現代にもそのまま当てはまるような洞察に、すでに1940年代前半の段階で達していたのです。彼女の言う共同性や公共性が、たんに同じ民族や仲間たちで群れ集い同じ価値観で団結することにあるわけではない、ということは明らかでしょう。
さらに言えばアーレントは、自らが女性であることにも囚われず、当時勃興しつつあったフェミニズムの思潮から一線を画していました。彼女に言わせれば、女性であることは私的領域の問題にすぎないのです。そのようなアーレントの考えはフェミニズムから批判を受けることになりましたが、それに対しても彼女は超然と構えていました。私的な問題を離れて公共性の世界へと参与していくという共和主義の理想は、貴族主義的で近寄りがたい感じも抱かせますが、本来、自由とか政治というものはそのような孤高の勇気と高貴さに溢れたものであるべきではないでしょうか。
渡部純先生が新しくブログを始められたことをお伝えしました。
渡部先生のブログのタイトルは 「VITA ACTIVA」 で、
これは彼が好きなハンナ・アーレントの言葉から取られたものです。
それがどういう意味かは、彼のブログの最初の記事をご覧ください。
ブログ全体が 「VITA ACTIVA」 にちなんで、
「活動」、「仕事」、「労働」 の3つのカテゴリーから構成されており、
行き当たりばったりにカテゴリーを増やしていっている私のブログとは異なり、
むちゃくちゃオシャレです。
しかしながら彼は私のことを 「ブログの師匠」 と呼んでくれており、
師匠としては少しは師匠らしいこともせねばと、
ちょっとした技術的なアドバイスなどをしてあげましたが、
彼は文章の途中に画像をはさみこむなど私が使ったことのない手段も駆使しているので、
もはや勝敗は明白です。
こちらの読者を全部取られてしまうのではないかと今から戦々恐々としています。
それはさておき、私もアーレントには少なからぬ因縁があって、
前々からどう扱ったらいいか悩んでいる相手です。
ものすごーく惹かれる部分と、ものすごーく反発を感じる部分が同居している思想家で、
捉えどころがないなあというのが正直な感想です。
その昔、「社会思想入門Ⅱ」 という授業のなかで、
アーレントについて1回だけ語ったことがあります。
そのときのレジュメを今日は掲載してしまいます。
実はこの内容は、公民学習研究会で発表して渡部先生にも聞いてもらったことがあるのですが、
専門家の前で拙い発表などしてしまい忸怩たる思いが残っています。
いろんな意味で弟子に遅れを取ってしまっておりますが、
そういう師匠もいていいのではないかなあと思います。
(私の師匠も以前そんなようなことを書いておられました。)
というわけで、恥も外聞もなく拙論を引用させていただくことにいたします。
アーレント「政治という公的活動の場の再構築」
小野原雅夫
Ⅰ.「国家なき人間」―全体主義の時代のユダヤ人女性
ハンナ・アーレント(Hannah Arendt 1906-75)は、20世紀初頭のドイツにおいてユダヤ人女性として生を受けました。幼い頃のアーレントはユダヤ人であることをほとんど意識せずに成長することができましたが、20世紀の歴史は彼女を否応なく波乱の人生へと呑みこんでいくことになります。1933年、反ナチ活動に従事して逮捕拘留されたアーレントは、その直後、フランスへと亡命しました。このときからほぼ20年近くのあいだ、アーレントは「国家なき人間」として生きていくことになります。こうした経験は彼女に「政治的思考」を深めさせていくことになります。
アーレントの出世作でありかつ代表作でもある『全体主義の起源』は、彼女がアメリカの市民権をやっと獲得した1951年に出版されました(そして、この書以降、アーレントは自著をすべて母語であるドイツ語ではなく、英語で執筆しています)。『全体主義の起源』は、反ユダヤ主義の起源とその20世紀的展開について詳しく分析しており、とりわけ20世紀という時代が、亡命者や難民といった、国民国家から締め出され、まったく法的庇護を与えられない「見捨てられた人々」を大量に生み出していく悲劇を描き出しました。アーレントは、人権という理念が彼らを護るのに何の役にも立たないということを鋭く批判します。彼らは人権よりも根本的な権利、「諸権利を持つ権利」を奪われてしまっているのです。アーレントの人権批判は、「法の保証を失って生国から放り出され、国籍喪失という非人間的状態に委ねられた場合の、われわれの基本的恐怖を、いやというほど知り尽くした」(ヤスパース『哲学的自伝』)当事者本人から発せられているからこそ、現代においても耳を傾ける必要があると言えるでしょう。そして、アーレントにとって、国家に属すること、政治に参加することは人間の根本的条件に関わる重要な要件となるのです。
Ⅱ.アーレントの政治観―複数性、共和主義、「社会問題」批判
アーレントは人間の条件として生命、世界性、複数性(=多元性)の3つを挙げています。そしてそれぞれに対応して、労働 labor、仕事 work、活動 action という3つの営みがある、と論じています。このうち最初の2つは人と物との関係であり、特に労働は人間のみならず、生命を持つものすべてが生命維持のために携わる低次の営みです。これに対して、活動だけが純粋に人と人との関係であり、したがって最も重要な営みであるとされています。活動とは、相互に異なりそれぞれ唯一の存在であるような複数の人間たちが、語り speech を通して互いの唯一性 uniqueness を示し合うような共同的相互行為です。アーレントにとって、政治とはまさにこのような意味での活動にほかなりません。
このアーレントの政治観には、大きく言って2つの含意があります。まず、政治とは人間にとってたんなる手段としての価値しか持たないようなものではない、ということです。アーレントが考える政治は、近代社会契約説が言うような諸個人の利害を調整する手段でもなければ、ウェーバーの言うような支配のための道具でもありません。政治(ポリティクス)とは人間が人間であるための条件であって、それ自体が目的そのものであるような公共的な活動です。そして国家(ポリス)とはそのような活動の場にほかならないのです。したがって政治参加を奪われた者、国家を奪われた者は、まさに人間の基本的条件を奪われたことになるのです。アーレントによれば、公的領域は人間にとって必要不可欠な場です。アーレントは「政治の存在理由は自由であり、自由が経験される場は活動である」(『過去と未来の間』)と述べていますが、彼女の言う自由は、私的領域さえ侵犯されなければ自由でありうるといった近代自由主義の言う自由とは根本的に異なります。自ら公的世界に積極的に関与していくことこそが、アーレントの言う自由なのです。市民にそのような公共性、共同性を要求する彼女の政治思想は「共和主義 republicanism」、ないしは現代の言葉で言うなら「ラディカル・デモクラシー」と呼ぶことができるでしょう。
第2に、アーレントは政治という活動の場に労働の問題を持ち込むことに反対します。アーレントによれば、近代とはまさに労働(すなわち生存維持のための行為)が公共性のあり方を規定するようになってしまった不幸な時代です。これを言い換えて、「社会問題」が政治を規定するようになってしまった時代、とも言っています。これは、政治が本来関わるべきではない私的領域の問題への対処に追われるようになってしまったということであり、それによって政治は自由な意見の交換の場としての本来的機能を失い、生命の必然(必要)によって一義的に決定が下されるような場へと貶められてしまっている、というのです。その最たる形がマルクシズム、社会主義にほかなりません。アーレントはソ連型の社会主義(スターリニズム)を、ナチズムと同様「全体主義」―イデオロギー支配と組織的テロルの統合―であるとして断罪しましたが、それと同時に、そもそも労働に定位したマルクスの思想は(ロックやスミスの思想も然り)、政治の本来のあり方を誤らせてしまうものなのです。
Ⅲ.ユダヤ人女性であることを超えて
アーレントの思想が、彼女がユダヤ人であることによって蒙った政治的経験に基づいて形成されてきたことは確かですが、彼女の思考はユダヤ人であることによって規定されてしまっていたわけではありません。むしろ彼女の思想はユダヤ人の中できわめてユニークであったと言うことができます。1961年、アーレントは、ユダヤ人絶滅計画の実行に重要な役割を果たした元ナチ親衛隊アドルフ・アイヒマンの裁判をイスラエルで傍聴しました。その記事は雑誌に連載され、それを書物にまとめたものが『イェルサレムのアイヒマン』です。この書には「悪の陳腐さについての報告」という副題がつけられています。あらゆる罪状を否認して無罪を主張する被告に対して、法廷中が、イスラエル中が、そして世界中のユダヤ人が怒りを募らせている中、アーレントはただ1人この裁判を冷静に見守っていました。そして、彼はけっして残虐かつ狂信的な人種差別主義者であったわけではなく、ただ法や命令に忠実なだけの平凡な一官吏にすぎなかったこと、彼がもたらした甚大な悪の原因は、自分で何も考えていないということ、ただそれだけであるという事実を見抜きました。さらにこの書の中で、ナチの絶滅計画に協力したユダヤ人が存在していたことをも取り上げたアーレントは、これ以後ユダヤ人社会から激しい非難を受けることになりますが、彼女は自らの立場から一歩たりとも撤退することはありませんでした。
アーレントはそもそもイスラエル建国以前から、「アラブ人とユダヤ人の協力という思想は、これまで一度も、全くといってよいほど実現されなかったし、今日ではかつてないほど実現困難に見えるが、理想主義的な夢物語ではなく、穏当な言明である。つまりそれは、それなしではユダヤ人のパレスチナでの試みがすべて灰燼に帰すという事実を述べたものである」と語り、パレスチナにおけるユダヤ人とアラブ人の共存を唱えていました。アーレントはユダヤ人であるからといってユダヤ人問題に対する目を曇らせてしまうことなく、現代にもそのまま当てはまるような洞察に、すでに1940年代前半の段階で達していたのです。彼女の言う共同性や公共性が、たんに同じ民族や仲間たちで群れ集い同じ価値観で団結することにあるわけではない、ということは明らかでしょう。
さらに言えばアーレントは、自らが女性であることにも囚われず、当時勃興しつつあったフェミニズムの思潮から一線を画していました。彼女に言わせれば、女性であることは私的領域の問題にすぎないのです。そのようなアーレントの考えはフェミニズムから批判を受けることになりましたが、それに対しても彼女は超然と構えていました。私的な問題を離れて公共性の世界へと参与していくという共和主義の理想は、貴族主義的で近寄りがたい感じも抱かせますが、本来、自由とか政治というものはそのような孤高の勇気と高貴さに溢れたものであるべきではないでしょうか。