これ!どう思います?

マスコミがあまり報道しない様な問題を、私なりに考えてみます。

ヴェーバーが残してくれたヒントを基に (その4-1)

2021-09-18 13:34:20 | 民主主義
【はじめに】
 多くの方は、「イギリス、アメリカ、フランスの3か国が民主主義/自由主義が最も進んでいる」と思われている様ですが、私の見方は違います。 この3か国を含め欧米の列強は、自国内では民主化を進めながら、武力で弱小国を植民地化してきました。

 多くの植民地が独立を達成しましたが、宗主国が人道主義に目覚めて解放したのでは決して有りません。各植民地で発生した独立運動が激しくなって、抑えきれなくなり手放しただけの事です。

 今回は日本も関係したベトナムの独立運動の歴史と、イギリスの民主主義化について書きます。 ベトナムの学校では、「日本は悪い国」と教えています。その原因は、本書を読んだら御理解頂けると思います。

第6章 :植民地と民主主義
【植民地化政策は民主主義に反します!】

 覇権主義や植民地化政策は、民主主義に反すると思います。然し、イギリス、アメリカ及びフランスは、国内の民主主義化を進めながら、弱小国に侵攻して植民地化を罪の意識無しで行いました。 第二次世界大戦が始まる前には、多くの国が植民地にされていました。

 第二次世界大戦中に東南アジアで日本が解放した国では、日本軍が撤退した後、元の宗主国が軍隊を派遣して、再植民化を進めました。各国で独立運動が起こり、最終的には独立を達成しました。 その典型的な、ベトナムの歴史を次に書きます。

【ベトナムの歴史とベトナム戦争】
 1847年にフランスが、ベトナムの植民地化政策を始めました。1889年にカンボジア等を含めたベトナムの植民地化が完了しました。 独立運動の初期の組織として、1930年にホー・チ・ミンが香港でベトナム共産党を設立し、 1939年に安南皇族のクォン・デらが上海で『越南復国同盟会』を結成しました。

 第二次世界大戦が始まるとフランスは短期間でドイツに降伏して、1939年にヒットラーの思想に近いヴィシーが政権を樹立しました。 ヴィシー政権は、ベトナムを含めて、植民地の経営を引き継ぎました。 日本とドイツは同盟国でしたので、日本とフランスは準同盟国の様な関係になりました。 日本はベトナムを南方作戦を行う為の兵站基地にしたいと考えていました。

 日本はフランスのベトナム統治機関と「ベトナムを植民地にしている事を認め、独立運動を支援しない代わりに、日本軍が駐留して兵站基地を設ける事を認めてくれ!」と交渉しました。交渉は成立して無血で進駐する事になりましたが、一部の軍が暴走して、少し小競り合いが発生しました。 (40年に、日本軍はベトナムに進駐しました。)

 越南復国同盟会は、「日本軍は戦闘をしてベトナムに侵攻するだろう!」と予測して、日本軍が進駐を開始する少し前に、ベトナムで独立闘争(戦闘)を始めました。 然し、日本の支援を得られ無かったので、フランス軍に敗北しました。 第二次世界大戦中に、幾つかの集団が小規模の独立闘争を起こしましたが、日本は原則として中立を維持しました。

 1944年にヴィシー政権が倒れて、ドゴールのフランス共和国臨時政府が発足しました。臨時政府がベトナムを含めたフランスの植民地の経営を継承しました。 この時点で、フランスは日本の敵対国になったのです。 然し、後術の明号作戦が開始されるまで、日本軍とフランス軍の衝突は有りませんでした。

知って欲しい事 :1945年のベトナムの飢餓 :1944年のベトナムでは、❶北部が大規模水害と低温に見舞われ米が不作だった、❷フランスと日本軍が多量に食糧を調達した、➌連合国が鉄道網を空爆して南部から北部への食糧輸送が難しくなった、➍44年の冬が非常に寒かった、等の原因でベトナム北部で40万人~200万人が餓死しました。 ホー・チ・ミンが、「飢餓の責任は日本に有る」と宣伝して、国民の支持を得ようと画策しました。 現在でも、ベトナムの教科書では日本は悪者扱いされている様です。

明号作戦 :1945年3月、日本軍が不意を突いてフランス軍を攻撃し、制圧しました。フランス軍の一部は中国に逃走しました。

 日本が降伏した後、ベトナム北部は中国(蒋介石)が、南部はイギリスが統治する事になりました。 然し、北部では直ぐにホー・チ・ミンが共産主義の北ベトナムを建国し、南部にはフランス軍が進駐しました。 1946年からフランスと北ベトナムが戦争を始めたのです。これを、『第一次インドシナ戦争』と呼びます。

 1949年、フランスは傀儡政権(ベトナム国)を設け、ベトナム人の軍隊を編成させて一緒に戦う体制を作りました。思うように事が進まなくなって、フランスは1954年に軍隊を引き揚げました。

 アメリカは1950年に軍事顧問団をサイゴンに派遣し、その後・ドンドン深みにはまって行きました。フランス撤退後は、アメリカが中心になって『南ベトナム(ベトナム共和国)』を支援しました。

南ベトナムで頻繁に発生した軍事クーデター :民主主義/自由主義の経験が無い国に、民主主義を伝える為の傀儡政権を作ったら、国民の多くが「民主主義/自由主義は素晴らしい」と感じる様になるまで、半世紀以上に渡って支援し続ける必要が有ると私は考えます。そして、傀儡政権の軍隊を完全に文民統制にする事が肝要です。

 南ベトナムでは、将官達が自分が掌握する部隊を使って軍事クーデターを起こし、国のトップになろうとしました。10回以上も軍事クーデターが発生しました。 傀儡政権は、首都サイゴンにクーデターを防止するために多数の兵を駐屯させました。 その部隊の中からクーデターを起こす輩が出たのです。傀儡政権のトップにとっては、ベトコンよりもクーデター対策の方が重要だったと想像します。

 1973年にアメリカ軍が撤退し、76年にベトナムは共産国家として再統一されました。私が機械を輸出した1998年頃のベトナムは、工業化が進まない貧しい国でした。21世紀になって西側諸国からの投資で、工業化が進んでいる様です。今のところは、中国よりも国民は自由に暮らしている様に見えます。

 ベトナムには選挙制度が有ります。政党は共産党しか認められていませんが、無所属でも立候補出来ます。但し、立候補者を共産党が審査しています。 

(余談 :私の懸念) 将来・豊かな国になると、共産党の幹部に賄賂を渡して便宜を図ってもらおうとする輩が必ず出てきます。一党独裁では自浄作用が期待出来ませんから、共産党が民心から離れて行って、「(中国の様に)軍隊や警察で国民を抑え込む国家になるのでは?」と私は危惧しています。

(余談 :共産主義) マルクスの共産主義の考え方は、「土地と生産設備を国有化して、労働者の為の国家に変える」でした。1919年に共産党がほぼ政権を掌握しようとしていたロシア(ソビエト)が中心になって、各国の共産党の闘争を助け合う『コミンテルン』が結成されました。然し、ホー・チ・ミンの考え方は、「他国の事より、ベトナムを独立させて、共産化する」でした。

★ フランスが侵攻開始 :1847年
★ フランスの植民地 :1889年~
★ ベトナム共産党 :1930年・・・ホー・チ・ミンが中国(香港)で設立。
★ 越南復国同盟会 :1939年・・・安南皇族のクォン・デらが中国(上海)で設立。
★ 日本軍の進駐 :40年~45年
★ ヴィシー政権の崩壊 :44年→→フランス共和国臨時政府(ドゴール首席)
★ 明号作戦 :45年3月9日
★ 日本の降伏 :45年8月
★ 八月革命 :45年8月・・・北ベトナム(ベトナム民主共和国)を建国。
★ フランス第四共和政 :46年~58年
★ 第一次インドシナ戦争 :46年~54年・・・フランスと北ベトナムの戦争
★ ベトナム国 :49年~55年・・・フランスの傀儡政権
★ アメリカの軍事顧問団 :50年・・・トルーマン大統領の時代でした。
★ フランスの撤退 :54年
★ 南ベトナム(ベトナム共和国) :55年~75年
★ ベトコンの結成 :60年・・・正式名は『南ベトナム解放民族戦線』です。
★ 第二次インドシナ戦争 :60年~75年・・・『ベトナム戦争』とも呼ばれる。
★ アメリカが介入 :61年・・・ケネディ大統領の時代でした。
★ アメリカ軍の撤退 :73年
★ 南北再統一 :76年

【現在の植民地】
 第二次世界大戦後に独立運動が激しくなって、欧米諸国は植民地を解放(放棄)しました。 民主主義や人道主義の考え方で解放した分けでは決して有りません。「大戦で国力が低下した欧米諸国が、激しくなる抵抗を抑えて、植民地を維持するのが難しくなったからだ」と私は思います。

 現在でも一部の植民地は解放していません。次で検索して見て下さい。(ビックリされる程、沢山残っています。)
 ウイキペディア 『海外領土・自治領の一覧』

 時々・問題になるのが、キューバに有る『グァンタナモ米軍基地』です。グァンタナモ米軍基地については、次回に書きます。

第7章 :イギリスの民主化
【イギリスの基礎データ】

 イギリスの正式な国名は、『グレートブリテン及び北アイルランド連合王国( United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)』です。

 昔のイギリスの人口は、ビックリされるほど少ないです。ウイキペディアのデーターを書いておきます。
1200年≒350万人、1300年≒500万人、1400年≒350万人、1500年≒500万人、1600年≒625万人、1700年≒925万人、1800年≒1,600万人、1900年≒4,200万人、1950年≒5,400万人、

★ 人口 :6,645万人(2018年)  (日本≒12,536万人・・・2021年)
★ 面積 :24.5km2 (日本37.8≒万km2)
★ 民族 :イングランド人83%、スコットランド人8%、ウエールズ人5%、アイルランド人3%
★ 一人当たりのGDP :39,229ドル(2020年) (日本≒42,928ドル・・・2021年) ・・・MER

【イギリスの年表】
 民主主義の進歩と言う視点で、イギリスの年表を作成しました。

 日本の鎌倉時代の1215年にイギリスでは上院(貴族院)が出来て、民主主義化の一歩を歩み始めました。 国内であまり血を流すことなく、少しずつ民主化が進みました。1574年には農奴解放を完了しました。 然し、海外では16世紀頃から、(習近平政権の様に)覇権主義政策で弱小国を植民地化して、沢山の血を流す事になりました。

 植民地から得た富がイギリスに蓄えられ、手工業と商業が発展しました。その結果、イギリスで第一次産業革命が起こり、イギリスは更に発展し、世界の強国になりました。第一次産業革命で得た工業技術が、日本を含めた多くの欧米諸国に広がり、世界は豊かになっていきました。

 イギリスは二度の大戦の戦勝国だったので、古い伝統が今でも沢山残っています。 その中には良い点も有りますが、悪い点も多々有ります。

★ 大憲章(マグナ・カルタ) :1215年・・・イングランド国王の権限を制限する憲章(基本的なおきて)・・・当時は貴族や聖職者の議会しか無かった。
★ シモン・ド・モンフォールの議会  :1265年 :貴族、聖職者、騎士(中小地主)及び都市代表者を集めた会議でした。
★ 模範議会 :1295年 ;貴族、聖職者と庶民の議会
★ 庶民院(下院) :下院は14世紀に長い時間を掛けて成立しました。
★ ワット・タイラーの乱 :1381年・・・農民の反乱
★ 宗教改革 :1534年~59年
★ イギリス東インド会社 :1600年~1858年→→インドの植民地化
★ 清教徒革命 :1642年~1549年 ; 絶対王政の打倒。議会制民主主義の優位。アイルランド再征服
★ 王政復古 :1660年
★ ハドソン湾会社 :1670年・・・北米大陸との貿易を目的に設立されました。(現在はカナダに本社が有ります。)
★ 王立アフリカ会社 :1672年~98年・・・奴隷貿易
★ 名誉革命 :1688年~89年 ;クーデターです。
★ グレートブリテン :1707年 ;イングランドとスコットランドが合併
★ 産業革命 :1760年代~1830年代→→ブルジョア階級の成長、都市の発展
★ 連合王国  :1800年、グレートブリテンとアイルランドが合併
★ 第一回選挙法改正 :1832年、下院の選挙権を産業資本家など中間層に拡大した。(男性のみ)
★ 第二回選挙法改正 :1867年、下院の選挙権を都市労働者上層に拡大した。(男性のみ)
★ 第三回選挙法改正 :1884年、下院の選挙権を農村働者に拡大した。(男性のみ)
★ 議会法 :1911年
★ 第四回選挙法改正 :1918年、下院選挙で21歳以上の男性と30歳以上の女性に選挙権を与えた。

◎◎◎ 1919年1月『職業としての政治』講演 ◎◎◎

★ アイルランド自由国 :1922年 ;独立
★ 第五回選挙法改正 :1928年、下院選挙で21歳以上の男女に選挙権を与えた。(普通選挙
★ 議会法 :1949年・・・上院の権限を縮小して、下院が上位で有る事を明確にした。
★ 一代貴族法 :1958年、一代限りの貴族を定期的に創設し、貴族院議員にする制度。
★ サッチャー首相  :1979年~90年・・・サッチャーは貴族院(上院)議員でした。
★ 貴族院法 :1999年、世襲貴族が貴族院議員を世襲する制度を廃止した。
★ 憲法改革法 :2005年、貴族院(上院)の司法権を廃止した。
★ 最高裁判所を設立 :2009年、(それまでは、最高裁判所の役割を貴族院がしていた。)

【議会制度】
 イギリスで近代的な議会制度が始まったのは、1215年の大憲章(マグナ・カルタ)の制定からですから、800年の歴史が有ります。。国王の権限を制限する方向になっていきました。上院(貴族院)/下院(庶民院)の二院制度は1330年からです。

 後で出来た下院は、初期には権限が殆ど有りませんでしたが、次第に力を付けて来ました。そして、下院が上院の権限を少しずつ剥奪する様になりました。

 上院には現在でも選挙は有りません。上院の議員は、貴族と英国国教会の聖職貴族で、議員になったら死ぬまで議員です。 上院は近年まで最高裁判所の役割をしていました。

 首相と大臣は、上院議員か下院議員の中から選ばれます。現在では、下院議員が多いいですが、サッチャー氏は上院議員でした。

(豆知識 :下院議員の辞職) 下院議員が辞職する事は出来ない事になっています。如何にもイギリス的な逃げ道を用意しています。 官職に就くと議員を辞職する制度が有るので、実態の無い官職に任命するのです。近年ではキャメロン首相は『ノースステッド荘園執事』に任命して貰って、議員を辞めました。

【農奴解放】
 イギリスも昔は農奴制でしたが、1381年の『ワット・タイラーの乱』から農奴制度は衰退し、1500年頃にはほぼ廃止され、1574年には完全に廃止されました。 (ヨーロッパ諸国では、早い方でした。)

(余談 :奴隷貿易) 15世紀~19世紀の前半に、アフリカの王国が奴隷狩りで集めた人間を→→ヨーロッパ諸国の商社が購入して→→アメリカ大陸に運んで→→奴隷として売りました。 イギリスは16世紀には、自国の農奴は解放しましたが、1672年に、奴隷貿易をする『王立アフリカ会社』を設立しました。 イギリスで奴隷貿易が禁止されたのは1807年です。 (1,200万人ほどの奴隷がアメリカ大陸に運ばれた様です。)

 奴隷貿易が次第に下火になった理由は、❶奴隷狩りの対象民族の人口減(取り過ぎ)→奴隷の現地価格が上昇した、❷南米の農産物価格が低下して奴隷を購入するのが難しくなってきた、➌奴隷が生んだ子供(=奴隷)が増加して→自給自足状態になった。 ヨーロッパ諸国で人道主義が芽生えて、奴隷貿易を止めた分けでは決して有りません。 当時は日本の方が、人道主義的だったと思います。

【植民地政策】
 日本では『関ヶ原の戦い』が有った1600年に、イギリスではインドに進出する目的で『イギリス東インド会社』を設立しました。 その後は、アジア以外にも、南北アメリカ、アフリカ、オセアニアに進出しました。

 イギリスが植民地化して、貿易収支が何時も黒字になった分けでは有りません。イギリスはインドに毛織物を輸出しようと目論見ましたが、暑いインドでは殆ど売れませんでした。インド産の綿花は、イギリス内で需要が有りました。(貿易収支が赤字になったのです。) 輸入した綿花を手工業で布(更紗)にして、インドに輸出しました。 これで、イギリスの手工業が発展する事になりました。

アヘン戦争 :1840年~42年 ;1757年に清国は広東港でヨーロッパ諸国との貿易を始めました。 イギリスから中国に輸出出来る製品は殆ど無かったのですが、中国産の『茶』の需要がイギリスで爆発的に高まりました。 困ったイギリスは、英領インドで阿片(アヘン)を作って中国に持ち込みました。当時の中国はアヘンを禁止していたので、イギリスと戦争になったのです。(欧米諸国で麻薬が禁止される様になったのは第二次世界大戦後だったと思います。当時は薬の一種と考えられていました。)

 イギリス軍✙インド軍≒1.9万人に対して、清国軍≒20万人が戦いましたが、イギリス側の圧倒的な勝利に終わりました。清国が多額の賠償金を支払い、香港を割譲して和睦しました。

★ 英領インド :インド✙パキスタン✙バングラデシュ✙ミャンマー✙スリランカ
★ 北アメリカ :アメリカ✙カナダ
★ 南アメリカ :島国を沢山領有しました。
★ アフリカ :南アフリカ✙エジプト✙・・・非常に多くの国がイギリスの植民地になりました。
★ オセアニア :オーストラリア✙ニュージーランド✙・・・他多数

(豆知識 :王室属領) 日本では話題になりませんが、イギリスの王を元首とする『王室属領』が今でも存在します。 ❶チャンネル諸島(人口≒16.4万人)、❷マン島(8.6万人)

【第一次産業革命】
 産業革命が起こる前のヨーロッパ諸国の物作りは手工業でした。布の主原料は羊毛で、綿花では有りませんでした。手工業は農村部で行われていました。 イギリスは、手工業の時代には大陸の国より少し劣っていました。 裕福な商人達が増えて来ていました。

 何故?イギリスで最初に産業革命が起こったのか? 私の考えた答えは、❶農奴解放が一早く(16世紀)に行われ、農民が工場労働者に転職出来た、❷植民地(インド)から得られる利益が大きく、資本の蓄積が出来る様になっていた、➌奴隷貿易による莫大な利益、➍植民地から綿花が多量に入手出来た。

 産業革命の原動力になった発明/開発を下に列記しました。 (★印はイギリスで、△印は他国での発明/開発を示します。)

 機械化によって量産出来る様になっただけで無く、品質も大幅に向上しました。 工場の建設に多額の金が必要になりましたが、超豊かなブルジョアを誕生させる事にもなったのです。

★ ワットの蒸気機関 :1769年に開発しました。
★ 紡績機 :1779年に発明・・・糸にする機械
★ 力織機 :1785年に発明・・・布を織る機械
△ 蒸気船 :1783年、フランスで実用化されました。
★ 実用的蒸気機関車 :1825年に開発しました。
★ 直流モーター :1832年に発明・・・電源は電池でした。(発電機は実用化されていませんでした。)
△ 発電機 :1852年~54年頃にハンガリー人が試作機を完成しました。








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