まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

戦争を全肯定するグループディスカッション

2013-11-14 09:55:26 | 教育のエチカ
先週の 「戦争と平和の倫理学」 では、まず戦争に対する倫理学の3つの立場を紹介しました。

1.戦争を全肯定する立場            ex.戦争賛美論
2.戦争を部分肯定/部分否定する立場   ex.正戦論
3.戦争を全否定する立場            ex.絶対平和主義

いずれも、ロゴス (言葉=理性) を用い、論拠にもとづいて、
戦争を肯定したり、否定したりする営みです。
倫理学の歴史のなかでは2の立場に立つ思想家が圧倒的に多いですが、
1や3の立場の人も少ないながら、まったく存在しないわけではありません。
で、先週の授業ではまずはこのうちの1の立場、戦争を全肯定する戦争賛美論について、
その論拠は何だと思うか、みんなに予想してもらいました。
これは相当難しいお題です。
2の部分肯定の立場に立ってみて、どういう条件を満たしていたら正しい戦争と言えるだろうか、
ぐらいだったらまあ誰でもある程度は予想を立てることができます。
しかし、現代日本に生きる大学生にとって (いや彼らよりも歳を取っていればよけいに)、
戦争を全肯定する論拠を考えつくというのは至難の業となることでしょう。

私の授業の常として、ひとりで考えるのが難しい問題であればあるほど、
グループディスカッションをやってもらうことになります。
教室を見渡してざっと計算し、70人前後の出席者を16のグループに分けることにし、
端から順番に1~16の数字を言っていってもらい、4~5人のグループに分かれてもらいました。
この授業の最初にやったグループディスカッションでは、
近くに座っている者どうしでグループを組んでもらいましたが、
そうすると友だちとか知り合いばかりのグループになってしまいます。
はじめのうちはそういうグループ編成のほうが話しやすくていいのですが、
この授業がめざしているのは、友だちどうしとはまったく異なる、
名前も知らない初対面の人間とも意見交換ができるコミュニケーション能力の育成ですから、
じょじょにグループ作りの方法も変えていかなくてはなりません。
今回はグループとして意見をまとめたり合意を形成したりという課題ではなく、
できるだけたくさんアイディアを出せばいいというお題でしたので、
初めて知らない人との話し合いに挑ませるにはうってつけの題材だったのではないでしょうか。
(受講者の皆さん、私は実はこんなことまで考えているのだよ!)

まずは個人でワークシートに、「戦争を全肯定する論拠にはどのようなものがあると思いますか。
思いつく限りたくさん挙げてください」 に答えてもらったあとグループディスカッションの開始です。
グループディスカッションに入る前にこんな話をしておきました。
「今回は知らない人とグループを作ってもらいました。
 仲のよい友だちといくらおしゃべりができてもそれはコミュニケーション能力とは言いません。
 一般社会で求められているコミュニケーション能力とは、
 仲のよくない人、知らない人ともきちんと意見を交わせる力のことです。
 多くの人は知らない人と話すのは苦手だしイヤだろうと思います。
 今の段階ではそれが当たり前だし、それでもかまいません。
 しかし、卒業して社会に出るまでには、
 知らない人とも話せるコミュニケーション能力を身につけなければなりません。
 そのためには今から少しずつ自分にちょっとだけ負荷をかけ、
 まだできないことが少しでもできるようになるよう努力してみてください。
 積極的に意見を言ったり、みんなの意見をまとめたり、話せない人に話を振ってあげたり、
 何らかの形でグループの議論に貢献できるよう意識してやってみてください。」
ここまで釘を刺した上でグループディスカッションに入ってもらい、
最後にワークシートで、自分が議論に貢献できたかどうかを振り返ってもらいました。

結果から言うと半数以上の人はうまく貢献できなかったと振り返るのですが、
現段階ではそれで全然かまいません。
少しずつ慣れていってくれればいいのですし、
今回はできなかったけれど次回にはと思ってもらえれば御の字です。
それに、この授業だけでコミュニケーション能力が身につくなどと、
自分の授業に対して甘い幻想を抱いているわけでもありません。
それでも逆に言うと、半数近くの人は話し合いに貢献することができたと答えてくれており、
特に3年生になると、去年からの私の授業でもう慣れてきていますから、
率先してファシリテーター役を務めてくれたりしているようです。
ディスカッションに関わる感想をいくつか拾ってみましょう。

「グループディスカッションでは、あまり発言することができなかった。最初に考えた意見だけ述べて、あとは周りの方の話を聞くだけになってしまったので、班に貢献はできなかったと思う。班の方や、違う班の方の考えを聞いて、自分は1つの角度からしか考えられてないと感じた。次回は様々な角度から考察するように心がけたい。」

「今回のディスカッションでは、自分の意見は伝えられたが、その後の討論に主体的に参加できなかった。自分の主張だけはちゃんと伝えられたのでよかった。」

「グループ活動では、人の意見を聞くことはできますが、そこから新たな自分の意見を生み出すのが大変でした。そこをクリアしないと議論の発展は望めないので、頑張りたいです。」

「自分から積極的に発言できたと思う。また、グループで話し合う中で一人では思いつかなかった新しい発想を思いつくことができたのはよかった。グループディスカッションはあまり得意ではなかったが、今回を機に好きになれそうだと思えた。次回は話を人にふったりできるようにしたいと思う。」

「意見をまとめる人がいて、発言する人がいないとグループの話し合いは進まないので、少しでも思ったことを発言することによって、グループ活動をスムーズに進めていくことができ、話し合いに貢献することができた。」

「他の人が意見を言いやすいように相づちを打ったり、積極的に話をふったりできたと思います。自分からファシリテートできるともっと良かったかも知れません。」

「誰も発言しないときに、質問したり意見を出して、討論する雰囲気を出せたので良かった。2人なかなか話せない人がいたので (世界史が苦手だったらしい)、もっと出来事などは分かりやすく詳細に言うべきだったと思う。」

「自分が思いつかなかった点を深く掘り下げて質問した。できるだけ皆がそれぞれの意見を理解できるように気を配った。」

「ディスカッションでは他の人と違う意見を出したことで、『これは勝っても負けても成り立つか』 という話し合いが進んだと思います。次は自分の考えにもっと根拠を持って臨みたいと思います。」

「グループディスカッションでは、どうまとめていくかの提案ができて、席が中央だったこともあり、周りの意見を集約するようなことができた。」

「初めてということもあり、発言を促される立場になった。しかし、話し合いを進める人もいれば、それに乗っかる人も必要だと思うので、一応の役割を果たせたと思う。もし、次のグループで、話し合いを進める人がいなければ、自分がその役割を担ってみたい。世の中には色々な人がいるので、その場に合わせて、臨機応変に役割を変えていけるようにしたい。」

なお、最後の方はこんなことも書き足してくれていました。

「グループワークの際に、『グループの話し合いがうまくいくように、自分の役割を果たすことが社会人への一歩』 というようなことをおっしゃっており、このグループワークの方法は、学校の現場 (授業) でも使えると思いました。この一言があれば、話し合いが活性化されると思います。」

教育効果というかこちらの意図というか、そこまで理解していただけると教員としてはありがたいです。
さて、この論題でディスカッションをしたことについて次のような質問をいただきました。

「普通に考えたら、戦争は全否定すべきものなのに、なぜ全肯定する立場になったときの論拠の話し合いにしたのですか?」

この問いに対してはすでに他の何人かの方が答えてくださっていたので、
まずはそれを紹介しておきましょう。

「自分の考えとは異なる立場で考えることによって、戦争と平和の倫理学に対する多面的な見方ができるようになったと思う。」

「自分は基本的に戦争を否定する立場であったので、全肯定の論拠をあげるのが難しかったです。ただ、自分とちがう立場の考え方がどのようなものなのかを知ることができ、戦争について広い視野から考える契機になりました。」

「戦争全肯定論を考えるのは難しかった。普段、自分と反対の立場に立って物事を考えたり、意見を言うことはほとんどない。だが、反対の立場の考え方を知ることで、真の自分の立場の意見の論拠も考えることにつながり、良い方法だと感じた。」

特に最後の方のお答えと関連して、
もう一度シラバスの 【授業概要とねらい】 のなかの以下の一文を確認してもらいたいと思います。

「価値判断を下すためにはその論拠を明確にすることが必要であり、
 しかも自分とは異なる立場に立つ人の議論もきちんと理解した上で、
 それに的確に反論できなくてはなりません。」

というわけで、次の時間 (て、もう今日か) ではさらに、
自分で出してみた論拠に自分で反論するということもやっていただきます。
そうやって少しずつロゴス (言葉=理性) を鍛えていっていただければと思います。

キタ―――( ゚∀ ゚)―――!! ― 夢の50kg台突入!

2013-11-13 13:42:23 | がんばらないダイエット
今朝の計測結果です。



キタ―――( ゚∀ ゚)―――!! ―

59.7kg。

とうとう夢の50kg台に突入いたしました。

最大時からなんと12kgもの減量成功です

最大時のことをちょっと振り返っておきましょう。

こんな記事を書いていましたね。

そのときの腹の写真がこれです。



なんと腹囲は危うく大台に乗りかけの98cmでした。

それが今朝はこうですよっ



別人みたいですよね。

腹囲80cm。

健康診断のときはけっこう締めつけて測ってくれての80cmでしたが、

今朝はフツーに力を抜いてフツーに測っての80cm。

みごとに18cmのサイズダウンです。

それにしても50kg台なんて、福島大学に赴任してきた頃以来ですよ。

実に20年ぶり

福島に来る前は55kgぐらいで安定していたのに、

福島で一人暮らしを始めたとたんあっという間に65kgに到達して、

あとはジワジワと増え続けるばかりでした。

一時期、「朝だけ断食」 で若干戻したこともありましたが、

それでも65kgを切るのが精一杯でした。

ところが、糖質制限ダイエットを始めてたった5ヶ月強で、

ゼッタイにムリと思っていた60kg切りに成功ですよ。

これは究極の 「がんばらないダイエット」 だったなあ。

無類の麺好きの私には若干ツライところもありましたが、

糖質以外なら何をいくら食べても飲んでもよいというのが、がんばれない私にピッタリでした。

それに、みんなと飲むときとかはけっこうビールや日本酒を飲んだり、

パンやパスタを食べたり、パエージャを2人で完食してしまったりなど、

相当ルーズにやっていたんですが、その緩さでのこの快挙ですからよけいに価値があります。

とにかく久しぶりに50kg台の数値を見られたのでこれで気がすみました。

3食すべて糖質を控えるスーパー糖質制限はこれにて終了としたいと思います。

これからは一気にリバウンドしてしまわないよう気をつけながら、

1日に1食くらいは炭水化物も摂取してもいいことにする予定です。

とはいえ間違っても以前のようなスーパー糖質摂取の生活には戻らないようにしないといけません。

今後はコレステロールのほうにも気をつけながら健康な老後を目指していきたいと思います。

応援ありがとうございました

日本国民の誓いの言葉

2013-11-12 19:49:12 | グローバル・エシックス
来る11月23日に早稲田大学で開催される日本カント協会の第38回大会において、

公開シンポジウム 「カントと日本国憲法」 の提題者を務めなくてはなりません。

ですが、授業やら委員会の仕事やらに追われてなかなかその準備に集中することができません。

行き帰りの電車のなかでボーッと日本国憲法に目を通すくらいのことしかできていないのです。

はたしてギリギリスの私は当日の発表に間に合わせることができるのでしょうか?

それはさておき、たまに日本国憲法を読んでみるとやはり心洗われますね。

とても素敵な文章です。

これはまさに日本国民の誓いの言葉にほかなりません。

卒論指導で、ダラダラと文を続けてはいけないと指導しているところですので、

長すぎる文は短く切って少し引用してみることにしましょう。



            日本国憲法 ・ 前文より

日本国民は、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保する。

日本国民は、政府の行為によって
再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意する。

日本国民は、恒久の平和を念願する。

日本国民は、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、
われらの安全と生存を保持しようと決意した。

われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ
平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、いずれの国家も、
自国のことのみに専念して他国を無視してはならないと信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、
全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。




うーん、カッチョいいなあ。

自国の平和だけを守り自分たちさえ繁栄すればいいなんていうチンケな利己主義に陥っていません。

これこそノーブレス・オブリージュです。

現実の政治の世界でこんな理想主義を堂々と表明している国ってあるでしょうか。

こんな素敵な国に生まれてきたことを誇りに思います。

私も全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓います。

糖質制限スナック

2013-11-11 23:03:34 | がんばらないダイエット
最近、どこのスーパーでもフィーチャーされている新しいスナックがあります。

これです。



ソイカラ

袋に書いてあるコピーによると…。

「ソイカラはスナックタイプの大豆です。」

「丸ごと大豆50粒分のタンパク質・大豆イソフラボン・食物繊維が摂れます。」

「ノンフライ製法だからべたつかない。」

「サクサクかるい食感です。」

スナックの類いというのはたいがい小麦粉でできていますから、

糖質制限ダイエットをやっている私にはことごとくすべて無縁の食べ物となるわけですが、

私のためなんでしょうか、こんなスナックが開発されたのですね。

成分表によれば、1袋27g中、糖質が14.7g含まれています。

他のスナックと比べるとありえないくらい低い値で、1食分の20g制限をクリアしていますが、

それでも全量の半分以上は糖質でできているわけです。

私の場合、どうしてもお菓子が食べたいというわけではないので、

これがなければ生きていけないというほどではないですが、

糖質制限ディナーを食べ終えたあと、ちょっと物足りないとかいうときに、

お酒のつまみにするにはちょうどいい感じです。

ソイカラにはチーズ味とのり納豆味とオリーブオイルガーリック味がありますが、

私としてはワインとともにオリーブオイルガーリック味をいただくのをオススメします。

こんな感じ。



手がベタベタしないのもいいですね。

以前、ビール&ポテチの黄金コンビを楽しんでいた頃は、

お箸でポテチを食べたりしていたものですが、これはフツーに手で食べることができます。

おかげさまで糖質制限ダイエット人間にとっての食生活がちょっと豊かになりました。

この手のスナックが今後もいろいろと開発されていくことを期待したいと思います。

『三匹のおっさん』 に見る若者のファッション美学

2013-11-10 16:34:55 | 人間文化論

ずいぶん昔に 「服装は乱れない」 という記事を書いたことがあります。
あるオリンピック選手の 「服装の乱れ」 がマスコミで取り沙汰されていた頃で、
その論調がまるで的外れであることを指摘したものでした。
シャツの裾をズボンの外に出したり、ネクタイを緩めたり、
パンツ (=下着) が見えるくらいズボンをずり下げて穿いたりというのは、
大人から見れば 「服装の乱れ」 に見えるかもしれませんが、
若者にとっては何かに反抗して正しい着方を乱そうとしているのではなく、
それこそがカッコいい (=正しい、美しい) と思っているからそうしているだけであって、
若者から見るとむしろ大人のほうが服装が乱れているように見えているのだ、
ということを論じました。
さて、有川浩の 『三匹のおっさん』 を読んでいたら、
そのときの話を思い出させるようなエピソードが出てきたのでご紹介いたします。

主人公のひとり清田清一は還暦を迎え定年を迎えましたが、
まだまだ自分は 「おじいちゃん」 扱いされるような歳ではなく、
「おっさん」 のひとりであると思っており、
幼少期からの悪ガキ仲間とともに私設自警団のような組織を立ち上げます。
その孫の祐希は反抗期真っ盛りの高校2年生。
チャラチャラした恰好で言葉遣いもなっておらず、
昔は仲のいい祖父と孫だったのに、今では会うたんびに口喧嘩する間柄です。
しかし、あるとき祐希は暴漢連中に襲われているところを三匹のおっさんに助けられました。
まだ素直に御礼を言えない祐希は清一に洋服を買ってきたのでした。

(以下、該当箇所より抜粋)

「おい、ジーサン、これやるよ」
 祐希は提げていた紙袋を清一に突き出した。
「何だ、急に」
「ジーサンの誕生日、うちのお袋がやることなすことセンスなさすぎたから [=還暦の赤いちゃんちゃんこを本人が嫌がっているのも無視して強要した] 俺が尻拭いしてやる」
 開けろよ、と促されて清一は紙袋を開けた。中身はえんじ色とモスグリーンを渋くメインの色に使ったチェックの長袖カッターである。
「赤だ赤だって騒ぐならこれくらいセンス見せてくれなきゃな」
「これはちょっと俺には派手じゃないか」
「んなことねぇよ。着こなしだ、着こなし。いいか、ボタンびっちり留めて、ズボンの中に裾入れて着るもんじゃねえぞ。中にTシャツ着て上着代わりに羽織るんだ。ボタンは留めない。これ基本。ボタン留めるとしても上二つか三つくらいまで外して、裾はズボンから出すんだ。Tシャツもパンツ――ズボンの中には入れるなよ。ズボンはベージュ系の綿パンかジーンズでいい。靴はジーサン、スニーカーいくつか持ってたろ。あれでいいから。間違ってもビジネスシューズとか履くな」
 祐希が言いつつドスンと縁側に腰を下ろした。
「アンタら、ポロシャツでもTシャツでもカッターでも何でもかんでもズボンの中に突っ込むだろ。そんでスーツ用のベルトでぎゅーっと締め上げて、ネズミ色のスラックスだろ。あれだけでもう年齢十歳増しだから! ジジイと呼ぶなって粋がったって、結局アンタら服買う段階で負けてんだ。年も年だしって地味にまとめて、洋服ダンスがネズミ色のグラデーションなんだろ、どうせ」

(以上、抜粋終わり)

口汚いながらも祐希が清一に心を開いていく様子が伝わってくるシーンです。
この中で祐希は自らのファッションセンスを絶対的に正しいものと信じて、
それを60歳の祖父に押しつけようとしています。
物語では清一がそれに抗うことなく、祐希の提案を受け入れ、
それによってご近所の評判もよくなり、
おっさん仲間も次第にファッションに気を遣うようになっていくという流れになっていますが、
(冒頭の写真をご覧ください。真ん中のおっさんが清一です)
フツーだったらここで世代間の美意識の抗争が生じてもおかしくないところです。
清一のほうにまだ若くありたいという色気があったので受け入れられたのでしょうが、
まだバリバリ現役でスーツを着用して働いている時期であったら、
逆に祐希のファッションに対して 「服装が乱れとる」 と小言を言っていたにちがいありません。

とにかく、若者はそのファッションをカッコいい (=正しい、美しい) と信じてやっているだけであって、
既存の権威 (正しい着こなし) に反抗してわざとそれを乱そうとしているわけではありません。
自分の着こなしが正しいのであって、すべての大人も老人もそれに従うべきだと考えています。
まさに 「主観的普遍妥当性要求」 です。
『三匹のおっさん』 は、ファッションだけに限らずモラルや日常の気遣いなどさまざまな事柄において、
10代と60代 (さらにはその間の親の世代と) の価値観がすれ違ったり対立したり交錯したり、
そして触れ合ったりしていく様を描いていて、とても面白く読めました。
現実社会においてもこの物語のように、少しずつ価値観の擦り合わせができていくといいのですが…。

チェスはスポーツか? アンケート結果

2013-11-08 11:02:38 | 人間文化論
「文化創造論」 では私からの講義は3回しかなく、
あとは学生たちにお題を与えてパフォーマンス課題をやってもらったり、
ディスカッションをしてもらったりしているのですが、
その数少ない講義のうちの1回はスポーツについて論じています。
その回のワークシートの1番の問いは以下のようなものです。

「チェスはスポーツだと思いますか。どこまでがスポーツと呼べるでしょうか。
 スポーツとは何かを定義してみてください。」

これはもちろんこちらから講義をする前にみんなに考えてもらい、
興味 ・関心を喚起するための問いであるわけですが、
なかなか意外性のあるいい問いなんじゃないかと思っています。
この問いその答えについては以前に書いたことがあるのでそちらをご参照ください。
さて、この問いに対して学生さんたちはどう答えるのでしょうか?
これが意外なことに 「チェスはスポーツである」 と答える学生が年々増えているんです。
最初のうちはほんの少数派だったんですが、だんだん増えてきて、
今年はもう少数派とは呼べないくらいまで勢力を伸ばしてきましたので、
その数値をご報告させていただきます。

「文化創造論」 はうちの学類のスポーツ ・芸術創造専攻の必修科目です。
(それをなぜか文化探究専攻に所属しているはずの私が1人で担当しています。)
受講者はスポーツの学生が3分の2くらい、音楽と美術の学生が合わせて3分の1くらいの割合です。
当日の授業の受講者はスポーツが31名、音楽 ・美術が19名でした。
で、結果はというと、

チェスはスポーツではない 31名 (62%) 
チェスはスポーツである   19名 (38%)

となりました。
なんとスポーツである派が3分の1を超えて4割に届こうとしています。
反原発派+脱原発派の割合を遙かに凌駕しています。
スゴイですねえ。
私の感覚じゃまったく信じられませんが、実際にこうなのです。
内訳も見ておきましょう。

【スポーツの学生】
チェスはスポーツではない 18名 (58%) 
チェスはスポーツである   13名 (42%)

【音楽・美術の学生】
チェスはスポーツではない 13名 (68%) 
チェスはスポーツである    6名 (32%)

なんとスポーツの学生のほうが、チェスはスポーツであると思っている人の割合が高いのです。
もう4割を超えちゃっています。
まあ実はこれにはカラクリがあって、チェスはスポーツであるという話を私が初めて知ったのは、
たまたま印刷室で体育のS先生に会ったときに立ち話のついでで、
「カーリングってスポーツじゃないと思うんだけど体育の人としてどう思います?」 って聞いたら、
「いやあスポーツでしょう。チェスだってスポーツなんですから」 と、
国際チェス連盟がARISFに入っていることなどを教えてもらったりしたのがきっかけでした。
そのS先生がおそらくスポーツの学生相手の何かの授業で、
スポーツとは何かについて話しているのだろうと思われます。
教育の成果ですね。
早晩、チェスはスポーツである派が過半数を超える日もやってくることでしょう。

スポーツでない派はやはり、スポーツとは全身の運動を伴ったものでなければならず、
それもある程度の運動強度 (例えば、汗をかく、身体鍛錬になる等) が必要であると考えています。
それに対してスポーツである派はいくつかに分かれていて、
身体だけでなく心 (知能、精神力) を使うものもスポーツと呼べると考える人たち、
(おそらくS先生にマインドスポーツという枠組みがあることを教わったのでしょう)
頭脳も身体の一部なのだからチェスは身体を使っていると言えると考える人たち、
一定のルールの下で勝敗を争うことがスポーツであると考えている人たち、
など若干のバリエーションがありました。
みんな考え方が柔軟だなあ。
私は正解を知った上で、それでも日本的偏見に囚われているので、
チェスやブリッジどころか、カーリングもビリヤードもダーツもスポーツと呼ぶべきじゃない、
という偏屈な立場を貫きたいと思っているのですが、皆さまはどうお考えでしょうか?
そのうち 「てつカフェ」 で取り上げてみてもいいかもしれないな。


P.S.
学生さんのなかには、剣道や柔道など 「道」 の付いているものはスポーツとは別物だ、
と考えている人がいるようで、これもいずれ考えてみるべき問題かもしれません。
驚いたのは、以前はオリンピックがアマチュアスポーツの祭典でプロは出場できなかった、
ということを知らなかった学生がいるということで (しかもスポーツの学生)、
1984年なんてついこないだのことのような気がするのに、
彼らにとっては自分が生まれる前の歴史に属する事柄なんだなと、
こんなところで老いを実感させられてしまいました。

糖質制限ダイエット対応外食ランチ

2013-11-07 17:44:50 | がんばらないダイエット
糖質制限ダイエットをやっていて何が一番困るって、実はランチなんです。

お昼はどうしたって外食にならざるをえません。

ところが街でお昼に何か食べようと思ってお店を探してみると、

基本的にどの店も糖質 (=炭水化物) を売っているんだということがわかります。

ラーメン屋もパスタ屋もうどん屋もソバ屋も麺類系は根こそぎ炭水化物です。

牛丼やカレーライスやお寿司は白ご飯ですし、ハンバーガーはパンです。

ファミレス系もお昼時はだいたいどのメニューにもライスかパンが付いています。

炭水化物のないお昼ご飯を街なかで探すのは意外と難しいのです。

私の場合、大学に出勤しているときは大学生協で昼食を摂ることができ、

福大生協は基本的にアラカルトですので、麺類に流されさえしなければ、

ライスを頼まずにオカズだけ食べていればいいのでさほど問題はありません。

やはり街なかで昼食を摂らなきゃいけないときが一番の困りものなわけです。

これは私だけの問題ではなく、糖質制限ダイエットをやっている人に共通の課題だったようで、

こんな本が出版されていました。

『おやじダイエット部の痩せる外食』 です。

なかなかいい本です。

特にランチをどうするかに関するさまざまなアイディアはありがたかったです。

そのうちのひとつが 「ハンバーガー屋ではチキンを食べる」 でした。

なるほど。

パンは糖質の塊だから食べられないけど、いまどきのハンバーガー屋さんではチキンナゲットとか、

あるいはケンタッキーフライドチキンみたいなメニューがありますので、

それとサラダを注文すればいいとのことです。

衣を外して食べるとさらに糖質オフになるのですが、

そこまで神経質にならなくてもよいとも書いてありました。

というわけで、駅前でランチしなきゃいけないときは福島駅東口のロッテリアに行くことが増えました。

以前はエスパルにはマクドナルドが入っていましたが、改装のときにロッテリアに変わりました。



こちらにはナゲット的なものもありますが、それとは別に本格的なチキンメニューが2種類あります。



ジューシーチキン (写真左側) と骨なしチキン (右側) です。

これを1つずつとドリンク (砂糖ぬきのもの) というランチが最近の外食時の定番になりました。

ジューシーチキン240円+骨なしチキン260円、合わせてこれだけで500円ですが、

街なかで食事する機会はめったにないのでまあよしとしましょう。

残念ながら、コレステロールで考えると完全に摂り過ぎです。

しかし当面はコレステロールを気にするよりは、糖質制限に重点を置くことにしましょう。

もうしばらくがんばって目標値を達成したら、早く 「昼はソバ」 に戻りたいと思います。



P.S.

ちなみにちょっと前に Facebook 上でマックナゲットに関するこんな情報が流れていました。

これに関してはそれを疑問視する記事も散見されます。

真偽のほどはわかりませんが、

ロッテリアのジューシーチキンと骨なしチキンに関してはかぶりついてみたところ↓、



フツーに鶏肉っぽい感じではありました。

大チョンボ5年研の感想

2013-11-06 16:21:46 | 教育のエチカ
このところ授業や講演会の感想ばかりになっていますが、シーズンなのでしかたありません。
先日の 「大チョンボ5年研」 の感想用紙が届きました。
これはもともと回収するつもりのないワークシートだったので、満足度の欄を設けていませんでした。
来年度からは満足度も書いてもらったほうがいいですね。
(あ、ちがった。来年からはもう呼んでもらえないんだった
予定の日に講師が来ないという大失態を犯してしまったわけですが、
はたしてどんな感想を書かれているのでしょうか?


「とてもわかりやすい講義でした。またご指導お願いいたします。小野原先生の大学の講義をぜひ、うけさせていただきたいと思います。」

「『考える』 『発表する』 などが思考力・表現力のために役立つのではとこれまでも考えてきたが、何のために考えるのか、どのように発表させるのかといった点について考えを深めることができた。グループ、回し読み、KJ法で他者の意見に触れられた以上に、自分の意見がまとまっていく気がした。」

「なぜ学ばなければいけないのか、という問いに関しての答えが大変印象的でした。また、考えをまとめたり、回し読みをすることで、他者の意見に触れることで自分の考えがまとまっていったり、新しい気づきがあったりしました。授業のなかでも活用できることなので、授業に生かしていきたいと思います。ワークショップではみなさんの様々なアイディアを見ることができて大変参考になりました。こちらも授業に生かしたいと思います。多くの意見やアイディアに触れることができ大変有意義な時間でした。ありがとうございました。」

「学ぶことの意義について普段あまり考えていなく、『高校に行くため、進路実現のため』 という言い方ばかりを生徒にしていました。答えになっていないので今日の先生方のお話を参考にもっと考えを深めていきたいと思いました。他の先生と意見を交換できたことが大変意義があったと感じました。一人しか社会の先生が学校にいなく、普段教科について一人よがりの考え方に陥っていたと思います。この機会にもっと自分の授業を見つめ直していきたいと思いました。」

「KJ法をやった事はあるが、社会の先生だけだと色々とお互いに理解も早く、楽しく、色々な視点を見ることができた。個人的にどうしても権威主義的なところがあるので、大学の先生の話をきくと、『あーなるほど』 と全てを全面肯定してしまうが、社会科教員として、そういうスタンスは正さねばならないと感じた。」

「『思考力・表現力』 とは何か…ということを考えるのかと思っていましたが、そこはあまりふれられず、その前の部分の演習でとてもためになりました。私は細かく考えることが必要ではなく、細分化しなくても大きな枠でとらえ、思考・表現につなげても良いのだと考えました。思考・表現は1人の中でおこることであり、それを細分化して授業の中で教えるというのは、なかなかおこがましい発想なのかもとも思いました。学びの意義をきちんと考えておくことが基本だと思いました。」

「『なぜ勉強しなければならないのか』 時おり生徒にも聞かれる問いですが、互いの意見を聞いて、よりその問いへの答えが深まったと思います。現代の 『答えがない問題』 に対処していくために、学び続ける、それをまた誰かにあげる、学びのリレーが続けられて文化が、社会が構築されていく。私自身も学びのリレーの中にあるのだと思いました。KJ法のグループワークでは、普段なかなか知ることのできない中学校の先生方のアイディアにふれることができ、新鮮なアイディアを得ることができました。より生徒の視点に立ったアイディアが多かったと思います。」

「印象に残ったこと : 高校の教員がかなり自由な発想で授業をしていること。限られた時間の中で、何かをしようとしている。中学校の先生方は、枠が厳しい中での創意工夫にすぐれていた。 感想 : 普段は、どうしても教育学に関しては、全国社会科教育学会etcで話されていることを基本に考えてしまうため、他の領域、学会etcの方々の考え方はどうなのだろうと不安を感じることが多い。けれども今日のお話から、『国語教育』 への不満も含めて、同じような考え方の方がいることを知ることができました。新しく知ったというよりも安心感と 『ことば』 が得られた講義でした。ありがとうございました。」

「やはり、生徒に興味・関心を高めることが思考力・表現力を高めることにつながり、4観点別評価の意義を改めて考えさせられた。そのための教材研究の時間が欲しいところなのが実情ですね。また、学ぶことの意義についても、一度講演会でお聴きした内容だったが、改めて聴き、学ぶことの大切さを再認識できた。まだまだ社会 (地歴・公民) 科は思考力・判断力・表現力は他の教科と比べて見えにくいものではあるが、教材が豊富にあるので、その利点を活かして、教材のネタもいろいろと考えていきたい。これからもさらなる研修に努めます。ありがとうございました。」


うーん、さすがに皆さん大人というか、学校教諭というか、福島県公務員というか、
私の大チョンボについて触れている人はひとりもいませんでしたね。
怒りや軽蔑の念をぐっと抑え込んで、
ただひたすら当日の講義のことにのみ意識を向けてくださったのでしょう。
本当に有り難いというか、申しわけないというか…。
私の講義やワークショップがどれほどの学びを生むことができたか疑問ですが、
先生方にはぜひ現場に戻って生徒たちへの文化の伝達に励んでいただき、
引き受けた仕事はちゃんとやる、仕事をすっぽかしたりしないという文化を受け継いでいってください。
皆さま、本当に申しわけありませんでした
そして、そんな私の講義を温かく受け止めてくださり、どうも有り難うございました。

福大祭講演会 「まさおさまの幸福の倫理学」 終了!

2013-11-05 17:35:38 | 幸せの倫理学

11月3日、福大祭の最中に講演会をやらせていただきました。
題して 「まさおさまの幸福の倫理学」。
福大祭実行委員会からの御指名、御指定を受けての登壇です。
例によって前日ギリギリに福大祭の喧噪のなかで資料を作っておりました。
あいかわらずパワーポイントもなんもなし。
写真ではマインドマップを1枚手にしながら写っていますが、
これ1枚とあと感想用紙を1枚配付しただけで90分話しきりました。
感想用紙には講演前に書いてもらう1番の問いと、
講演会後に振り返ってもらう2番の問いが書かれています。
1番の問いはこんなふうにしてみました。

「幸福とは何だと思いますか。1人1人違うものなのか、人間として共通の幸福があるのか、
 外からやってくるものなのか、自分でつかみ取るものなのか、あなたはどう考えますか。
 どんな時にあなたは幸せを感じますか。御自分の考えをお書きください。」

これは皆さんの興味 ・関心を喚起するための問いです。
ただ座って受動的に話を聞いてもらうだけでなく、
あらかじめ自分で主体的に考えてもらうことによって、
講演を聞く前に皆さんのアンテナを立てておいてもらったわけです。
しかし、書いていただいた内容を読んでみると、
もうその問いについて考えただけで十分元が取れてるんじゃないか、
という人も数多くいらっしゃいました。
わざわざ私が話なんかしなくとも、みんなちゃんと幸福とは何かわかっていらっしゃるのですよね。
そのうち余裕があったらこの1番の答えについても、ちょっと分析して報告してみたいと思います。

私が配付したマインドマップはこんな感じです。


(画像をクリックすると拡大されます。)

このブログのことや 「てつがくカフェ@ふくしま」 の宣伝をしたあと、
有名なソクラテスの言葉 「人間にとって重要なのはただ生きることではなくよく生きることである」
から出発して、「よく生きる」 の2種類の解釈から倫理学の二大潮流が発していることを説明し、
カントによる幸福の定義を提示した上で、
そこから導き出される4パターンの 「幸せになる方法」 について説明していきます。

①欲求・欲望が満たされるのを期待する
  ①-1 他人や運に頼る
  ①-2 自分が努力する
②自分の状態にみずから満足する
  ②-1 欲求・欲望をコントロールする
  ②-2 幸せの感受性を高める

その後は 「受け止め方の問題」 に話を移し、非暴力コミュニケーションの教えも取り入れつつ、
お得意の 「本能の壊れた動物」 の話から 「ありがたい話」 を簡単にしていきます。
そうやって自分が幸福になるにはどうしたらいいかの話を一通り終えてから、
最後に自分の幸せを人に分け与えてあげる 「ノーブレス・オブリージュ」 の話をしてフィニッシュです。
質問時間を5分くらい残して講演は切り上げましたが、質問なんて出ないだろうと思っていたところ、
けっこう4名くらいの方からそれぞれとてもいい質問が出されて、
質疑応答の時間も含めて私としてはたいへん楽しく話させていただきました。

感想用紙は49枚回収できました。
講演会の途中で中座される方もけっこういらっしゃったので、
(福大祭をやってる最中ですから、90分も拘束されるのは皆さん困るでしょう)
聴衆は全部で50人以上はいたのではないでしょうか。
いつものように感想用紙の2番では満足度を5点満点で採点してもらった上で、
印象に残ったことや学びが深まったことなどを書いていただきました。
集計したところ満足度は4.62。
おそらく最後まで聞いてくださった方だけの数値でしょうからちょっと高めに出ていると思いますが、
そこそこいい評価をいただけたのではないでしょうか。
皆さんの感想をいくつか紹介していきましょう。


「快楽主義と道徳主義の生き方に関心をもった。今自分が置かれている立場がとても幸せな状況である事が分かった。」

「白馬に乗った王子様が現れないと聞いてショックでした。でも今回の講演を聞いて、自分で努力すれば、自ら幸せをつかみ取れるし、外からも幸せがまいこんでくるのかな、と思いました。私はめんどくさがりなのでものすごい努力をして、ものすごい幸福を得るのは難しいと思うので、身近な小さなことから努力して、自分なりの ”幸福” を見つけたいなと思いました。」

「幸せは待つものではなく、自分の努力によってつかみにいくものだと思いました。小さな幸せから大きな幸せまで様々に度合いはあるけれど、求めすぎないことを大切にしていきたいと思いました。」

「ヤクルトスワローズの話おもしろかったです。東京音頭みてて楽しそうだし、やってる側の人たちも楽しくやっているのだと思いました。幸せか不幸せかはものの見方によってかわってくるのだと思いました。」

「面白かったです。やっぱり、ありがたいとか、何度も思い出すことが大事ですね。忘れちゃうので…。感謝できる人でありたいと思います。ありがとうございました。」

「『幸福は感じられた人の勝ち』 という言葉を聞いて、なんでこんな不幸なんだろう…と考えるのをやめて、前向きに生きようと思いました。」

「これまで、自分で幸福を感じるためには、『①-2しかない』 というか、『自分でやるしかないんだ』 と思っていました。社会人になって、どうしても①-2でやることがつらい時があると感じていました。②-1、②-2のような考えにも目をむけていく時期なんだなと思いました。『生物学的に』 という言葉が何度か出てきましたが、つくられた (つくりこまれた) 『文化』 の中で、そういう意識が少なくなってきたように思いました。もっとゆるやかに考えてみようと思います。あとは自分の問題と思って、-0.5です。」(満足度4.5点)

「今日の講演を聞いて、幸せについてあらためて考えさせられました。公演中に出てきた 『言葉のギフト』 という言葉にとても共感しました。やはり幸せというのは、誰かに幸せを与えた時に感じられるのだと思いました。」

「人の幸せ (幸福) は受け止め方の問題であり、幸福感というのは無限大である、ということにとても関心をもちました。そしてことばはある一方で銃弾であり、一方で贈り物であるということで、私自身今までそのように思いながら 『ことば』 を使ったことが無かったので、人のことを幸せにするためにもことばを ”贈り物” として使いたいと思いました。身近にあることを当たり前だと思わず、有り難いことだと感じ、幸せなことだと思えるようになりました。講演ありがとうございました。」

「小野原先生の声がとても聞きやすく良かったです。久々の講義で、とても新鮮で楽しめました。幸せは自分の感受性次第という話が印象に残り、『人が人にしてくれることであたり前のことは何もない』 という話を聞いて、日頃自分は他者に対し 『やってくれてあたり前』 と考えていることの多さにおどろきました。」(卒業して十年生)

「有り難い、当たり前ではないの話の例えで (夫婦間の役割分割の例えで)、2人で決めたルールを破るとカチンとくる。←これは私です。『有り難い』 と思うとか、よくいろいろな本に出てくるので、分かってるつもりなのですが、できない。本当に難しい よくごはんを残すと、『世界には食べれない人がいっぱい…』 とか親に言われましたが、『じゃあこんなに作らないでよ』、『じゃあ、食べれない人にあげればいいじゃん』 っと思ってしまう。小学校時代からあんまり変わってないじゃーんとちょっとスネてしまいそうです。」

「とても興味深い内容で、新しい価値観が身についた気がします。特に幸せになる方法のところの話はすばらしく、②の考え方にはとても同意できるな、と思いました。おもしろい話も多く、聞いてよかったと思います。考え方1つでたくさんのことが変わり、自分の受け止め方もとても変わるのだな、と思いました。世界を明るく考えるためには自分の考えを改めることが必要なのだな、とも思いました。私も今日聞いたことをこれからに活かしていきたいと思います。」

「今日の講演を聞いて、食べ物、住まい、お金に困ることなく暮らしていられることが幸せな事なんだと思うことができました。」

「この講演会には、幸せはどういうものであるのかを論理的に考えたいと思い来たので、その答えが知ることができたので目的を果たせた。他人を喜ばせることは自己満足なわけではなく、自分も幸せにするということを知り、もやもやが晴れた。」

「幸福に値するように生きよというカントの言葉は納得しました。世界が100人の村であったらという本を読むと自分の幸せというものを感じられると思います。しかし現実には感じられないのが残念ですよね。」

「幸福とは幸福感であるということにとても納得しました。質問でいくつかでてきましたが、幸せの感受性を高めるために、欲望・欲求をコントロールして小さくするのは、あきらめるということではないということが分かりました。本日はありがとうございました。」

「幸福について、自分の意識を改めて考え直せた。自分の思っていた幸福感を再認識できた。いろんな方にこの様な講演を聞いて欲しいと思いました。こんな風に学べる場所で勉強が出来るのをうらやましくも思う。」(福大1年生の母)


皆さん、学祭で盛り上がっているなか、しかもいい天気だというのに、
こんな辛気くさい講演会に足を運んでくださり、本当に有り難うございました。
特に最後までお聞きくださったり、質問までしていただいた方々には、
私の講演のために長い時間を割いていただいたことを心より感謝申し上げます。
また、私を講演会に招き、いろいろとご準備してくれた実行委員会の皆さまにも感謝申し上げます。
あの90分間、私は本当に幸せでした。
皆さまもこれからずーっと幸せな日々を過ごされますよう心からお祈り申し上げます。

アーレント 「政治という公的活動の場の再構築」

2013-11-03 09:50:35 | 哲学・倫理学ファック
先日、アーレントを理解するための資料をアップしましたが、
本日はその際に予告したとおり、「社会思想入門」 の授業の時に私が書いた解説文をアップします。
「社会思想入門」 という授業でしたので、
できるかぎりアーレントが身を置いて思索をしていた当時の社会状況についても触れながら、
その中で彼女がどれほどユニークな思想を打ち立てていったかを描こうとしたつもりです。
しかし、当時は (ちょうど10年前のようです) 大学1年生でも読めるように、
ものすごくわかりやすく書いたつもりでしたが、
今読んでみると、これでもけっこう難しいのかもしれません。
自分で読んでいても漢字ばっかりで目がチカチカしてきてしまいます。
とはいえ、一度書いた文章を修正するのって本人にはなかなかできませんので、
特にどこが読みにくかったとか、意味がわからなかったとかいうことがあったら、
ぜひコメント欄で具体的に教えてください。
これを読んでアーレントがどんな思想家だったか大枠でもつかんでいただけると嬉しいのですが…。
映画の予告編の意味も少しはわかってくるんじゃないかな。
資料のほうの略年譜やアーレントの著作からの引用と照らし合わせながら読んでみてください。



     ハンナ・アーレント 「政治という公的活動の場の再構築」

Ⅰ.「国家なき人間」 ―全体主義の時代のユダヤ人女性―

 ハンナ・アーレント (Hannah Arendt 1906-75) は、20世紀初頭のドイツにおいてユダヤ人女性として生を受けました。幼い頃のアーレントはユダヤ人であることをほとんど意識せずに成長することができましたが、20世紀の歴史は彼女を否応なく波乱の人生へと呑みこんでいくことになります。1933年、反ナチ活動に従事して逮捕拘留されたアーレントは、その直後、フランスへと亡命しました。このときからほぼ20年近くのあいだ、アーレントは 「国家なき人間」 として生きていくことになります。こうした経験は彼女に 「政治的思考」 を深めさせていくことになります。
 アーレントの出世作でありかつ代表作でもある 『全体主義の起源』 は、彼女がアメリカの市民権をやっと獲得した1951年に出版されました (そして、この書以降、アーレントは自著をすべて母語であるドイツ語ではなく、英語で執筆しています)。『全体主義の起源』 は、反ユダヤ主義の起源とその20世紀的展開について詳しく分析しており、とりわけ20世紀という時代が、亡命者や難民といった、国民国家から締め出され、まったく法的庇護を与えられない 「見捨てられた人々」 を大量に生み出していく悲劇を描き出しました。アーレントは、人権という理念が彼らを護るのに何の役にも立たないということを鋭く批判します。彼らは人権よりも根本的な権利、「諸権利を持つ権利」 を奪われてしまっているのです。アーレントの人権批判は、「法の保証を失って生国から放り出され、国籍喪失という非人間的状態に委ねられた場合の、われわれの基本的恐怖を、いやというほど知り尽くした」 (ヤスパース 『哲学的自伝』) 当事者本人から発せられているからこそ、現代においても耳を傾ける必要があると言えるでしょう。そして、アーレントにとって、国家に属すること、政治に参加することは人間の根本的条件に関わる重要な要件となるのです。

Ⅱ.アーレントの政治観 ―複数性、共和主義、「社会問題」 批判―

 アーレントは人間の条件として生命、世界性、複数性 (=多元性) の3つを挙げています。そしてそれぞれに対応して、労働 labor、仕事 work、活動 action という3つの営みがある、と論じています。このうち最初の2つは人と物との関係であり、特に労働は人間のみならず、生命を持つものすべてが生命維持のために携わる低次の営みです。これに対して、活動だけが純粋に人と人との関係であり、したがって最も重要な営みであるとされています。活動とは、相互に異なりそれぞれ唯一の存在であるような複数の人間たちが、語り speech を通して互いの唯一性 uniqueness を示し合うような共同的相互行為です。アーレントにとって、政治とはまさにこのような意味での活動にほかなりません。
 このアーレントの政治観には、大きく言って2つの含意があります。まず、政治とは人間にとってたんなる手段としての価値しか持たないようなものではない、ということです。アーレントが考える政治は、近代社会契約説が言うような諸個人の利害を調整する手段でもなければ、ウェーバーの言うような支配のための道具でもありません。政治 (ポリティクス) とは人間が人間であるための条件であって、それ自体が目的そのものであるような公共的な活動です。そして国家 (ポリス) とはそのような活動の場にほかならないのです。したがって政治参加を奪われた者、国家を奪われた者は、まさに人間の基本的条件を奪われたことになるのです。アーレントによれば、公的領域は人間にとって必要不可欠な場です。アーレントは 「政治の存在理由は自由であり、自由が経験される場は活動である」 (『過去と未来の間』) と述べていますが、彼女の言う自由は、私的領域さえ侵犯されなければ自由でありうるといった近代自由主義の言う自由とは根本的に異なります。自ら公的世界に積極的に関与していくことこそが、アーレントの言う自由なのです。市民にそのような公共性、共同性を要求する彼女の政治思想は 「共和主義 republicanism」、ないしは現代の言葉で言うなら 「ラディカル・デモクラシー」 と呼ぶことができるでしょう。
 第2に、アーレントは政治という活動の場に労働の問題を持ち込むことに反対します。アーレントによれば、近代とはまさに労働 (すなわち生存維持のための行為) が公共性のあり方を規定するようになってしまった不幸な時代です。これを言い換えて、「社会問題」 が政治を規定するようになってしまった時代、とも言っています。これは、政治が本来関わるべきではない私的領域の問題への対処に追われるようになってしまったということであり、それによって政治は自由な意見の交換の場としての本来的機能を失い、生命の必然 (必要) によって一義的に決定が下されるような場へと貶められてしまっている、というのです。その最たる形がマルクシズム、社会主義にほかなりません。アーレントはソ連型の社会主義 (スターリニズム) を、ナチズムと同様 「全体主義」 ―イデオロギー支配と組織的テロルの統合― であるとして断罪しましたが、それと同時に、そもそも労働に定位したマルクスの思想は (ロックやスミスの思想も然り)、政治の本来のあり方を誤らせてしまうものなのです。

Ⅲ.ユダヤ人女性であることを超えて

 アーレントの思想が、彼女がユダヤ人であることによって蒙った政治的経験に基づいて形成されてきたことは確かですが、彼女の思考はユダヤ人であることによって規定されてしまっていたわけではありません。むしろ彼女の思想はユダヤ人の中できわめてユニークであったと言うことができます。1961年、アーレントは、ユダヤ人絶滅計画の実行に重要な役割を果たした元ナチ親衛隊アドルフ・アイヒマンの裁判をイスラエルで傍聴しました。その記事は雑誌に連載され、それを書物にまとめたものが 『イェルサレムのアイヒマン』 です。この書には 「悪の陳腐さ [=凡庸さ] についての報告」 という副題がつけられています。あらゆる罪状を否認して無罪を主張する被告に対して、法廷中が、イスラエル中が、そして世界中のユダヤ人が怒りを募らせている中、アーレントはただ1人この裁判を冷静に見守っていました。そして、彼はけっして残虐かつ狂信的な人種差別主義者であったわけではなく、ただ法や命令に忠実なだけの平凡な一官吏にすぎなかったこと、彼がもたらした甚大な悪の原因は、自分で何も考えていないということ thoughtlessness、ただそれだけであるという事実を見抜きました。さらにこの書の中で、ナチの絶滅計画に協力したユダヤ人が存在していたことをも取り上げたアーレントは、これ以後ユダヤ人社会から激しい非難を受けることになりますが、彼女は自らの立場から一歩たりとも撤退することはありませんでした。
 アーレントはそもそもイスラエル建国以前から、「アラブ人とユダヤ人の協力という思想は、これまで一度も、全くといってよいほど実現されなかったし、今日ではかつてないほど実現困難に見えるが、理想主義的な夢物語ではなく、穏当な言明である。つまりそれは、それなしではユダヤ人のパレスチナでの試みがすべて灰燼に帰すという事実を述べたものである」 と語り、パレスチナにおけるユダヤ人とアラブ人の共存を唱えていました。アーレントはユダヤ人であるからといってユダヤ人問題に対する目を曇らせてしまうことなく、現代にもそのまま当てはまるような洞察に、すでに1940年代前半の段階で達していたのです。彼女の言う共同性や公共性が、たんに同じ民族や仲間たちで群れ集い同じ価値観で団結することにあるわけではない、ということは明らかでしょう。
 さらに言えばアーレントは、自らが女性であることにも囚われず、当時勃興しつつあったフェミニズムの思潮から一線を画していました。彼女に言わせれば、女性であることは私的領域の問題にすぎないのです。そのようなアーレントの考えはフェミニズムから批判を受けることになりましたが、それに対しても彼女は超然と構えていました。私的な問題を離れて公共性の世界へと参与していくという共和主義の理想は、貴族主義的で近寄りがたい感じも抱かせますが、本来、自由とか政治というものはそのような孤高の勇気と高貴さに溢れたものであるべきではないでしょうか。

郡山の看護学校も終講!

2013-11-02 12:44:08 | 教育のエチカ
白河の看護学校と同日に開講してきた郡山の看護学校の 「倫理学」 ですが、
学校側のイベントの関係で、最終回のみは別日の開講となりました。
しかも、当初10月16日に予定されていたのですが、その日は台風のため休講
けっきょく10月31日にリスケ (=リスケジューリング) され、
前回から3週間ほど間が空いての久しぶりの最終回となってしまいました。
その間に学生さんたちは初めての実習にも行ってきたようです。

さて、白河の看護学校とは異なり郡山の場合毎週1コマずつですから、
あまりゆっくり講義全体を振り返っている余裕はなかったのですが、最終回の振り返りシートに、
今まで 「倫理学」 を学んできて印象に残っていること、学びの深まったことを書いてもらいました。
簡単にご紹介していきましょう。
まずは各回ごとの内容について。

「今までの授業を通し、一番印象に残っていることは、「死後」 についてである。死後については誰も知ることができず、どんな世界になっているのかが不思議に思うし、怖いという恐怖も感じる。死ぬまでにやりたいことをし、後悔のないように生きていかなければいけないということを倫理学の授業で学んだ。」

「脳死判定については深く考えさせられた。よく情報で聞く言葉であり、医療界でも注目されているテーマの一つであるが、国によって判定基準が異なる、世界での明確な決まりはないという点にまず驚いた。そして、その一つ一つの段階を見ていく中で、どの一線をこえたら死として良いのか、自分で考え答えを出すことにより、自分自身の考えも改めて知る事ができた。さらに他者の意見を聞く事により、やはり答えを一つに絞るという事は難しい事なのだと感じた。」

「私は7回の中で 『安楽死』 について考えたことが印象に残っている。どんな死に方が一番良いのか、答えは絶対に一つに絞ることは出来ないし、人それぞれの答えがあると思った。どの答えも間違ってはいないが、実際に患者に安楽死をさせるとなると相手の気持ちやその患者の家族の事も考えてしまう。だからこそ安楽死は簡単に出来ることではないし、誰が決定していいのかも分からない。安楽死について何か資料など参考になるものがあれば読み、自分の考えを深めたい。安楽死だけでなく他のテーマもリンクされていると思うので連携させて考えたい。」

「19年間生きていて、一度として自分の理想の死に方など考えたことがありませんでした。そして、それだけ自分が死というものに向き合っていなかったのだと強く思いました。人それぞれ色々な考えがある中、患者さんたちは死と向き合い考え続けているんだということに改めて気づかされ、私達が看護師になるため、患者さんにどんなことができるのか、どんな能力を身につけなければいけないのかを考えさせられました。これからも考え続けることを大切にしていきたいです。」

「どこからが人間の死といえるのか、自分は死を告知されたいかされたくないか、どのような死に方をしたいかなど、自分や家族、周りの大切な人の死をリアルに考え、その考えをグループのメンバーと共有し合うことができました。自分も家族も大切な人も、難しいことではあるけれど、なるべく本人の希望に沿った死に方ができるよう、普段からコミュニケーションを大切にしようと思います。」

「死を意識することで得られるメリット。生命や時間の大切さが分かり、やりたいこと、やり残しはないか考えること、死への準備、家族に思いを残す為の準備など、人それぞれ使い方がいろいろあると思った。倫理学ではたくさん学んだ。これからも疑問に思うことは考え続けたいと思う。ありがとうございました。」

「倫理学の授業を受けて、自分の中では死に対する考え方が変わった。一番印象に残っている授業は、今回 [=最終回] の死や病気から意識すること、病気や死が近づくことで時間の大切さなど人間として生きている幸せを実感できるのだと思った。その時間を支える看護師という職業のすばらしさも再確認できた気がする。哲学というものも視野に入れることができた。」

「一番学びが深まったのは、今日の授業の死・病気についてと、看護師はどうあるべきかについてです。実習へ行き現場を見てきたことで、『死』 についての考え方や見方が変わりました。『死』 について考えるのを避けるのではなく、しっかり考え、時間はかかっても自分の答えや意見などを持つことは大切なことだと思うようになりました。また看護師という職業の意味や患者さんと接する上でどういった存在であるべきかなども考えることができました。自分も、身体的な世話や治療補助はもちろんですが、精神的な部分の世話を大事にし、看護していきたいなと思います。『看護師は哲学者でなければならない』 という言葉もとても印象に残りました。ありがとうございました。」

以上、個別的な学びについての振り返りでした。
けっこう多くの人が、これからも考え続けていきたいと書いてくれていて、
それは私としては望外の喜びです。
個別の学びだけでなく、この講義全体での学びについても振り返ってくれていた人がいましたので、
それらも紹介しておきましょう。

「グループで話し合ったりすることは他の授業でもあったが、自分の考えを書きとめておいて、それをグループで読んで考えを伝えることはやったことがなかったので、楽しかった。いつもききのがしたりしてたけど、じっくりと意見を知ることができた。」

「今まで学んだことをしっかりと受けとめ、これが答えなのではなく、これからも考え続けていきたいと思いました。」

「実習に行った際、私の病棟はあまり亡くなる人が多い病棟ではなかったのですが、倫理の授業を受けて、死についてこんなにも深く考えたことがなかったので、実習をはさんででしたが、死について学べて良かったです。」

「生の誕生で学ぶこともたくさんある。生の終わり (finish) で学ぶこともたくさんある。生と死は深く、いくら考えても考えてもきりがないおもしろい一生のテーマだなと先生の授業で感じました。ありがとうございました。」

「看護師を志してから人の 『生』 にしか注目していなかった。授業で生と死の関わりを知り、今後学ぶ事に対して、生と死の視点から見ていくことにした。学生の間だけでも、死への価値観が皆それぞれ違っていたので、他者の考えについて理解を深め、視野を広げていきたい。」

「今後は、今までの授業で学んだことを、常に考え、立派な看護師を目指していきたい。」

「常に人間は生きているし、私は生きている。そして死に向かって1秒1秒をすごしているのだと考えが深まった。」

「倫理学の授業で ”死” について深くふれることが出来たと思う。これからも知識をつけるの他に、未来について、患者について、看護師というの名の哲学者になれるように精進したい。」

「7回の授業で学んだことをこれからの勉強にも生かせていけると思うので、そのとき感じたことや考えたこと、思ったことを忘れないようにしたい。先生の授業で学んだことはたくさんありました。7回だけでしたがありがとうございました!」

こちらこそありがとうございました。
私としては若干駆け足の慌ただしい授業だったなという反省があるのですが、
そのなかでいろいろと深く受けとめていただき感謝申し上げます。
君たちは4年間の課程なのでまだまだ先は長いですが、
その間もずっと考え続け、悩み続けて、プロフェッショナルとしての理想の看護師になってください

福大祭講演会 「まさおさまの幸福の倫理学」 開催

2013-11-01 13:06:36 | 幸せの倫理学
告知するの忘れてました。

明日から福島大学では福大祭が開催されますが、

11月3日 (日) に私も講演会を開きます。

題して 「まさおさまの幸福の倫理学」。

中学校高校や、学校の先生相手の研修会等で話をさせていただく機会はありますが、

一般向けの講演会というのは意外と最近やっていないように思います。

(今年は静岡で一度やりましたが、静岡ですからねぇ。)

福島在住の皆さん、学生でなくてもタダで私の話を聞けるチャンスです。

内容的にはこのブログの 「幸せの倫理学」 カテゴリーでダラダラ書いているようなことばかりですが、

まさおさまのエロい生声を聴き、糖質制限ダイエットの成果を目の当たりにすることができるはずです。

福大祭の真っ最中ですので、競技ダンス部のタコス屋さんをはじめとする各種模擬店や、

お化け屋敷やふわふわトランポリンなどもあり、ご家族みんなで楽しむことができるでしょう。

連休の中日、ぜひ福島大学へ足をお運びください。


福大祭講演会
「まさおさまの幸福の倫理学」

講師 : 小野原雅夫

日時 : 11月3日 (日) 14:00~15:30

場所 : M2教室
(福島大学M講義棟1階)

入場無料



P.S.
福大祭のホームページには載っていないようなので、チラシを貼っておきます。